二章・09
「早かったなぁ」
「全くです」
俺の独白に、佳城がそのように同調した。
それはとある日曜の午後。
暦的には駆け足に訪れた梅雨の曇天の最中のこと。
冷やかしじみた始まりとはいえ、気持ち的にはちょっとした大事となってしまった催し事を前に、俺たちはその約束の時間よりもずいぶんと早く最寄りに到着してしまって、……さてと思い立ち、適当な喫茶店に身を寄せていた。
「……。」
或いは、雨の気配が立ち込める今日の日和のせいだろうか。
俺たちが訪れた最寄り、――この辺りでは最も繁華を謳歌するこの街には、今日は人の往来が希薄であった。
また、それはこの喫茶店にも同様であって、回転率で儲けを出すべき系列店の端くれたるこの店は、全くミルを引く音一つさえが耳に残るほどに閑散としていた。
そんな貸し切り状態の片隅で、俺と佳城は脱力している。ちなみに今日の花形たる佐倉は欠席であった。何やら、先に準備があるということらしい。或いはサークルの方に顔を出しているのだろうか。
「……というか、この先三年間の試金石になるはずの最初の一週間じゃねえの?」
「はあ?」
「記憶がほとんどねえんだけど……」
「……ヤバいですよねえ」
一応、俺が落ち着くグループは決まってきたつもりである。基本的には教室で俺があてがわれた席の直近のメンバーで固まって、昼休みなどは過ごしていた。
友人関係が軌道に乗ったという自信は一応あるのだが、しかしあまりにも彼らと過ごした時間が思い出せない。なんでだろう、なんというかこう、割愛されたっぽい感覚がある。ページの都合かもしれない。
「しかし、……結局、君の『秘策』は伏せられたままだったね?」
「……、……」
あの日、俺たちが本番の大まかな方向性を決めて以来、放課後に集まってやっていたことと言えばアドリブ声劇の練習が大半であった。例えば浦島太郎であったり、ヘンゼルとグレーテルであったり、時たまなぜか芥川の羅生門を挟んでみたりして、俺たちはずっと「こんな○○じゃめでたし出来ない」的に改変した脚本で以って本番のリハーサルを行っていた。ちなみに浦島太郎の時は太郎がマゾで、ヘンゼルとグレーテルの時は兄妹揃って極度の虫歯で、羅生門ではカツラ作ってるおばあちゃんのCVが水瀬い〇りさんだった。特に最後はヤバい、おばあちゃんを許しそうになる自分を気力で保った。
閑話休題。さてと、
そんなわけで、佳城の言うところの「考えがあります」なる秘策については、未だその正体は謎のままであった。
というか、最低限の脚本だけ用意してあとはアドリブで進めるなんていう今回の企画は演出の限りを削いだ在り方であるからして、これ以上付け加えられる要素なんて割とほんとに思いつかない。この女ぶっちゃけ適当吹かしてんじゃねえだろうか。
「いや本当に。信頼してくれていいですから」
邪魔にはならないし、確実に助けになります。とは彼女の言である。
そんな断言に、俺は更に想像がつかなくなる。確実に助けになって、かつ邪魔になることが間違いなく無い何かというのは、いっそ禅問答じみた難問に違いない。或いは、もしかしたら差し入れか何かだろうか。ポ〇リくれるってなったら確かに邪魔じゃないし確実においしいし。大量生産の旨味はまさしく品質一定の高水準にあるのである。
……いやマジでポ〇リってんじゃないよね?
「えっと、……約束の時間までは、あと四、五十分ってとこですね」
「…………そんなあんの?」
……浮足立って早く来すぎるにもほどがあったかもしれなかった。。
ちなみに、佐倉との約束の時間というのは具体的には午後二時に当たる。というわけで今は一時を過ぎたころ。お互いに昼食は済ませてしまっていて、小さなテーブルの上には二人分の甘味が広げられていた。
その内訳は、佳城の方はレモンスライスが乗ったミルクレープで、俺の方はキャラメル色のケーキタルトである。更にそれぞれ、俺たちの手元ではアイスコーヒーが汗をかいている。
さてと、佳城はそのミルクレープを、更にフォークで割って口に運んだ。
「何します? 四、五十分」
「……、……」
ぶっちゃけなんも思いつかない。
一人であれば、音楽プレイヤーに耳を預けてアルバム一周分の時間であろうか。ただ、この後に控えたイベントを思えば、そこに没入出来るという気がしない。
むしろ、呆けていた方が実益がある気さえする。ぼーっとしているというのは、言い換えればリラックスの一種在りようである。それは或いは、精神面の温存に当たるものであろう。
と、俺はそのように考えて、
「思いつくまでは、コーヒー代分くらい居座っててもいいんじゃね?」
と返答した。
「無益ですねえ」
「そんな人間の諍いに絶望したラスボスみたいなこと初めて言われたぜぇ……」
私も初めて言いました。と佳城。
「どうです? じゃあ、学校生活は順風ですか?」
話題見繕ってみましたケド。と佳城は更に付け足した。
「……、……」
仮にここで、例えば「そんな親みたいな質問ある?」みたいなツッコミじみた返答を選ぶのは気が乗らなかった。
或いは、この全く停滞した会話の速度感に、多少でも加速を促す真似をするのが嫌だったからかもしれない。ぬるま湯につかるようにして、俺は彼女との会話を重ねるたびに肩の力が抜けるのを自覚していた。
「あー。まあ……、妥当じゃねえかなぁ」
「それは重畳ですね」
彼女が言う。
「私も、予想してたほどの針の筵じゃなかったですよ」
「……、……」
全く以って、共感できる言い回しであった。
恐らくは、誰も彼もが「ストレスのない関係性を目指していた」からこそ、俺たちはあの教室に浸透できた。歳をいくつか取った程度の異分子であるなら、彼らは「彼ら自身の平穏」の為にそれを許容してくれた。
……「異文化は排除するのが人間だ」などと悲観的な概念は、なにやら過去のことらしい。恐れ続けるというのも、よく考えてみれば燃費の悪いやり方である。
なにせ、許してしまった方が、どう考えたって効率が良いわけで。
「そういえば、佐倉くんですケド」
ふと思い立ったようにして、佳城がそう言った。
「あれで案外、アドリブのセンスはありましたよね」
「……ああ、そうな」
彼女が言っているのは、恐らくは今日までに重ねた練習への評価であった。
まず、アドリブという選択肢を選んだのは、それが最も効率的に「主観を演技に落とし込む」方法であったためである。ならばこそ、その脚本の筋道の上で起こす取捨選択は個人の価値観やセンスに依存する。
それで言うと、彼はまさしく王道を歩む人間であった。アドリブというケーススタディにおいて彼が選んだ答えというのは、客観的に見ていた俺としては押しなべて王道の選択肢であった。
例えば、困った人がいたとすれば彼はアドリブで助けるし、人を困らせる誰かがいれば彼はアドリブでその人物を諭そうとする。いつか俺は佐倉を「センスのない奴」だと評価したが、正しくはアイツとは「センスが凡庸な奴」であった。凡庸であるがゆえに、彼が理想とする選択肢はそのまま概ね王道である。今日までに俺は、そんな佐倉の凡庸たる価値観を生かすような「奇をてらった対応」をこそ磨いてきたといっていい。
いや何、そんな風にかしこまった言い回しなんてしなくてもいいのだ。ただ単に俺はこの四日間を、まじめなアイツをおちょくることに費やしてきただけであった。
「……成功すると、いいんだけどなぁ」
「……、……」
返事は無く、彼女はただ、アイスコーヒーから伸びたストローをすすって答えた。
ケーキの方は、まだほとんど手を付けたばかりである。緩慢な会話に引きずられるようにして、俺はどうにも卓上に手を伸ばす挙動の方にも積極性を用意できない。
つまりはただすらに、汗をかくグラスを眺めるばかり。
グラスを汗が伝い、それが滴り足元に輪を作るのを、俺は拭うこともせずに傍観している。
このペースでは、皿の上を空にするのにはもうしばらくかかるように思う。
「……。」
或いは、そうして遂にケーキの最後一片を、フォークの背で押し倒した頃には、
持て余した時間の帳尻が合ってくれるだろうか。……などと、
俺はふと思いながら、キャラメル色の生地にフォークの側面を押し込んだ。




