二章・《Part_C ――舞浜夏樹の場合》
コーヒーのグラスが、ひどく滲んでいる。
中身の濃緋色が、溶けだした氷に透明度を増す。
手に取って、それを口元に向けて傾けると、
「……、……」
つーっと、冷たい感触が手首を伝い、腕を通り、肘へと滑り落ちていった。
「……相談、ですか?」
「……、……」
――なんの? と問う彼女に、俺はしばし無言を返す。
返すべき言葉が定まらなかったわけではない。彼女に言う台詞は、胸の中で明確にある。
しかし、言葉を返すべきであるのかが分からなかった。
果たして、
「……。」
口火を切ってしまった俺には、
――その続きを言う責任があった。
「…………。……俺はさ、こんなことをしてよかったのかね」
「こんなこと?」
遠回しになるのがワザとらしいものに感じられて、俺は仕方なくその言葉を吐き出した。
「……俺みたいな異物が、佐倉や鳩羽なんかに関わっていいのかなーって」
「……、……」
ワザとらしいのは嫌だった。
それは今に限った話ではない。いつだって、俺はワザとらしいのが嫌だ。
……佐倉や鳩羽は、至極切実に彼らの問題と向き合っていた。それは、間違いなく真摯な態度である。他方の俺はどうだ、彼らの問題に「首を突っ込んだ」だけだ。
――その顛末が彼らのお気に召す物に仕上がったからまだいい。などと言えるか?
俺がしたのは、大人が子供の宿題を代行したのにも変わらない行為に違いない。
「どうして、そんな話を私に?」
「佳城は、……俺側の人間だと思ったから」
「……、……」
だから、彼女が「これ」を、どう捉えているのかを知りたいと思っていた。
どんな理由で以って、この状況を肯定的に捉えているのか。
彼女は、
「ははは」
と笑って。
「一緒にしないでくださいね」
と、短く告げた。
「……、……」
「私は別に、境遇でツルむ相手を選んでるわけじゃないですよ」
ですからそっちも、好きに選べばいいと思いますケドね。
「私は、……私ね、もともとそこまで口が上手い人間じゃなかったんですよ」
俺は、その言葉に佳城の目を見る。
彼女の言葉の内容への真偽以前に、この文脈を受けて彼女が、かような言葉を返した意図が掴めなかったためである。
他方佳城は、
「まあ、聞いてくださいよ」
と挟んで、言葉を続けた。
「口下手だったんですよね。考え方も今よりはカタくて、ストレスってのは受け入れるものだと思っているような人間でした」
ストレスを受け入れられない人間は、弱い人間だと思ってるタイプです。と彼女。
「それが、一年前くらいの私です。……一年間も人と会わないでいたら、その代わりに自分と話すしかありませんでしょ?」
「……、……」
俺も、似たようなものであった。
「ですから、自分と話していました。胸の中にいる自分に向けて、頭の中にいる自分がね。大抵は、――自分はどうあるべきなのか、についての話をしていました」
朝も夜も、晴れの日も雨の日も、たゆまずに。
……そしたら、
「三か月も立ったころに、私は耐えられなくなった」
「……。」
「自己批判のネタなんて、幾らだってありましたから。……でも多分、そんなの私に限った話じゃないでしょ?」
だから、四六時中続けられたんです。
「だけど、心の方は早々に音を上げた。私は一つ、――結論を出しました」
「……。」
「人は、誰にしたって弱いんだ。って」
――きれいな結論でしょう?
と、佳城は言った。
「それを以って私は、自分を許しました。
自分を許すばかりじゃいけませんから、他人も許しました。
間違っている他人を見つける度、その内面を推し量って、その人物の苦悩を、持っているはずの切実な一面をイメージした。
そうするだけで私は人を許せた。三か月の自己批判で得た苦痛を、その人物と共有できた気がしたんです。
そりゃあ当然、そんな誰かだって、別に私みたいに四六時中自分を否定したなんて過去があるわけじゃありませんけれど、でもきっと、ふとした瞬間にたった一言でも自分を否定したことがない人間なんていないでしょ? だから、そんな苦痛に敢えて身をさらすことが出来た誰かのことを、私は尊敬出来たんです。尊敬出来て、共感出来て、だから許せました。
まあ、……仮に一度の自己批判もなくすべてを他人のせいにして生きてきたような人間がいたとすれば、そんな人間からは距離を置けばいい。大抵の人間のことを、私は許せますし、許せない人間と縁が繋がってしまったとすれば、そんなときは本心なんて上手いこと隠してやって、それでにこやかに挨拶だけはしておけばいい。それでみんな幸せです。誰かを否定することなんてない。私が否定した誰かは、もしかしたら私が受け入れられなかった価値観で以って世界に何かを残すかもしれない。私は、他の全ての人間のように弱いですから、嫌いな誰かの本当の価値を見抜けなかったとしても仕方がないことです。本当に忌むべきことは、そんな『弱い誰か』が別の誰かを、その脆弱な価値観で以って否定してしまうことです。
そうして、私は」
「……、……」
「幸せに、なりました」
佳城が、コーヒーを取る。
ゆらりと、それを唇に近づけて、グラスの縁に唇を浸し、すするようにしてそれを飲み込み嚥下する。
ことり、とグラスの底が音を立てると、それっきり音がなくなった。
静寂に耳が慣れて、先ほどのようにして、冷房の低い音が目立ち始める。
俺の後方では、コーヒー機材を扱う金属音が時折上がる。まばらな客がカップをソーサーに置くたびに、涼しげな音が店に響く。
大きな音を嫌うような雰囲気が、店内には満ちていた。
或いは、小さな音であればいいという認識を、この店内にて微睡む人々は共有していた。ふと鳴る微かな音階が、耳を通って脳に浸透していく。その小さな胎動が、肩の力を解していく。
ずり下がっていく腰の位置を整え、視線を正しい位置に戻すと、
「……、……」
頭が少し、冴えた気がした。
「いいことじゃ、ねーの?」
「いえ? いいことですよ。人を許せる私はかっこいいはずですね」
「俺に聞かれてもわかんねえけどな……」
「人に聞かないと分かんないですよ。かっこいいかどうかは相対評価ですから」
「そうかい」
「でもね、正しいことかはわかんないんです」
「……、……」
……いいことだと、確信はしているのに。
彼女はそう言った。
「いいことですから、曲げません。だけど私の成長は打ち止めです。自己批判が無くては、自己訂正がない」
「訂正するべきものがないってんなら、出来上がったってことじゃねえかよ?」
「そんな自覚がないんです」
彼女は続ける。
「幸せになってみて、気付きました。ストレスってのはスパイスです。過剰摂取は毒ですが、多少の刺激感が無いのも野暮ったい」
「……。」
「私は、私を許さないことが出来ないんです。ストレス過剰だった私は遂にストレスを全く排除する方程式を見つけて、だからこそ、その最善手から敢えて目をそらすことが出来なくなりました。そんな時に、
――あなたと出会った」
俺はふと視線を流す。
そこで、佳城と目が合った。
「センパイは多分、自分を許していないんでしょう?」
「……、……」
「見ればわかります。それ以上はわかりませんけれどね」
「……よくわかんないよ」
「まあ、私の勘違いって線もありますよ」
……なんだそりゃ。
「ああそうだ、センパイの相談ですけどね。簡単な話ですよ多分」
「うん?」
「喜び慣れてないだけでしょ」
「――――。」
その一言で、俺の思考が空白となる。
「喜ぶのが下手な人間は、楽しかったことにイチャモン付けようとするんですよ。例えばー、そう。……あそこはもっとうまくできたはずだったーとか、どうせ明日からはまたつまんないのに今だけ楽しくてもしょうがないーとか」
「……、……」
「マジでそう思ってる間は、一生そのままですよ。実際本当に、もっとうまく出来たシーンはあったでしょうし、明日からはまたつまんないんでしょうしね」
「……変わらないって。そうかな」
「そうですよ。絶対」
「……、……」
少し、悩んでしまう。
言われてみれば、確かにきっと俺は喜ぶのに慣れていない。きっと俺の明日は、楽しかった今日とは比べ物にならないくらいにしょうもないものだろう。しかしそれは、確実な事実だ。
目を背けてどうする。まだ見ぬ明日に期待しろとでもいうのか。
そんなものは、不可能である。
「……。」
――俺の表情を受けてか、
「なら、こういう聞き方をしましょうか」
佳城は文脈を変えるように、努めて軽やかな口調で言う。
「なんだよ?」
「どうして、喜び下手の人間は、覚悟して悲しい方がマシなんだと思うんでしょうね?」
聞いて、
ふと、考える。
「……、……」
恐らくは、「喜び」に縁遠いからではないだろうか。
だから喜びの旨味を知らない。想像できないから、努力してまで求めることが出来ない。
そんなところか。
「半分正解ですね」
佳城は言う。
「多分センパイは、嬉しいのが分からないのと同じくらい、悲しいって感情もちゃんと知ってるわけじゃないんじゃないですか?」
「……わかんねえけど」
「まともに感動したことがないんですよ」
嬉しい方にも、悲しい方にもね。
「ですから、提案です」
その言葉を置いて、佳城が再びグラスを持った。
そして、それを勢いよく飲み干して、――そして言う。
「あの橋の上、今日行ってみてくださいよ」
※このあとすぐに、短いですがもう一話投稿予定です。
よろしくお願いします。




