第二話 『夢のような少女』
ため息の混じったシャボン玉が、夜の中空を漂っていた。
「……ふぁ」
かみ殺しそこねたあくびを漏らしながら、入夜は夜の道路の真ん中を――雪国特有の消雪パイプの上を一人踏み歩く。シャボン玉を膨らませる。
今は草木も眠る深夜二時。学校から帰った後は早めの夕食をとり、支度を済ませてベッドへと潜り込み、深夜に自分でセットした目覚ましに叩き起こされた。睡眠は摂れたものの変な時間に起こされたので眠気が酷い。こめかみが少し脈打って痛かった。
襲いかかる睡魔と格闘してかろうじて勝利した末に、どうにか自宅のマンションを外出。負傷したこめかみを押さえながら入夜が歩くのは、団地を貫く一本道だった。
点々と並ぶ街灯たちが慎み深い執事のように粛々と足元を照らし、そばを通り過ぎる度に入夜の影をぐるりと回す。遠くで時折り車の走る音が聞こえてくる。人がいないのを良いことに、少しうるさいくらい鈴虫たちが鳴いている。
まるで、日常の裏側みたいな世界だった。
登下校で通う馴染みの道だけに、かえってそう強く感じる。というかそもそも、これから自分はその裏側のさらに奥……そう、最奥とも呼べる場所にいかなければならないのだ。
ため息ぐらいつきたくもなる。ため息を閉じ込めたシャボン玉を眺めて、癒やされたくもなる。平たく言えば憂鬱だった。
「わぷっ」
強く吹きすぎたせいか、シャボン玉が目の前で破裂。顔面にベチャッ。
割れないようにグリセリンを混ぜたのが仇になってしまった。空気に触れると固まる性質を持っているので、シャボン玉の破片は蒸発せずチューインガムよろしく顔にベッタリ貼りついている。
と、そこで偶然路上に止まっている車を発見。窓を使って汚れをとることにした。紫外線対策だろう黒塗りの窓に映ったのは、なんというか、モヤシみたいなやつだった。
クセっ毛の強い茶髪は寝起きでさらにボサボサ、目立たないように着てきた黒のポロシャツはよれよれ。しわしわの黒のジーンズ。ひょろっとした体つきに色白な肌は、体育の授業でいつも見学しているような病弱な生徒みたいだった。というか自分だった。誰もいないとはいえ油断しすぎだとちょっと悔い改めた。
しばらく歩き続けると、橋が見えた。
小さく、ところどころ鉄が錆びて老朽化が進んでいるけれど、どことなく威厳を感じさせる橋だった。辿り突いてそこに立つと生ぬるくじめっとした風が吹く。下に流れる川のせせらぎが聞こえてきた。
深く息を吐きだして、入夜は遠くを見据える。向こうには雁木造りが続く昔ながらの商店街が見え、そして、その手前にはいつも通っている天ヶ紅高校がそびえ立っていた。
「……」
日常の裏側の、その最奥。
これから起こるだろう災難を考えると、やるせなさしか感じられなかった。ため息をつきがてらシャボン玉をまた一つ作る。今度は割れないように気をつけながら。
幸せを閉じ込めたシャボン玉を微風がさらい、ゆっくりと橋の下へと吸いこまれていく。入夜は見るともなくそれも眺め、目で追いかける。すると、
「……ん?」
視界の片隅で何かが動いた……ような気がした。
目を凝らすと橋の下の河原に、何か……まるで、人影みたいなものが。
「……」
こんな夜遅くに?
人気のない河原で?
ぞあっ、と悪寒が一瞬背筋を駆け巡る。心なし気温が下がったように感じた。
あそこの河原と言えば、白川が何か言っていた気がする。賽の河原がなんだとか、願掛けがどうだとか。
賽の河原といえば、鬼のイメージがまず頭に浮かぶ。河原で必死に積み上げた石を、非情にも打ち崩す鬼。……意味もなく嫌な想像をしてしまった。理不尽にも白川をうらめしく思う。
おそるおそる、手すりから乗り出すようにして目を細める。その正体を見極める。
「……あれは――」
それはもちろん角を生やした鬼なわけでもなく。
少し背の高い、ショートカットの女の子だった。
後ろを向いていて顔がよく見えない。紺色のセーラー服を見るに、自分と同じ天ヶ紅高校の生徒らしいことがわかる。何かを探してるのかキョロキョロと辺りを見回している。
淡い月の光が肩で切り揃えた薄茶色の髪と、白い首筋とを照らし出す。それを見てどうしてか心臓が高鳴った。
悪戯な風がシャボン玉を彼女のもとへと運ぶ。月の光に反射し、淡く輝く。
その直後、『彼女』はシャボン玉のわずかな影に気づいたようだった。ゆっくりとこちらを振り返る。そして、
「……あ、シャボン玉」
薄い唇から零れたのは、少し眠たげな声だった。
化粧気の薄い顔は大人びていて、前髪がかかった大きな瞳には無邪気さが宿っているように思えた。右サイドの横髪は耳にかけていて、柔らかそうな耳たぶにはピアスが光っている。
月下美人。ふいにそんなワードが思い浮かんだ。植物の、それもサボテンの名称だけれど。
ああ、と入夜は心の中で嘆息する。今日はなんて星回りの悪い日なんだろうと。思わずシャボン玉を吹きたくなったけれどさすがに自重する。
彼女もこちらに気づいたようで、『誰?』とでも問いたげに小首を傾げてきた。長い睫毛をパチクリさせる。大人びた顔にしてはその仕草はどこか子供っぽくて、きょとんとした表情がそれに拍車をかけて少しおかしかった。
入夜は噴きだすのを堪え、努めて笑みを作る。
「こんばんは。僕は天ヶ紅高校二年の真々琴入夜って言います」
それを受けて彼女は、数秒固まった後に「あ、こんばんは」と慌てたように返してきた。
――彼女との出会いは、偶然だった。そしてきっと、必然でもあった。
『たった一つの出会いが、人生を大きく変える時だってあるんだよ』
シャボン容器のもとの持ち主である『彼女』がたしかそう言っていたのを思い出す。
夢への入り口へと導く存在が、この世の中にはあるのだと。それがいつやってくるかもわからないし、人によってそれぞれ違う。どんな形をしているのかもわからない。そもそも形として保っているとも限らないんだけどね――と。
そして『それ』は今、少女の形をして入夜の眼前に現れていた。
夢のような少女はしかし、緊張感の欠片もない声でこう言うのだった。
「あたしは桃里凛音だよ。……ねぇキミ、もしかしてパニックホラーの黒幕さんだったりするのかな?」
というわけでメインヒロインの凛音さんとの初邂逅です……ん? これ、偶然だけじゃなくて必然性もあった場合って邂逅とは言わないんですかね……?