001 彼女を満足させ続けなければ、俺は死ぬ
こんな真夏のピークさながらの馬鹿げた気温になるのだったら前もってハッキリと言っておいてほしかったと口にしても決して言い過ぎだなんてことはないだろう。
朝飯を食いながらにぼんやりと眺めていた天気予報の女は『長袖で過ごしやすい一日になるでしょう』などと、目の前で見たら一発でKOされるような愛らしい笑顔で言っていたが、とんでもない。
荒野の一本道さながらにどこまでも続いている俺の眼前のアスファルトロードは、フライング気味に張り切っている太陽の熱に晒されて陽炎のように揺れている。
新生活が訪れるからと気合いを入れて短髪に刈った額のみならず、高校指定の何故だか妙に値の張る白いワイシャツまでもが汗みどろだ。
肩で息を切ることもなく、荒い呼吸でぜーはーぜーはー言いながらに両腕でオールを漕ぐようにして俺はアスファルトの上を必死に歩く。
丁度いいのでこの場を借りて言っておくがここは日本国は首都、東京都の北部である。
朝方の液晶テレビの中で微笑みをかましていた女性ニュースキャスターは「カーディガンがあれば丁度良いでしょう」なんてことを爽やかスマイルで言っていて、彼女の密かなファンである俺は素直に従う従者よろしくといった具合でネイビーのカーディガンを引っ掴んで玄関を出た。
が、そんなもんは最寄の駅に辿り着く前にはスクールバックの奥底に突っ込んでいた。昼を過ぎた今じゃもう、中身を食いきって空っぽになった弁当箱と一緒になってガサゴソと揺れてるだろう。
まだたった十六年しか生きていない俺だが、人生を生きるコツってのは正解だか勘違いだかはともかくとして自分なりに掴んでる。処世術ってやつだな。
三倍も四倍も生きている大先輩はツッコミを入れたくもなるかも知れないが、そこは笑って見過ごしてくれ。
コツというのはずばり、『何においても事前準備と心の用意』は必須だってことだ。
お天気お姉さんの言葉がまるっきりの嘘っぱちで、予めに今日という日が何を担保にしたんだかは分からんが真夏を前借したかのような酷暑であったと知っていたならば、今や汗をたっぷりと吸ってアクリル毛のダンベルと化したカーディガンなんぞは、力任せに丸めてベッドの上に放り投げて登校をしていただろうよ。
それにだ。
事前に内容を知っていたならば回避の出来た事柄なんざいくらだって思い浮かぶ。
それは例えば年末の差し迫る真冬の日、家族の連中が寝静まった夜中をわざわざ狙って子供の部屋やリビングをあからさまに怪しくうろつき回る、赤い服に白髭のサンタのおっさんを子供特有の純真な心ときらきらと輝く瞳で待ち構えた挙句その正体が親父であるというお寒い現実を知ることはなかっただろうし、初恋だった華のように可憐で美しかった親戚の姉ちゃんがとっくにお相手持ちだったなんつう失恋のショックを受けることもなかった。
そして何より!
『とある女を心底退屈させてしまった場合、俺の命はそこで終わる』などという、とんでもない呪いをこの身に受けるようなまじないには決して手を出さなかった!
なかったんだ!
地獄の責め苦のリストの一項目を飾っていそうなぐらいに熱く、隣県の臨海公園まで続いているとウワサのアスファルトの上を俺は走り続ける。
何があろうとも走り続けなければならないのだ。それは何故か?
止まってしまったその瞬間、正確には俺の休息を退屈に思われたら最後、俺は死ぬからだ。
冗談だって思うだろ。あいにくですまないが、こいつはマジな話だ。
自分の生殺与奪権は俺じゃない別の人間が握ってる。
しかもそいつは相手が心底退屈になったら終わりなどというぶっ壊れたバランスだ。
いつゲームオーバーになるんだか分からないなんてシステムは最近のクソゲーでもそうそうないだろうよ。
吸い込む空気が熱ければ、当然俺の口から吐き出される息も炎の息吹のように熱い。
今この瞬間にポカリをガブ飲み出来るのであれば、俺は諭吉を一人でも三人でも喜んで生贄として差し出すね。
ぎらつく日光の下、俺の前にはひとりの女の姿がある。
無数の鬼に追われながらに焦熱地獄を疾走するような必死の形相を浮かべる俺とは対照的に、その女は冷ややかな空気が吹き流れる爽やかな高原を走るかのように涼しい顏をして、淡々と河川沿いに続くアスファルトの道を走り続ける。
学校指定のなんとも芋臭いあずき色のジャージとハーフパンツに身を包み、肩口までの美しい黒髪を波打たせて走るその女の名は日向朝香。
俺が彼女に声を掛けちまったのは、これから何年も続く、いや、何としても続かせなくてはならない我が人生の中でも最大の過ちのひとつであることは間違いない。
むしろ不動のワースト一位であろう。おめでとうよ。
いつか適当に書いた書状と新聞紙で折った兜をあの女に手渡してやりたいね。あいつは自分を賞賛するものであればなんだって喜色満面で受け取るさ。
前を走る彼女が俺へと振り返る。
整った眉は力強く、日々への期待と喜びに満ち溢れて輝きを帯びた瞳。
端正な顔立ちは見る者すべてを引きつける美しさ。
「中々やるじゃない!
その調子でガンガンいくわよ、退屈なんてさせないでよね!」
人の気も知らんでよくもまあ、爽やかに言い放ってくれるもんだ。
ホースで水をぶっかけられでもしたように汗みずくのワイシャツの上から、心臓の辺りをそっと撫でる。
先週に経験をした、文字通りに絶命寸前な胸の激痛は今のところは無い。
こうして俺が必死こいて彼女のランニングに付き合うことで、今のところの奴は満足をしているらしい。
「やれやれ……後でジュースのひとつでも奢ってくれないもんかね」
俺は深く息を吸い込み、いつ終わるとも知れない酷暑のランニングに意識を集中した。
何故って、そりゃあ、まだ死にたくないからさ。