エピローグ
今日は、絶好の登山日和だ。
長く長く伸びた木々の枝葉が頭上で重なり合って、そこから温かな木漏れ日が差している。
凛音は軽く伸びをして澄み切った空気を肺いっぱいに吸いこんだ。こうして剥き出しの地面を一歩一歩歩いていると、自分の中の内側のモヤモヤとしたものが心地良い汗と一緒に流れていく気がする。
山は色々なものを落とす、という父の言葉を思い出す。だからこの休日に山登りをしようと思い至ったわけだけれど、そのモヤモヤの原因がいまだにわからなかった。
四合目までたどり着き、ベンチがあったので一休み。大きめのリュックを足元に降ろす。
「……はぁ、今日も平和だなぁ」
なんて呟いてみたり。
平和は平和だけど、なんか腑に落ちない。失踪していた可愛い後輩も無事戻ってきたし、最近になって自分の向こう見ずな欠点にも気づけて全体的に一歩前進、という感じなのに。
……なのに、何かがまだ欠けている気がする。忘れてしまっている気がする。
凛音はリュックから水筒と、それから一枚の紙切れをとり出した。冷たいお茶で喉を潤わせながらその紙を眺める。
「うーん」
これが『欠けた記憶』に結びつきそうだと直感が言っているけれど、いくら穴が空くほど見たところで何も変化は起こらない。
諦めて水筒と一緒に紙をリュックにしまい直し、凛音はまた歩き出した。
登山は順風満帆に進められた。
だけどそれは七合目を過ぎた辺りで、異変が起こった。
「……なんだろ、あれ」
少し先の地面に、明らかに不自然なものが置いてあった。近づいてみるとそれは石だった。無数の小石が人二人分ほど入る大きさの、ミステリーサークルみたいな円を描くように並べれていて、その中に『入』の文字が小石で作られていた。
「……えっと、『この中に入れ』ってことなのかな?」
周りに誰もいないことを確認し、
「お、お邪魔します」
好奇心をくすぐられるままに恐る恐るサークルに足を踏み入れてみる。まさかの落とし穴じゃないよね? と一瞬頭をよぎるも、それは杞憂に終わった。
「……、…………、………………、」
サークルの中に入ってみたけれど、特にこれといった変化はない。異世界に飛ばされるわけでもなく、落とし穴なわけでももちろんなく……。
「はぁ、ちょっと期待したんだけどなぁ」
そう言ってサークルを出ようとした、その時だった。
上のほうでガララッという不穏な音がした。かと思うと、その音はどんどん大きくなり、軽い地響きをともなって、『それ』は起こった。
石が、頭上から降ってきた。
「ひゃっ」
間の抜けた悲鳴をあげ凛音はその場でしゃがみこみ、急いでリュックを頭に掲げて目をぎゅっと瞑る。ガララ、ゴロロロッという連続した渇いた音がそこかしこに響いた。それはほんの数秒の出来事だったけれど、体感的には数分にも感じられた。
ようやく音がやんで、そろそろと目を開けてみる。
すると、信じられない光景がそこにはあった。
「なに、これ……?」
周りにリンゴやスイカ大の大きめな石がゴロゴロと転がっていた。一つでも当たっていれば無事じゃ済まされなかったと思う。石は自分がこれから向かおうとしていた前方にも降り注いでいた。
呆気にとられていると、後ろから声をかけられた。
「大丈夫かしら?」
と、ガラスの縁を指でなぞるような透き通った声で。どこかで聞き覚えのある声だった。
振り向くと、天ヶ紅高校のセーラー服を来た女の子が立っている。長く濡れたような黒髪に、赤縁眼鏡をかけていた。
「……あなたは?」
「白川愛河よ。……本当に、何もかも忘れてしまっているみたいね」
「?」
「こちらの話。でも、ふぅん。噂以上に面白いわね、それ」
何が? と聞くと、彼女は凛音の足元を指差した。
「そのサークルよ。二日前くらいに伊鳴山で奇妙なサークルがあるって聞いたけれど、足を伸ばしてみた甲斐があったわ」
言われて凛音は足元のサークルを見る。
小石で描かれた円の中に、『入』という文字の入った不思議なサークル。
もっと不思議なことに、そのサークルの中には降ってきた石の一つも入っていなかった。すぐ外側にはゴロゴロと転がっているのにも拘わらず。自分の身体をペタペタと触ってみても傷一つなかった。もしもこの円の中に入っていなかったらと考えると――。
……でも、二日前にはあったという、このサークル。
一体誰が、何のために作ったのかはわからないけれど。もしかしたらこの瞬間のために作られたんじゃないかってそんな夢見がちな空想すら浮かんでしまう。未来を予知できる誰かが、自分を助けるために作ったんじゃないかって――
白川と名乗る少女は小首を傾げた。
「なぜ、あなたは泣いているの?」
「あ……れ……?」
気づけば頬に、熱い雫が伝っていた。
どうしてかわからない。涙が次から次へ、とめどなく流れていく。ぽろぽろと零れた涙液が、『入』の文字を作った小石や地面に落ちては染みこんでいった。
泣きながら凛音は首を振る。
「どうしてだろね。……でもあたし、今、すごく嬉しいって感じてるの」
◆
「これで良かったのかい?」
と、チャコール・グレイの毛並みの猫が言った。
鉄橋の手すりにちょこんと居座り、後ろ足で器用に首をかいている。その正体は入夜の幼なじみであるはずの朝倉楓だったが、どうやら身も心もすっかり猫化しているようだった。
遠くでその身を埋めようとする夕日をぼんやりと眺めながら、入夜はうなづく。
朝倉はやれやれといった調子で肩をすくめてみせる。
「せっかくボクの能力で君の悪夢を封じていたというのに。よっぽどあの女の子に感化されたみたいだね」
ちょっと妬けてくるよ、と猫の姿でおどけてみせる。
「たった一つの出会いが、人生を大きく変える時だってあるんだよ」
「……へえ」
「へえって。朝倉が僕に言ったことなんだけどね」
「知ってるよ。今の『へえ』は、まだボクの言葉を覚えていてくれたんだの『へえ』だから」
入夜は首元に下げたシャボン容器を手にとった。
「僕は、僕の夢を叶えることにしたんだ。誰に何を言われても、それがはたから見たら滑稽に映ったとしても」
「世界平和、ねぇ。大きな夢、というよりいっそ巨大すぎる夢じゃないかい?」
「問題ないよ。僕と、君がいればね」
即答すると、彼女は眉をしかめるような表情を作る。
入夜はシャボン容器を手の平で転がした。
「いつか僕は、朝倉の夢を解いてみせるよ。君を現実の世界に引き戻してみせる」
「それでボクに君の夢のお手伝いをしろって?」
「そこまではさすがに言わないけどね。できれば手伝って欲しいなって」
「……」
朝倉は返事をせず、手すりからひょいと飛び降りる。その瞬間、いつの間にか人の形に変わっていた。チャコール・グレイのセミロングの髪がなびき、その肩越しに、白く整った顔を覗かせる。挑発的で、どこか寂しげな表情だった。
「せいぜい楽しみにしてるよ。ボクはいつでも、あの公園で待っているから」
そんな言葉を残して、彼女は去って行った。
入夜はため息をつく。シャボン容器のキャップをあけ、銀色のストローを軽く叩いて余分についた液を落とす。シャボン玉を固めるグリセリンはもう混ぜていなかった。息をこめて、どこにでもある普通のシャボン玉を作り出す。
泡沫のように、浮かんでは弾けるシャボン玉。
夕焼けに浮かぶそれはとても自然で美しく思えた。儚いからこそ美しくて、グリセリンで固めてしまえばそれは台無しになってしまっていただろう。
微風に吹かれたシャボン玉を、入夜は何気なく目で追った。真横にふらふらと所在なげにやってきて、パチンと割れる。とそこで、
「……あ、シャボン玉」
唐突に、そんな眠たげな声があった。
まるで割れたシャボン玉から出てきたみたいに、入夜の目の前に一人の女の子が立っていた。
天ヶ紅高校のセーラー服に柔らかくなびく薄茶色の髪。同色の瞳。大人びた顔をぽかんとさせて、やっぱり子供みたいだった。
「凛音、さん……?」
「キミは美術室に来てた……。そっか、キミだったんだね」
「どういうことです? というか、どうしてここに――」
これ、と遮るように彼女は持っていた紙切れを入夜に渡す。
「これは……」
そこには、絵が描いてあった。
橋の上に一人の少年が立っていて、シャボン玉がその周りに浮遊している。リアリティはないけれど、ノートの隅に描く可愛らしい落書きのような、絵本に出てきそうな優しいタッチ。ぼやけたイメージを浮きだそうと鉛筆で何度も線を引いているのが見てとれる。
凛音は困ったように笑った。
「あんまり覚えてないんだけどね、夢でこんな場面を見た気がするの。もしかしたらって思って来てみたんだけど、まさかキミがいるなんてね」
「……本当、あなたには敵わないですよ」
「え?」
なんでもありません、と入夜は首を振る。
せっかく後腐れなく別れを告げたというのに、この人は。
入夜はため息をついた。ストローに口をつけ、そのため息を流しこむ。諦めに似た青息吐息で小さなシャボン玉が無数に生みだされていった。
やがて息を吐き尽くした入夜は凛音に向き直る。まさか自分がこんな事をするだなんて、思ってもみなかった。
オレンジ色に染まる橋の上、入夜はその場でひざまづき、恭しく彼女に手を差し伸べてみせた。きょとんとする凛音の顔に苦笑しつつ、入夜は恥ずかしさに絶えながら言った。
「良ければこれから、僕とお茶でもしませんか?」
驚きに目を見開く彼女。だけど次の瞬間には「ふふっ」と噴きだすように笑った。そして目を細めて微笑みながらその真っ白な指先を、入夜の右手にそっと伸ばしてくる。
夕焼けに浮かぶ無数のシャボン玉がまた一つ、ぱちんと弾けて空に解けていった。
そんなわけで『夢解きトロイメライ』、ここに完結です!
10万字クラスは今回が初めてで、まだまだ至らぬところが多かったと思います。ですが、色々と勉強にはなりました。拙作を読んで下さった方々、毎度リツイートして下さった方々、そしてこの長編連載の踏み出す時に背中を(ライオンが子供を谷底に突き落とすように)押してくれたあの方に感謝します!
ありがとうございました!!




