第五話 『トロイメライ』
夜も深い校舎の中で、ふわりと幸せが浮いていた。
そんな詩的なセリフがふと脳裏をよぎる。彼女が言っていたことを思い出したからだ。
ため息を吐けば幸せが逃げていく。空気に溶けてなくなってしまう。
それはちょっともったいないから、だったらその幸せを――ため息を、シャボン玉に閉じこめてしまえばいいじゃないか、とこの銀色のシャボン容器をくれた彼女は言っていた。
ふぅー、と。
入夜は三階の昇降口から、下の階段に向かってシャボン玉を飛ばす。校舎内は当然ながら無風で、そして液にはグリセリンを混ぜてあるので、どこか遠くへ飛ばされることなく割れることなくただ浮遊し続けていた。
パチパチ、と真横から控えめな拍手が鳴る。
「夜の学校でシャボン玉かぁ。けっこう好きだなぁあたし」
そう言ったのは凛音だった。こちらを見ずに、まるで公園で遊んでいる子供を見るように目の前のシャボン玉を眺めていた。
「というか入夜くんってさ」
「……何ですか、凛音さん」
「いやさ。意外とキミ、緊張感がないのよねって」
はぁ、と入夜は曖昧に頷く。てっきり子供扱いとされるとばかり思っていた。
「こんな真夜中に学校に忍びこんで。本当、入夜くんって何がやりたいの? シャボン玉を吹いてみたかっただけ?」
入夜は苦笑して首を振る。
「はは、違いますよ」
「ならどうして?」
と眉をハの字にして小首を捻る凛音。探偵みたいに口元に手を当てていた。なんとなくその仕草が可愛らしいと思った。
「僕がシャボン玉を吹くのは、大抵嫌なことがある時ですよ。ストレス解消アイテムというか。まぁ、わかりやすく言うと煙草みたいなものです」
「ふぅん……ってことは、今入夜くんに嫌なことがあるってことか」
「はい。まぁ、今は僕だけじゃなくて、凛音さんにもですけど」
「あたしにも? それってどういう――」
言い終える前に、どうやら彼女も気づいたようだった。
タン、タン、タン――と。
まるで、誰かが階段を登ってきているような足音に。
感じからして、音源はすでに三階の踊り場辺りだった。カサカサ、という乾いた音がしたかと思うと、ついにすぐ正面の階段を登り始める。
「……ねぇ、これってどうなってるの?」
と、呆然とした様子で凛音は言った。
そこには――誰もいなかった。
音はすれど姿はなかった。
文字通り影も形も存在していない。足音も、呼吸の音も聞こえているはずなのに、その本体がどこにも見当たらない。
自然、入夜と凛音は後ろに数歩下がる。窓ガラスが背中に当たってひんやりとした感触。隣にいる凛音が前を警戒しながら視線を飛ばしてくる。
「……ね、ねぇもしかして、嫌なことってこのことだったりする?」
「さすがです凛音さん。大当たり」
「わかってたならなんで言わないの!」
「お化け屋敷で女子に抱きつかれるのが夢だったもので」
バカなのキミは!? と目を丸くする凛音。
「いいから走るよ!」
叫び、彼女は廊下を駆け出した。入夜もそれにならってついていく。後ろから姿の見えない『誰か』も走って追いかけてきているようだった。
「なんなのアレ! 透明人間? 幽霊? それとも妖怪とかそういうの!?」
「どれも違いますよ」
と入夜は即答する。
日常の裏側の、その最奥である三年四組のプレートが見えてきた。
走りながら入夜は独り言のように呟く。
「アレの存在を、僕は【トロイメライ】と呼んでいます」
「とろいめらい? 何を言ってるのキミは!」
やがて入夜は本来の目的地――三年四組に辿り突いた。そこで立ち止まる。
「ちょ、何してる入夜くん。早く逃げないと!」
凛音は慌てた様子で横にある昇降口を指さす。下に降りるよ! と促してくる。
しかし入夜はゆっくりと頭を振った。
「でももう、追ってきてはないようですよ?」
「……あれ?」
足音はすでに消えていた。さっきまで真後ろまで迫っていた荒い息づかいもなかった。
しん、と冷えるような静寂が漂うばかり。遠くまで伸びたリノリウムの床が月明かりに照らされ、白々しく光っているだけだった。
「どうなってるのこれ?」
「なるほどなるほど」
「え? ちょっと? 一人で納得してないで説明してくれないかな入夜くんっ」
と凛音は涙目で握った両手をぶんぶん振っていた。いちいち仕草が子供っぽくて可愛らしかった。
「わかりました。なら、直接ご自分の目で見てもらうことにしましょうか」
言って、入夜は教室のドアを開ける。その瞬間、ひゃっ、という凛音の小さな悲鳴。
――誰かが、佇んでいた。
ドアのすぐ内側で。
紺色の半袖セーラー。白いリボン。握れば折れてしまいそうな、華奢な手足。風もないのに美しいウェーブのかかった亜麻色の長い髪が怪しげに揺れている。切れ上がったその焦げ茶色の瞳は、吸い込まれそうなほど澄んでいた。
彼女は、才色兼備という言葉がこの学園でもっとも相応しいとされている人物だった。高嶺の花とされ、それがゆえに多くの異性から慕われた女の子だった。
「……こ……籠手崎さん……?」
見上げながら、凛音は少し震えた声でそう言った。さっきまで話題に上がっていた張本人。まさしく籠手崎澄歌その人だと思われる。入夜は彼女の顔を見たこともない。初対面だった。
後輩として一つ挨拶をしておこうと考えたけれど、やめておいた。見た感じそれはできそうにない。とても通じる相手じゃなかった。
理由その一、彼女の瞳が虚空を彷徨っていたから。
理由その二、彼女の身体が中空に浮いていたから。
幸せのように、ため息のように、シャボン玉のように、【トロイメライ】は入夜の眼前で浮遊していた。
ようやく冒頭の時間軸に辿り突きました。冒頭をベースにせざるを得なかったのですが、なるたけ退屈しないように工夫は凝らしてみました(まだ足りないかもです)
次回は謎に包まれた【トロイメライ】の正体が少しだけ明かされる予定です!