第六話 『シャボン玉トラップ』
「ああもうっ、どうしてこうなっちゃうんだ……!」
登ってきた場所とは反対側の階段を、入夜は慌てて駆け下りていた。
三年四組で籠手崎澄歌の【トロイメライ】と遭遇して尻尾を巻いて逃げて来た――わけではもちろんない。バタバタと階段を下り、ついに一階まで戻ってきてしまった。ゴール直前で振りだしに戻った気分だ。
一年生の教室がずらりと並ぶ廊下の真ん中に、凛音はいた。信号機の前でアイドリング(みたいな行為)をしているランナーよろしくその場でえっほえっほと足踏みをする格好で。
「ああ来た来たっ。遅いよ入夜くん! 男の子なんだからもっとしっかりしなくちゃ」
「凛音さんの行動が迅速すぎるんですよ」
あの瞬間、真っ先に動いたのは彼女だった。恐怖に足が竦むでも呆けるでもなく、危険と察知した途端に「走るよ!」と入夜に呼びかけ、すぐ横にあった昇降口に飛びこんでいった。直感に従ってそこまで早く動ける人はなかなかいないと思う。
ほら行くよ、と先を促す凛音。それを入夜は出した右手を開いてストップをかける。
「待って下さい凛音さん。僕はこのままで帰るわけにはいきません」
「何を言ってるの。キミにどうにかできる問題じゃないでしょう?」
入夜は苦笑しながらため息をついた。
「どうにかしてみせますよ。それがここへ来た目的の一つですから」
「どうにかって…………どうやって?」
ふむ、と入夜は考える。そろそろ説明の頃合いだろうか。
雰囲気を感じとったのか、凛音は足踏みをやめてこちらに向き直る。
入夜は静かに言った。
「わかりました。ここらで【トロイメライ】についてのお話をしたいと思います」
がらんと開けた正面玄関。
一年の教室が並ぶ廊下から少し離れ、そこに入夜たちは移動していた。落ち着いた場所に行きたいと凛音からの提案があったからだ。
いくつもの下駄箱がドミノのように几帳面に並び、その反対側にはガラス越しに広い中庭が見えた。朝には――もう数時間したら、登校してきた生徒たちの制服を風紀委員が厳格にチェックを行うことだろう。
入夜は適当な壁に背を預けて座りこむ。その目の前で、ぬっと凛音が腰に手を当てて立ちふさがってきた。
「それで? そのトロイなんとかって一体どういうことなのかな?」
「トロイメライ、ですよ。凛音さんも座ったらどうですか?」
「あたしはいいよ。いざとなった時に逃げられないもの」
そうですか、と入夜は頷く。「今のところ危険性はないですよ」と言っても通じそうにないと思ったので、好きにさせておくことにした。
ため息を吐いて、一拍置く。それから入夜は切り出した。
「トロイメライというのは、夢のような存在なんです」
ほんの少し、沈黙が降りる。凛音が眉をひそめたまま固まってしまったようだ。……まぁ、たしかにこの言い回しだと理解しがたいのかもしれない。
「……うん。ごめん、意味がわからないかな」
「そのままの意味ですよ。夢のような――つまりアレは、『夢の性質』を持った存在ということです。人が眠っている間に見る夢のほうの」
んぅ? 彼女は首を傾げる。
「……えーっと。つまり、夢が現実に現れちゃったってこと……?」
「まぁ、ざっくり言えばその解釈で合ってます」
入夜は首に下げた銀色のシャボン容器を手にとり、シャボン玉を吐いた。細く鋭く息を吹きこみ、小さなシャボン玉を無数に作り出す。
んんー、と納得のいかなそうに唸る凛音。
「……やっぱりよくわからないなぁ。じゃあアレは、籠手崎さんのその……【トロイメライ】ってことになるの? ふわふわ浮いていたけど」
「恐らくは。ちなみに、あの『透明人間』も彼女のトロイメライの仕業ですよ」
「えっ、そうなの? じゃああたしたちをずっと追いかけ回してたのって籠手崎さんだったんだ?」
けれど入夜は即座に首を振る。
「厳密には違います。アレは『透明人間』でもないですし、透明になった籠手崎先輩でもないんです」
んん? と彼女はまた首を傾げる。ちょっと混乱しているようだった。
さすがに可哀想に感じたので、ここでタネ明かしでもしようと思う。
「少なくとも、実体を持つ透明人間じゃないってことは僕が証明しましたよ」
「証明したって……いつ?」
「ついさっきです。ほら、僕、昇降口でシャボン玉を吹いていたじゃないですか」
「それが何――」
言いかけて、「あ……」と凛音は声を漏らす。聡いようで、彼女もすぐにこちらの意図に気づいたようだった。
示し合わすように入夜は頷く。
「ええ。もし実体のある透明人間があの階段を登ったら、シャボン玉の一つや二つその身体にくっついているはずなんですよ。――でも、それが一つもついていなかった」
ついでに言えば、通り過ぎる時にもシャボン玉はまったく微動だにしていなかった。無数のシャボン玉の壁をまるですり抜けていくように。
「……じゃあアレって一体なんなの? それに籠手崎さんじゃなかったら、誰だっていうの?」
じ、と凛音は真剣に目を合わせてくる。あまりに目力が強すぎて、入夜は思わず視線をひょいと逸らしてしまった。
周囲を見ると、シャボン玉がいまだに中空を浮遊していた。グリセリンを混ぜているのでしばらく割れることはないけれど、割れた時に白い固形物が残るのは考えものだ。うかつに校内で飛ばすものじゃないな、と少しだけ後悔した。
そして視線を彼女に戻し、入夜は努めて穏やかにこう告げた。
「あの『透明人間』は――――僕自身だったんです」
そんなわけで少し大きめな伏線をここで回収できました。
ドンキで売っていた200円くらいの『割れないシャボン玉』が面白そうだったので使ってみた感じです。割れにくいから風に飛ばされて見えなくなるまで楽しめるのですが、ただこれ、付近に人とか物があるところでの使用はオススメしません。割れた後にねばっこいものが残るので。
良い子のみんなは誰もいない公園で一人淋しく遊びましょう!