第三十三話 『クロノス 前編』
煌々と輝く赤い瞳。
影もよりも深い漆黒のシルエット。
巨大な鎌のような、獣の顎のような黒い『染み』がそこにはあった。
――『クロノスの鎌』。入夜は目の前のそれをそう呼ぶことにした。
「凛音さん!」
夜の河原で入夜が叫ぶも、変わらず後ろを向く彼女に反応はない。乙川が消失した時と同様、一時的に自意識が薄れているようだった。
代わりに反応したのは『クロノスの鎌』。獲物を見つけたとばかりに瞳のような赤い光が明滅する。
「……ッ」
入夜はバックステップでさらに距離をとった。と同時に、河原に転がる無数の石を無造作に掴む。
「凛音さん、凛音さん! 聞こえますか!? しっかりして下さい!」
声も虚しく『鎌』は浮遊したまま一直線に迫ってくる。長大な姿にも拘わらず、音もなく重力を感じさせないようなスライドした動き。まるで小型のブラックホールだ。
「……だめだ、もう聞こえてない」
砂利を踏みしめて入夜は迂回して彼女の元に回りこむ。もっと至近距離で呼びかければ意識を復活させることができるかもしれない。と、思った矢先。
「……! くッ」
ズザザッ、と砂埃を巻き上げながら急ブレーキをかける。
その原因は正面にあった。入夜の思考を読みとってか、『クロノスの鎌』が先回りしていた。
落ち着け、落ち着け――入夜は自分にそう言い聞かせる。まだ慌てる状況じゃない。呑みこまれたらアウトだけれど、呑みこまれなければ問題ない。……それだけの話だ。
ふぅー、と入夜は深く息を吐き、まっすぐに相手を見据える。
赤い瞳がこちらを観察するように睨めつけてくる。中空で不規則に揺らめき、いつどう出てくるか予測ができない。その対処法ですら見つけられない――わけでもなかった。
ちらりと入夜は凛音を一瞥した。彼女にも聞こえるように声を発する。
「……ギリシャ神話に出てくるクロノスは、『子供に権力を奪われる』という予言を恐れて女神レアが生んだ自分の子供を次々と呑みこんでいきました。デメテルもへーラーもポセイドンもハデスも。だけど後の神の王となるゼウスだけは母親であるレアが助けたんだ」
入夜は石を持っていた右手を振り上げる。
「子供の代わりに、クロノスに石を呑ませることで!」
腕を振り下ろし、全力の投擲。
いくつかの石は入夜の手から離れ、散弾銃のように『鎌』にヒット。瞬間、ボシュッ! と膨れあがった黒い『染み』は煙のように消え失せた。
「……よし!」
やはり自分の推測は間違ってはいなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
だけど、まだ終わってない。『クロノスの鎌』の根源となっているものをどうにかしなければならない。
入夜はなおも後ろを向いたまま微動だにしない彼女を見やる。
「凛音さん」
呼びかけると彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。薄茶色の髪が不自然に揺れている。そしてその同色の瞳は、虚空を彷徨っていた。いつかの籠手崎澄歌のように。
「…………凛音さん」
果てしなく嫌な予感した。ぞありと悪寒が背筋をのたくる。そして次の瞬間、その予感は見事に的中してしまう。
ぶつ、と黒い『染み』が凛音の間近で出現した。
それも一つだけでなく、いくつもいくつも。『染み』はそれぞれ膨張し、細長く形を変え、死神の鎌のような獣の顎のような『クロノスの鎌』を形成していく。
「いやいやいや、これはさすがに多勢に無勢すぎるんじゃあ……」
煌々と妖しく輝く無数の赤い瞳が入夜に向いた。まるで獲物を見つけた狼の群れのよう。思わず竦みそうになった足を踏ん張らせる。
「……なるほどね。あなたの闇は思っていたよりずっと深いというわけですか」
言い終えた瞬間、図ったかのように『鎌』たちは一斉に動いた。
「ッ」
入夜はくるりと向きを変え急いで距離をとった。走りがてら石を拾えるだけ拾い、後ろから追ってくる『鎌』たちに石の散弾を浴びせる。
ボシュボシュボシュッ! とヒットした『鎌』たちが次々と霧散する。
けれど、消えた後から後から新しい『染み』がまた出現していた。
「っ、これじゃきりがない!」
どうにかして凛音のもとまで辿り着かなければならない。だけど一度でも捕まれば呑みこまれてしまうという恐怖が入夜の足を止めていた。地面にはりつけにされたように動かない。
目的地である凛音のほうを視線を走らせ、入夜は足に力をこめた。
「……石で牽制しつつ走って、凛音さんの夢を解く。それだけだ。それだけの話だ――」
自分に言い聞かせ、勇気を振り絞り、こちらを狩らんとする『鎌』に向かって駆け出した。
石を拾っては投げ、道を確保しながら進んでいく。振り下ろされた『鎌』をギリギリで回避してこれにも石を投げつける。
もう少し、彼女にたどり着けるまで後もう少しだ。乱れた自分の呼吸の音がうるさいくらいに耳に残った。焦るな、焦るな、と自分に言い聞かせる。
ついに残すところ五メートルまで近づけた。入夜は全力で凛音の元へ駆け寄る。けれどまたしても眼前で黒い『染み』が生まれ、瞬時に『クロノスの鎌』となって立ちふさがってきた。
「邪魔だ!」
石で撃退――しようとしたその矢先、手持ちの弾数がないことに今さらになって気づく。そして気づいた時に遅かった。拾う暇も与えず『鎌』が呑みこまんと入夜に覆い被さってきた。
「しまっ――」
時間が、ゆっくりと流れた。周りの音が一切聞こえない。指一つ動かせないこの状況で、思考ばかりがぐるぐると回る。
こんな時なのに、もしくはこんな時だからなのか、自己嫌悪がふつふつとこみ上げてきた。
……結局、自分は何がしたかったんだ。救えないまま、報われないままにこのまま終わるのか。『ほら、それみたことか』と朝倉が冗談めかして笑いかけてくるのが目に浮かんだ。少し腹が立った。だって仕方ないじゃないか。助けたかったんだ。一人の女の子を――桃里凛音を。
『でも、それで余計に傷つくのは入夜じゃないか』と朝倉が言ってくる。それはこちらの勝手だろう、と反論したくなる反面、思うところがないわけではなかった。
どうして自分はこんな星の下で生まれたのだろうとつい考えてしまう。
予言者という大層な血を引いて、特別なモノが見えて引き寄せて、それゆえに孤独で、結局は目の前の人間ですら助けることができずに終わろうとしている。報われもせず幕が降りようとしている。
……なんなんだ、一体自分は何のために生まれてきたんだ。
入夜は眠りにつくようにゆっくりと瞼を閉じた。
ごめん、凛音さん――そう念じながら。その直後だった。
ボシュッ! という音がした。
目を開いてみると、さっきまでいた『鎌』が消えていた。
「こんばんは、真々琴くん。また会ったわね」
それは涼やかな声だった。ガラスの縁を指でなぞるような透明な声。
入夜はハッとして振り返る。そこには濡れたような長い黒髪を夜になびかせ、赤縁眼鏡の少女が少し離れた場所で立っていた。手に持った小石を弄び、相変わらず不透明な笑みを浮かべていた。
「白、川……さん?」
呆ける入夜の背後で、ボシュボシュボシュッ! と『鎌』が次々と霧散する音が響いた。
「わーお。本当に石で倒せるんだね、コレ」
「おぉい真々琴、無事かー!」
「つかマジなんなのアレ? 明らか生き物じゃなさそうなんだけど!?」
口々に叫ぶのは、これも見覚えのある顔ぶれだった。
入夜は目を瞠った。ありえない、こんなことありえっこない。
そこには、祭りでも見かけたクラスメイト――櫻井と猪口と鳥羽の姿があった。




