第二十五話 『賽の河原』
凛音がいなくなって、すでに五日が経っていた。
それはもちろん『黒い染み』に襲われた乙川が失踪した日数とイコールとなり、当然周囲も騒ぎ始めている。彼女の両親もすでに警察に連絡済みだと聞いた。
もちろんその影響を受けているのは入夜のいるクラスもご多分に漏れず。
『一年の乙川さんが……』『ええっ!』『どこでどこでー?』『河原に行ったって話』『えー!』『うそぉ』『でもあの子チャラいから』『でも五日も……』『まさかぁ』『へぇー』『どぉしたんだろねぇ』
教室のあちらこちらからそんな声が飛び交っている。
早々に解決しないとどんどん大事になっていく。急がなければならないと入夜は気持ちに焦りが増すばかりだった。かといって、これといって有効な手段が見つからない。凛音が朝倉のもとへ行った以上、あの『魔法使い』を便りにしなければならないと思うと胃が痛む。
だけど彼女にすべての責任を押しつけるのも違うので、自分は自分なりに動かなければならないのが現状だった。幸い、解決の糸口になりそうなルートは見つけてある。
「……ふぅ」
悪夢のようなチャイムが鳴って、昼休み。
入夜は教室の隅にある自分の席で一息つき、軽く伸びをする。身体中が錆びついたみたいにギチギチと軋む感触。疲労もかなり蓄積している。寝不足もひどい。
伸びがてら、入夜はさりげに教室を見回した。
購買へと走っていった生徒たちはすでに戻っていて、それぞれグループを作って談笑しながら昼食をとっている。今日は焼きそばパンをゲットできただとか、メロンパンが買えなかっただとか、そんな中身もたわいもない日常的な会話が溢れていた。もちろん乙川の話も。
入夜の席の右斜めに座っていた派手な金髪の櫻井は、今は窓際の前の隅を席巻する男女混合のクラスで一番大きなグループに所属している。彼女は相も変わらず天井知らずに底抜けに明るくて、グループのムードメーカーの役割を果たしているようだった。いつもいつでもおどけているように見えるけれど、その実内面は意外なほど真面目な性格をしている。貸した借りは返さずにはいられない律儀な一面を持っていて、人を笑わせるのが好きだった女の子。
がっしりとした体つきをした猪口は、廊下側の後ろの席に座っていた。ゴツゴツとしたいかつい顔をしていて持っている箸がミニチュアに見えるくらい彼の手は大きい。所属するグループこそ小さいけれど、強面の内側にある繊細な心をきちんと理解してくれる仲間に囲まれているのが見ていて微笑ましかった。
授業中に扇風機を回していた鳥羽は、教室の真ん中の席で友人と二人で親しげに弁当を広げていた。彼女はいつも自然体だ。思ったことをすぐに口に出すタイプで、ざっくばらんな性格。その振る舞いから敵を作ることも多いけれど、一度親しくなれば心強い存在になる女の子だった。
――彼らは以前、トロイメライ化していた。
もちろん全員が凛音のように『覚醒体』にならなかったケースもあったけれど、心の奥底に沈んでいた闇を、『抑圧された感情』を入夜が触れたのはたしかだ。『覚醒体』になった櫻井や鳥羽とは親しげに話したりもした。笑いあったり励ましあったりもした。
まるで普通の、友達のように。
ふと子供の頃の夢を思い出す。カードゲームが流行っていた時だった。まだ、自分の『力』を自覚していない時。
ある日ものすごく欲しいカードを偶然手に入れて、とても嬉しがった。でも次に気づいた時は周りの風景が金色に包まれていた。これは夢だ、と自分はそこで気づく。手にしていたカードを失いたくない。手放したくない。そんな気持ちでいっぱいになって、眼が覚めた時に自分の握る手を開いて確認してみたけれど、当たり前のようにレアカードは消えていた。
夢は時々残酷だ。
自分には縁ないものだと割り切って諦めがつけば、手を出さずに傷つかずに済む。けどそれを一度自分に手渡しておいて、後から取り上げてしまうものだから余計に傷が深く残ってしまう。欲するものにつけこんで、甘い思いをさせて、最後にはすべてなかったことになる。それが夢の常套手段。
それがわかっていても、入夜はその甘い罠にはまらずにはいられなかった。
最後にはなかったことになるなら最初から欲しなければいい。レアカードも話し相手も友達も、手に入れたいと思わなければ痛い思いをしなくても済む。こうやってクラスを眺めるたびに黄昏れることもない。
それでも、入夜はトロイメライ化した人間と話すことをやめなかった。やめられなかった。幼少の頃にクラスメイトたちから疎外された惨めな記憶が自分をそうさせたのだと思う。心が鉄でできてたら良かったのに、と何度思ったことか。
……それに――
「真々琴くん、大丈夫かしら? 浮かない顔をして」
深くまで沈んでいた意識がその声で一気に引き上げられた。聞き覚えがある。たぶん、また窓辺に腰掛けて文庫本を読んでいるのだろう。ぺらっという紙を繰る音が聞こえてきた。
入夜は呆れたように振り返る。
「またいつからいたの、白川さ……ん?」
そこにいたのは、たしかに白川愛河だった。濡れたような黒髪に、黒いカバーの文庫本。見間違いようもない。
「なぁに? 私の顔に何かついてるかしら」
「いや、ついてるっていうより、むしろなくなっているというか」
「ああ眼鏡のことね」
入夜は小さく頷いた。トレードマークである赤縁眼鏡を今日はかけていなかったのだ。けっこう印象が変わって見える。眼鏡をしているとミステリアスな雰囲気があるけれど、今はその切れ長の目が露わになって『クールビューティー』という言葉がぴったりな面立ちだった。
「昨日は少し夜更かしをしてしまったのよ。朝起きたら頭が痛くって」
「今はコンタクト?」
「ううん、眼鏡はダテ。昔から目がキツいって言われすぎてコンプレックスになってしまったの」
「あそっか。中学時代の虐めっ子たちから言われたんだよね」
朝倉は首を傾げる。
「……あら、真々琴くんにその話したかしら?」
しまった、と入夜は心の中で後悔する。うかつにも薄氷を踏み抜いてしまったようだ。
「ああいやごめんっ。他の人と間違えちゃった」
慌てて身振り手振りを加えて否定した。ふぅん、と白川はどこか訝しげに見てくる。危うくストーカー扱いされるところだった。
ふぅ、と入夜はこっそりとため息をつく。
「それで、僕に何か用があったの?」
ごまかすために話の腰を折ることにした。
「いつもは友達が購買から戻ってくる前に来てたから、この時間帯に来るのは何か意味があってのことなんだよね?」
「さすがは真々琴くん」
と白川は微笑んだ。指をぴんとひとつ立てる。
「さっき拾ってきたの。特ダネよ」
「もしかして凛音さんの情報?」
こくんと白川は頷く。
「でも、真々琴くんにはちょっとショッキングかもしれないわ。それでも聞く?」
「……そう言われて聞かない人はいないと思うけれど」
うふふ、それもそうねと白川は肩を震わせて笑う。
彼女はひとつ小さく息を吐いて、改まった調子で言った。
「学校の近くの河原でやってる『積み石』の願掛けは知っているでしょう? 二週間前に美術部の一年生がそれをしていたらしいのよ」
「乙川さん?」
「ううん、別の子。桃里凛音はよほど後輩に慕われているようね。……で、その子が見てしまったっていうのよ」
何を? と聞くと、白川はほんの少し逡巡する素振りを見せる。
何となく嫌な予感がした。そして彼女は告げる。
「どうも彼女、桃里凛音はその後輩の積んだ石を崩していたみたいなの」
「え?」
もちろんわざとね、と白川はつけ加える。
「……積み石を、崩した? 願掛けの? 凛音さんが?」
意味がわからなかった。それこそ、頭の中で彼女のイメージがガラガラと音を立てて崩れ去ってしまうような衝撃が走り抜ける。
「何かの間違いじゃなくて?」
「ええ。少なくとも目撃者が嘘をついているようにも見えなかったわ」
「…………」
言葉にならなかった。ショックでぽっかりと穴の開いた心をよそに、頭は彼女と初めて会った時のことを思い出す。
夜を照らす月の光。生ぬるい微風。真夜中の河原。古色蒼然とした、名前のわからない橋の上。
その真下で動く人影を見てまず連想をしたのが、『賽の河原』の鬼だった。
賽の河原はたしか、親より先に死んでしまった子供たちが親不孝の罰として石を積み上げる場所だと目の前の白川から聞いたことがある。子供が石の塔を完成すれば親の供養になるのだと。
だけど鬼は、積み上げたそばからその石の塔を打ち崩してしまう。
それも繰り返し繰り返し、際限なく子供の積み石を破壊するのだ。




