第二十六話 『美術室』
放課後、入夜は屋上で時間を潰すことにした。
生ぬるい微風がそよと流れ、吹いたシャボン玉が空へと吸いこまれていく。見上げると威圧するような暗雲がたちこめていた。ひと雨降りそうだった。入夜はうつむいてため息をつく。ため息をつきがてら、シャボン玉を作る。
今だに白川の言葉が信じられなかった。凛音が積み石を崩す。まったく想像ができない。目撃が二週間前ということだから、トロイメライ化する少し前ということになるだろう。明らかに彼女のトロイメライ化の原因に拘わっているといえる。
獣の顎のような、死神の鎌のような黒い『染み』。そして今回知った『積み石崩し』。
……だんだん、彼女のことを知るのが怖くなってきた。これ以上知ってしまったら、自分の中の彼女が粉々に壊れてしまいそうで。
大人びていて、だけどその実子供っぽい。散々振り回されて、時には励まされて、乱されて、おかげでこちらの調子が狂わされっぱなしだったけれど、決して悪い気分じゃなかった。
そんな彼女が、まさかあんなことをするとは思えない。そんな性格にも見えない。触れあった時間は短いけれど、少しは彼女のことを知っているという自負がある。
だけど、入夜は人の心には何かしら闇が巣くっていることも知っている。
散々夢解きをしてきて、散々それを見てきた。燃え上がるほどの怒りが、狂おしいくらいの恋情が、恥ずべき劣情が、大いなる渇望が、人の心の奥底に秘められているということを。
それらが抑圧されて、押し殺されて――夢が生まれるということを。
じゃあ、凛音の心の奥底に巣くっているのは何だろう?
それを自分は知らなければならない。たとえそれが、失望してしまう結果になったとしても。
「……さて、と」
そろそろ頃合いだ。重い腰を上げ、ズボンについた砂を払いながら立ちあがる。
もう一人、まだ接触していないキーとなる人物がいた。解決に繋がる有力な情報が手に入るかもしれない。重い足を引きずりながら、入夜は屋上を後にした。
◆
天ヶ紅高校の二階には特別教室が並ぶ場所がある。
技術室や家庭科室といったプレートがズラリと並ぶ味気ない扉の上に掲げられている。教室の反対側はガラス張りで、そこからは中庭が見えた。吹奏楽部が演奏をしているのが見える。一階にある体育館からはキュッキュ、と靴が床を擦る音がかすかに聞こえてきた。
そうして入夜が立ち止まったのは、美術室。
ふぅ、と大きなため息が出た。手に汗が滲む。一瞬逡巡し、それからノックをした。……が、返答はない。人の気配がない。誰もいないのだろうか。
「失礼します……」
おそるおそるドアを開ける。中はがらんとしていた。
美術室というと想い浮かべるのは室内に散乱した絵の具やキャンバスだけれど、意外と整理整頓されている。どうやら部員たちはすでに帰ったようだった。木製の椅子と長テーブルだけが整然とならんでいる。
ぽつんと置かれたキャンバスと、机の上で突っ伏している一人の女生徒を除いては。
「……ん」
彼女はちょうど起きたらしい。のろのろとした動きで顔を上げ、寝ぼけ眼で辺りを見回す。それから教室にかけられた時計を確認。しょぼしょぼとした目つきでじぃっと見つめ、
「……はっ、もうこんな時間!? 寝坊しちゃった!」
勢い良く立ちあがってガターン! と椅子を倒してしまう。わわっと慌てて彼女は椅子を戻す。戻そうとしたところで、目と目が合った。車のライトを当てられた猫のように彼女は硬直し、戻しかけた椅子を取り落として再びガターン!
「い、いつの間に入ってきたの……?」
「ついさっきです。ノックは一応したんですけど、返事がなくって」
「……ごめん、寝てた」
「そうみたいですね。あ、口元によだれついてますよ?」
え、ウソ! と彼女は手の甲で口元を拭う。それからハッとし、思い出したように手を後ろに隠し、誤魔化すように目を泳がせた。
「仮眠、してたの。集中力が続かなくって」
「そうだったんですか」
得心がいったように頷いてみせる。仮眠をとるのは事前に知っていた。この時間には彼女が一人になることも。
彼女は倒れた椅子を戻しながら言う。
「でも、びっくりしちゃった。誰もいないはずの教室に急に現れるんだもの」
寝こみを襲われるかと思った、と冗談めかす。
「……相変わらず、被害妄想がひどいですね」
「ん、何か言った?」
と彼女が聞き返す。少し眠たげな声だった。
「いえ何も」
首を振りながら入夜は密かに苦笑する。前はたしか、サイコホラーの黒幕扱いされていた。寝ても覚めても変わらない人だ。
そこにいたのは見知った顔の女子生徒。
薄茶色のショートカットに、少し高めの背丈。雪のように白い肌。紺のセーラー服には三年生の証である白いリボンが結ばれている。大人びた表情は、月下美人というワードが意味もなく連想される。
桃里凛音の『本体』がそこにいた。
「それでキミ、何しにきたの? やっぱりあたしの寝こみを襲いに?」
と凛音は本気なのか冗談なのか、ずけずけとそう尋ねてくる。黒幕扱いされないだけマシではあるけれど。
「違いますよ。忘れ物をとりにきただけです」
「あ、そうなんだ」
そっけなく答え、彼女は傍らにあったキャンバスに向かい合う。入夜は教室の窓際、筆やら絵の具やら画用紙やらの備品が置かれている棚に向かった。ここに来る口実を作るために美術の授業でわざとものを置き忘れるという細工をしておいた。……見方によれば計算高い乙女のそれに似ているような気がしないでもない。
ガサゴソと探す振りをしながら、入夜はチラリと凛音を見る。
「他の人たちは帰っちゃったんですか?」
「んー?」
気のない返事。どこから出したのか、彼女は絵筆でキャンバスに何か描いている。ひどく猫背だった。
「あーうん。あたしだけ仮眠とるから時間が長くなっちゃうの。別に家に行っても絵を描くだけだからいいんだけどさ」
彼女はこちらを見ずにさっさっ、と筆を慣れたように動かしていく。さすがに様になって見えた。背は丸まっているけれど、表情は真剣そのもの。瞬きもせず筆を絶えず動かしていく。
「好きなんですね、絵を描くの」
「んー。いや、まぁ好きは好きなんだけど、最初から好きだったわけじゃないのよ?」
はぁ、と入夜は曖昧に返事をする。
「じゃあどうしてですか?」
そう聞くと、彼女はチラリとこちらを一瞥し、またキャンバスに向き直る。ぱた、ぱた、と窓を水滴が叩いた。直後、サーっと雨が降り注ぐ。一瞬で窓が水滴に覆われた。しまった、傘を持って来ていない。
「うわあ。明後日のお祭りだいじょぶかな」
「予報だと晴れって出てましたけど」
「本当? そうだといいね」
「……そうですね」
入夜は伊鳴山の頂上で凛音と約束したことを思い出す。夏祭りに、夢から覚めた自分を誘って欲しいと言ってきた。それも教室で、公衆の面前で、ひざまずいて、王子様然と手を差し伸べて。夢から覚めても夢見るようなことを彼女は言う。絶対断られるだろ、と心の中で軽く毒づく。
ガタ、と椅子が動く音がした。振り返ると彼女が立ちあがってこちらを見ている。無遠慮にじろじろと。
「……どうしたんですか?」
「んーなんかこう、ビビッとくるものがあるんだよね」
「何がですか」
問うと、んー、とまた唸る凛音。
「キミの横顔、かな。儚げっていうか、何か哀愁みたいなのが漂ってる雰囲気があるんだよね。失恋でもした?」
「してません」
否定しつつも、内心見透かされたようで少し焦った。夢から覚めても変に鋭いのは変わらない。
「ねえねえ、お願いしてもいいかな」
「何をです?」
そう聞くと、彼女は屈託のない笑みを浮かべた。
「絵のモデル。キミになってほしいの」




