第二十八話 『普通の女の子』
あの時美術室を後にする彼の後ろ姿は、以前と同じく儚げだった。
でも、悲壮感みたいなものはない。それだけでも凛音は少し安心した。前に公園を去る彼の後ろ姿は見るに堪えないものだったから。自分の『本体』が彼を元気づけてくれたからだろう。グッジョブ自分。
真夜中の月城公園、その二階の滑り台の入り口で凛音は膝を抱えて座っていた。
「今日はいつになく集中力がなかったわね」
後ろから声がかかる。グラスの縁を指先でなぞるような透明感のある声の持ち主だった。
「愛河ちゃん」
月明かりでその黒髪が水面のように輝いて見えた。赤縁の眼鏡をしているけれど、それはダテであるらしかった。外したほうが綺麗なのに、と以前口にしたら『放っておいて』とそっぽを向かれてしまった。
「いつもつき合ってくれてありがとね。愛河ちゃんがいなかったら特訓もままならなかったかも」
「それも本番で集中力を発揮できなければ無意味なのだけれど」
クスクスと意地悪く笑う彼女。
「手厳しいなぁ、愛河ちゃんは」
「私と朝倉がこれだけお膳立てをしてあげているのだから、せめて成功してもらわないと格好がつかないでしょう?」
「あはは、それもそだね」
少し前から、あの『魔法使い』――朝倉楓から『魔法』を教えてもらい、特訓をしていた。コツ自体は楓から、そして実践は生身の身体を持つ愛河に協力してもらう形でここ数日を過ごしている。
集中力のいる作業だけれど、今日は少しはかどらなかった。
原因は今日、というより昨日の放課後。自分の本体が一人でいる美術室に入夜が尋ねてきたからだ。そこで彼は絵のモデルになりながら『本体』と話をしていた。探りを入れてきた、ともいう。
夏祭りのこと。自分と喧嘩をしていること。後輩の絵のこと。そして未来の彼を描いたスケッチブック。それらが凛音の中で渦巻いて、今日はあまり集中できなかった。
彼と話したのは自分より本物な『桃里凛音』だけれど、彼女と自分では保てる記憶が違う。まるで昔録画した映像を見てるみたいな感覚だった。その場にいれたなら、彼と話しができたなら――そう思ってしまう。
悔しかったのは、きっと自分が彼を慰められなかったから。彼が抱える事情を知っているのはこちらなのに、あの桃里凛音は短い言葉と一枚の絵だけで彼を慰めた。ちょっとずるい。自分に対して嫉妬を覚えるのは変な話だけれど。
凛音は空を見上げた。
放課後降っていた雨が嘘のように雲一つない星空。ぽっかりと浮かぶ三日月。明日はきっと晴れる。もしかしたら彼も同じように見上げて、同じように思っているのかもしれない。
「良かったわね。明日のお祭りが中止にならなくて済みそう」
と愛河。いつの間にか隣に立っていた。
座っていいかしら、と尋ねてきたので、凛音はこくんと頷く。滑り台の幅は広いけれど、二人で座ると少し窮屈だった。
「お尻、冷たくない?」
「セクハラよそれ」
「……えー。女の子同士なんだからいいじゃない」
自分と違って彼女は生身の身体だから心配をしてあげているのに、これである。仮にもこちらが先輩のはずなんだけれど。本当、最近の後輩は生意気である。
だけどそんな不満もここからの眺めで慰められる。月明かりが公園に茂るシロツメクサを幻想的に照らしているから。
「あの魔法使いさん、いつもここでこの風景を眺めてるんだろうねぇ」
「そうでしょうね。私には理解できないけど」
「えー、綺麗じゃない?」
「言ったでしょう、理解ができないの。少しズレているのよ私は」
ふぅん、と相槌を打つ。
「もしかして、愛河ちゃんがトロイメライを見ることができるのってそれが原因なのかなぁ」
「……あなた、本当に時々驚くほど冴えているわよね」
「あれ当たっちゃった?」
はぁ、と珍しく嘆息をつく愛河。彼女はこちらを睨むように一瞥すると、またため息をついた。
「……まぁどうせあなたは忘れるでしょうし、いいわ。私の話をしてあげる」
冥土の土産みたいなものね、と彼女は皮肉を言った。
「んー、予想はだいたいつくけど」
「なら話さなくてもいいかしら?」
「いやどうぞどうぞ」
「……あなたといると本当に調子が狂うわね」
「あはは、それほどでも」
褒めてないわよ、と彼女は先輩に向かって毒づいてくる。
愛河はうつむいた。何かを懐かしむような表情でシロツメクサを眺める。夜風が彼女の長い黒髪を弄ぶ。
「あなたも大体予想はついているとは思うけれど、私は一度トロイメライになって、彼に救われているの」
「入夜くん?」
ええ、と愛河はうなづく。
「私の『現象』はかなり禍々しかったみたいね。入夜くんも手を焼いていたようよ」
「ようよ……って」
あ、と凛音は声を漏らす。
「気づくのが遅いわ。――そう、私は後になってそのことを聞いたの。朝倉に。夢が解かれてしまえばもうトロイメライ化はできない。記憶もすべて忘れてしまう」
夢のようにね、と愛河は妖艶に微笑む。
「記憶もすべて……ってことは、愛河ちゃんもあたしと同じ『覚醒体』だったの?」
「ええ。あなたと同じというのは癪だけれど」
「……」
つくづく嫌みな女の子だった。よっぽど恨まれているのだろうか。
思えばそれは最初会った時からかもしれない。ただ単に女子に対しては当たりが強いという印象はない。何か、個人的な恨みを持っているような――
「もしかして愛河ちゃん、入夜くんのことが好きなの?」
「脳みそ引きずり出して殺すわよあなた」
「…………」
今、涼やかな声で恐ろしいことを言われた気がした。気がしただけで気のせいなのかもしれない。当の本人も済ましたような顔をして、『何かあったかしら?』とでも言いたげな、事実をうやむやにしてしまおうとしている様子がとれた。
愛河は遠くの欠けた月を眺める。
「……私に、そんな普遍的な感情は存在しないわ。歪んでいるもの、私は」
「愛河ちゃん……」
「でも、歪んでいるからこそ真々琴くんとまだ繋がっていられるのよ。夢を解いた後もトロイメライが見ることができたから」
悩みや苦痛を持っている人間はトロイメライを見やすい。前に入夜が言っていたことを思い出した。思わず笑みがこぼれてしまう。
愛河は目を細めた。
「何が可笑しいのかしら」
「ううん、愛河ちゃんは優しいなって。入夜くんのこと、いつも影ながらフォローしてくれているんでしょう?」
情報収集をしたり、時々話し相手になったり、それでいて入夜が拒絶しないように彼女は適度に距離を開けるのを心掛けているのだと思う。
彼が潰れないように、独りにならないように、まるで子どもを見守る母親のように。
「別に。私は借りを返そうとしているだけよ」
「何も覚えてないのに?」
「関係ないわ。借りは借りよ」
律儀だなぁ、と凛音は苦笑する。
愛河は視線を降ろし、足元を見つめながら呟く。
「彼は……真々琴くんは変わったわ。少し明るくなったし、前向きにもなったんじゃないかしら。――桃里凛音。あなたに出会ってからね」
「あたし?」
「悔しかったのかもしれないわね、私は。あなたに嫉妬していたのかも。こんな普遍的な感情を抱くなんて、私にとって信じられないことだけれど」
「愛河ちゃんは普通の女の子だよ」
「気休めはいらないわ」
ふっと笑みを浮かべる。
「歪んでいるのも、そう悪くないと思っているのよ」
どこか吹っ切れたような、普通の女の子がするようなごく自然な笑みだった。その表情の内側に、トロイメライが見えてしまうほど彼女なりに悩みや苦しみを抱えているはずなのに。
愛河はスカートのほこりを軽く払って立ちあがる。
「私、そろそろ帰るわ」
「うん。ありがとね愛河ちゃん」
滑り台からではなく、彼女は踵を返して城の内部にある梯子を伝って下りていった。黒く長い髪を猫の尻尾のように揺らしながら離れていく。
ふと立ち止まり、首だけ振り向く愛河。赤縁眼鏡が月明かりに反射した。
「さようなら、桃里凛音」
そう言い残して彼女は去って行った。
きっとこれが最後になることを予感しているんだろう。凛音もまたそれを感じていた。彼女とああして話せなくなるのは残念に思う。もっと深く知りあいたかった。
「さようなら、愛河ちゃん」
真夜中の誰もいない公園で、凛音はひとり呟いた。




