0章・春を控えた、とある日
0章・春を控えた、とある日
「では、舞浜夏樹君」
呼ばれて、俺は視線をそちらに向けた。
「以上で、入学手続きは終了となります。これから三年間よろしく」
それに俺は、短い言葉と首肯を返す。
三十分程度の家庭訪問は、それでお開きとなった。
「 」
「 」
父が俺に引き継いで、これから一年間の担任となる女と会話を交わす。
そのやり取りには大人の文法がふんだんに詰め込まれていて、俺はそれをただ見ている事しか出来ない。
強いて、その会話に入りたいというつもりも特にはない。
任せられるものであれば任せてしまいたいというのが俺の本音であった。
「……、……」
担任教師と、その補佐で来たらしい学年主任の男の仕草を見て、すぐに父は、やや強引に会話を切り上げた。
それを以って彼らが荷物を取りまとめ始め、父が彼らを玄関まで送る。
俺も、三歩後ろでそれについていく。
その先で大人二人が背中を丸め靴を履く様子を、
俺と父は言葉もなく眺めているだけであった。
「夏樹君」
玄関にて、学年主任の男が俺を呼んだ。
それから、父が手早く靴を履いたのを見て、俺もあわててそのようにする。
……どうやら外まで見送るつもりであるらしかった。
「はい」
答えながら、俺も玄関を出る。
それから、視線を学年主任の方に向けながら、後ろ手で扉を閉める。
出てみて辺りを見回すと、彼らを迎えたころにはまだ多少日差しが残っていた覚えがあったのだが、空はもうすっかりと夜の様子であった。
「大変な状況だろうが、始めてみれば案外上手くいくから。気負わずにな」
「……ありがとうございます」
四月こそいまだ目前ではあるが、この街に春が訪れてからもうずいぶんと経つ。
この時期に見る夜風のぬるさと独特なにおいが、やけに目立った。
「それでは、お父さま」
「はい、ありがとうございました」
言って、彼らが用意していた車に乗り込んだ。
一軒家の駐車場はちょうど普通車二台分のスペースであって、彼らの車が抜けるとぽっかりと穴が開いたようになった。
父はその後も、車が道を曲がって見えなくなるまでずっとそちらを見送っていた。
俺は、なんだか手持無沙汰に感じられて、家の方に振り向いた。
「……、……」
妹は、おそらくはまだ寝ていないはずであったが、
二階建ての一軒家の窓は、明かりのない部屋の方が妙に目立って見えた。