第二十九話 『シンプルイズベスト』
じりりりりん、というけたたましい目覚ましの音が部屋に響いた。
「ん、ぅ……」
重い瞼をこじ開けて、入夜は二、三度瞬きを繰り返す。ぼやけた視界が次第に鮮明になり、ベッドからゆっくりと起き上がる。働かない頭のまま窓に視線をやるとカーテンの隙間から見えるのは朝陽ではなく、薄く光る星空。充電していた携帯を手にとり、まだにじんで見える画面を確認する。暗いはずだ。時刻は深夜一時を刺していた。
「……そうだった」
ぼさぼさの頭をかきむしる。思い出した。今夜もまた行かなければならないところがあったのだ。疲労と睡魔に蝕まれた重い身体を起こし、名残惜しくも温かいベッドから這い出る――けれど、這い出ようとしたところ。
「……ん?」
なんか、妙な温かさがあった。自分が発した余熱とはまた違った、入夜の右腿辺りに何かがぴとりとくっついている感覚。しかもあろうことか、もぞもぞとそれは蠢いている。
「……」
目はすっかり覚めて、入夜は息を呑む。恐る恐る薄いかけ布団をめくってみた。
「え……?」
するとそこには、一匹の猫が丸まっていた。
チャコールグレイの美しい毛並みを持った猫だった。彼女は首を持ち上げて人間のように笑みを作る。
「やぁ入夜。ようやくお目覚めだね」
ベッドにもぐりこんでいたのは、猫に変化した朝倉楓だった。
「懐かしいなぁ、入夜の部屋。久々に来たけど変わり映えしないね」
朝倉は猫の姿でトコトコと部屋中を歩き回る。ベッドから机へ、机から椅子へ、椅子から本棚へ。実体じゃないから部屋が荒らされることはないけれど、こうも勝手知ったる我が家のように歩き回られると落ち着かなかった。
「部屋にものをあまり置かない主義なんだよ。知ってるでしょ」
「そうだったね。飛び回り甲斐のない部屋で残念だよ」
「それは申し訳なかったね」
自然、硬い口調になってしまう。
「それで? どうして僕のベッドにもぐりこんでいたの」
「どうしてって、前も一緒に寝たことあったじゃないか」
あっけらかんと朝倉は言う。
「……昔のことだよそれは。今は少し大人になったんだから、軽々しく男のベッドにもぐりこむのはやめたほうがいいと思うけど」
「この姿なんだから問題ないだろう? まぁ、なんなら人の姿で朝チュンを演出してあげても良かったけれど。セミヌードくらいならオーケーだよボクは」
それは本気でやめてほしかった。目覚めた瞬間死にたくなる。
入夜は布団をのけてベッドに座り直す。その横に、朝倉がぴょんと身軽に着地した。入夜は壁の方を、彼女は窓の方を、お互い違う方向を向いた形で。
「本当に懐かしい。昔はここでよく作戦会議をしていたね」
「まぁ、ほとんど朝倉の神話の雑学コーナーになっていた気がするけど」
「勉強になっただろう?」
「おかげ様で」
入夜は机のほうを見た。朝倉がよく座っていた場所。元来お喋り好きな彼女はあそこでよく語っていた。神話のこと。予言者のこと。それにトロイメライのこと。あの現象はきっとこの神話をベースにしているだとか、トロイメライの出現場所にヒントがあるだとか、うんぬんかんぬん。当時の自分はちんぷんかんぷん。入夜はそれを聞いていたというより、眺めていたといったほうが正しいのかもしれない。小鳥がさえずるのを愛でるように。
楽しくなかったといえば嘘になる。嬉しくなかったわけでもない。仲間はずれだった自分に、自分と同じ特殊な力を持った人間に出会えたことはまるで奇跡のようだったから。
「……でも君は、僕を置いて逃げた」
刃物を突きつけるように入夜は迫る。彼女は自ら、トロイメライになった。それを止められなかった自分にも非はあるけれど、それでも裏切られたような気持ちは強かった。
朝倉は答えず、窓の外の星でも数えているのか黙りこんでいる。
入夜は首元にぶら下がっている銀色のシャボン容器を手にとった。
「朝倉がどうして僕にこれをくれたのか、最近わかったんだ。……君は僕に、トロイメライになって欲しかったんだね」
割れないシャボン玉は、そのメッセージ。
本来シャボン玉はすぐに割れてしまうような儚い存在。吹けば漂うシャボン玉に夢中になって、苦しみさえ少しの間忘れさせてくれる癒やしのアイテムだ。その癒やしを永続させるために、彼女はグリセリンを混ぜることで割れないシャボン玉を作った。
「君はこのシャボン玉のように、『覚めない夢』を自分で作り出した。アリアンロッドの神話を使って、君は自分が目覚めることを『禁止』した」
ケルト神話に出てくるアリアンロッドが禁じたのは三つ。
名前をつけてはいけないこと。
武器を持ってはいけないこと。
妻を娶ってはならないこと。
朝倉はすでに二つを『禁止』している。入夜の夢と、彼女自身の意識を。アリアンロッドの神話をベースにしているとすれば、彼女が禁止できるのは後一つだけ。現に彼女が二つ以上のものを同時に禁止にしているのを入夜は見たことがない
きっと最後の一つは、入夜がトロイメライ化する際に使うつもりだったんだろう。なんとなくそう思った。
朝倉は黙ったまま腰を上げ、とことこと入夜の後ろに回りこんだようだった。直後、ぽすんと入夜の背中に何かがもたれかかる。振り返ると、いつの間にか人の姿に戻った朝倉がいた。ぴとりとくっついて、背中合わせの形に。彼女はぽそりと呟く。
「悪かったとは思っているよ。入夜が言うように、ボクはたしかに逃げた」
「どうして。僕と朝倉は同じ存在なのに。話し合えば何か別の手だって――」
「ずっと前から計画していたことだったんだ。何かを変更すれば気持ちが揺らいでしまう。――逃げるのにだって、実は勇気が要るんだよ」
こつん、と後ろ頭に朝倉の頭が小突く。
「弱いんだ、ボクは。予言者という重みにとても絶えられなかった。入夜だってその苦しみはわかっているはずだろう? いつも奇妙な夢を見て、変な霊体まで見える。それにトロイメライの現象を収めなきゃいけない。人に降りかかるような災厄の予言を見てしまったら、助けにいかなければならない。自分が望んでいないのに拘わらず、だよ」
「……」
それはたしかに、痛いほど理解できるものだった。
予言者の血を引かなければと何度思ったことだろう。それこそ夢見るように。
「この先人を助けたって、入夜には何の得にもならない。ただ傷つくだけだ。ボクはそれを見ていられないから、君にも逃げて欲しかった。ボクと同じトロイメライになって欲しかった」
「……ありがとう、朝倉」
彼女が自分を心配して言っていることも、知っていた。どれだけ入夜が悪態をついても朝倉は笑って許してくれた。きっと過去の自分を見ているような気持ちなんだろう。
入夜はベッドから立ちあがり、振り向いた。そこには以前と窓の外を眺める朝倉がいた。その寂しそうな背中が、すべてを物語っているような気がした。
「ねぇ朝倉、凛音さんは公園にいるんだよね?」
「……はは、バレてたんだ。ボクの嘘」
「当たり前だよ。君とのつき合いは長いほうだからね」
朝倉は観念したように肩を落とし、こちらをそっと振り向いた。チャコールグレイの髪が月明かりの中でさらりと揺れる。
「明日の夜、商店街の夏祭りに行ってごらん。きっといいことがあるから」
「……わかった。ありがとう」
意図はいまいち飲みこめないけれど、従う価値はあるだろう。
朝倉はまた窓の外に視線を戻し、ぽつりと呟く。
「ねぇ入夜。聞いてもいいたいことがあるんだ」
朝倉は振り返り、真っ直ぐに見つめてくる。目を逸らすのは許してもらえそうになかった。
「君は夢解きを続けて、辛いとは思わないのかい?」
入夜はうなづいた。
「クラスで孤立して、ひとりぼっちになっているのに?」
入夜はうなづいた。
「誰からも忘れられて、報われないと知っていても?」
入夜はうなづいた。
そっか、と朝倉はため息をついた。
「あの人に会ってから、入夜は変わってしまったね。どうしてそんな風に考えられるのかボクには理解できないよ。なんでそんなに傷ついてまでトロイメライを追いかけようとするんだい?」
入夜も彼女と同じように、窓の外を眺める。さっきよりも夜はさらに深まり、暗い空には星々が瞬いている。きっと誰かさんもこの星空を見ているかもしれない。
ぼんやり彼女のことを想像すると、思わず苦笑してしまう。きっと彼女もこう言うと思うから。
「簡単なことだよ。至ってシンプルだ。どこかで困っている女の子がいるなら、僕はその人を助けたい」
それだけの話だよ、と入夜は笑った。
第三章がようやく終了。
続きはいよいよ最終章になります!




