第二十四話 『忘れられた記憶』
月城公園にいきなり現れた女子生徒に、凛音はおずおずと尋ねた。
「キミはたしか、白川……愛河ちゃんっていったよね?」
「ええ」
愛河は不透明な笑みを浮かべ、クスクスと笑う。
「私もあなたのことを知っているわ。教室の真ん中で叫ぶ先輩だなんてそうそういないもの」
たーまやーってね、とからかうように実演してくる。凛音は開いた口が塞がらなかった。トロイメライになったばかりで少し浮かれていた時だ。愛河も同じ教室にいたから見られていたのも当然といえば当然――なんだけれども。
ある疑問が浮かび、凛音は地面に視線を走らせる。月明かりに伸びた影が彼女の足元にへばりついているのを見て、ハッとする。
「……ねぇ、キミって今、トロイメライじゃないよね? それなのにあたしたちが見えてるの? 入夜くんみたいに見ることができるの?」
「見えなければあなたの痴態も知るはずもないと思うのだけれど」
「ということは、キミも入夜くんと同じ――」
言葉を遮るように愛河は首を振る。
「予言者ではないわ。残念ながらね」
即答され、凛音は首を傾げる。予言者じゃなければ、どうやって見ることができるというんだろう?
その疑問に先回りするように、城のてっぺんに立つ楓が口を開いた。
「入夜からも聞いているだろう? トロイメライは特別な夢――つまり『大きな夢』と同じ性質を持っているって。『大きな夢』は何も予言者だけが見るわけじゃない。一般人も時々だけど見ることがあるんだよ。葛藤している時や苦しんでいる時にね」
そういえば、そんなことも彼は言っていた。『大きな夢』や『トロイメライ』は、根本的な役割として苦しむ人々を導く性質を持っているのだと。
「ということは、愛河ちゃんも」
「余計な詮索は無用よ、凛音さん」
ぴしゃりとかぶせ気味に強く拒絶される。隠すことなく高圧的な物言いで。近頃の後輩はどうして先輩を立てることをしないんだろう。入夜も楓もこの愛河という女の子も。
「……さっきから思ってたけど、初対面でどうして名前で呼ぶのかなキミは?」
「ああごめんなさい。真々琴くんがいつもそう呼んでいるから、ついね」
「や、別にあたしは気にしないからいいんだけど」
「それはそれは、寛大だこと。さすがは真々琴くんが認めるだけのことはあるようね」
「…………」
何だろう、彼女の一言一句にトゲトゲしたものを感じるのは気のせいだろうか。何か恨みでも買われるようなことをしたのかと我が身を振り返るも、特に思い浮かばぶことはない。
どことなく険悪なムードが漂ってきたので水を向けることにする。
「ところで愛河ちゃん。キミがさっき言ってたことって?」
「ああ、真々琴くんが抱えるもののことかしら」
「そうそう。えっと……『誰からも忘れ去られた想い出』って言ってたよね? あれってどいういう意味?」
「少し考えればわかると思うのだけれど。むしろ、あなたはご自分で体験されているんじゃないかしら?」
その薄い唇に人差し指を当て、試すように微笑む愛河。
凛音は思わぬところをつかれて思考が一瞬停止する。
「あたしが……?」
「そう。あなたが」
クスクスと愛河はおかしそうに笑う。
「まぁいいわ。出来の悪い先輩に答えを教えてあげる」
こらこら、と後ろから楓がたしなめるように声をあげた。
愛河は気にせず続ける。
「ねぇ凛音さん、想像してみて? もしあなたが近々そのトロイメライ化から解放されるとして、現実的な日常に戻れたとして。果たして、その時何が起こると思う?」
「……?」
首を傾げる凛音に、小さくため息をつく愛河。
「なら言い方を変えるわ。わかりやすくヒントをあげる。……もし、あなたの本体が目覚めたとして、今こうして私たちと喋っていることをあなたは思い出せるかしら?」
「…………ぁ」
思わず唇から声が漏れる。忘れていたことを思い出した。いや、むしろその可能性に思い至りながら無意識に考えるのを避けていたのかも。
トロイメライは夢のような存在。
夢から覚めれば、そのすべてを忘れてしまう。
トロイメライ化していた時の記憶の何もかもを。誰も彼もを。楓も愛河もそれから――あの少年のことも。彼と過ごした、短くも楽しかったあの時間も。そのすべてを。
「そ、んな――」
ふふ、という艶やかな笑い声が夜の公園に響く。
「ようやく気づいたようね。でも、それはあなただけだと思う? 真々琴くんはずっと一人で夢解きをしてきたの。この町で起こるトロイメライの現象を止めるためにね」
「じゃあ、『誰からも忘れ去られた想い出』っていうのは」
「そう。生身の彼は覚えていても、彼と拘わっていたトロイメライのほうは記憶を失ってしまうのよ。楽しい会話も、嬉しかった出来事も。それらは真々琴くんの頭の中にしか存在しえないの」
その言葉に瞠目し、凛音は想像してみる。
昨日まで親しくしていた人間が次の日には嘘のように彼のことを忘れてしまっている。その人が他の誰かと楽しく喋っているのを遠くから眺める彼。その『他の誰か』が、昨日までは自分だったと思いながら、寂しげに立っている彼の姿が浮かんだ。
「でも……だったら」
「夢から覚めてもまた一から関係をやり直せばいいって? それは入夜には難しいだろうね」
そう告げる楓に、凛音は振り向く。
「前に少し話したはずだけど、予言者は特別な夢を見やすい体質にあるんだ。その夢と同じ性質を持つ『トロイメライ』もまた例外じゃない。そしてトロイメライは『現象』を引き起こす」
つまり、と楓は断言する。
「入夜は他の人を巻きこむことを恐れているのさ。だから、彼は周囲の人間と一線を引いている。主な話し相手は巻きこむことのないトロイメライくらいだね」
「でも――」
「ああ、たとえ話し相手になったとしてもそれは一時的だ。言ってみれば一夏の想い出みたいなものだね。それがわかってても、入夜はそうするしかないんだよ。本来は寂しがり屋のウサちゃんなのにね」
はは、と渇いた声を立てる楓。
青い城のてっぺん、彼女はどこか憂うように頭上の星空を見上げて呟いた。
「――結局ね、人と夢が隣あったとしても、それは『儚い』だけなんだよ」
文字通りにね、と彼女は言う。
それは入夜を取り巻いている状況にも、楓自身が体験してきた言葉にも聞こえた。彼女自身も予言者だから、入夜と同じ苦しみを味わってきたんだと思う。
「……入夜くん」
今もどこかで自分のために働きかけているだろう少年の名前を凛音は口にする。どれだけ尽くしても、ある意味報われない結果になるとわかっていながら。それでもトロイメライを追い続けて、夢を解き続けて、人を助け続けている。そんな事実ですらいずれは自分も忘れてしまうと思うと無力感に苛まれた。
「あーあ、しょげかえっちゃって。可哀想な桃里先輩。愛河が大人げなく虐めるから」
「私のせいじゃないわ。とどめを刺したのは楓のほうでしょう?」
黙りこむ凛音をよそに二人が口論する。その言葉も遠くから聞こえるように感じた。
きっと、この二人も二人なりに入夜のことを心から案じているんだと思う。
だったら自分には何ができるんだろう?
彼のために何をしてあげられるんだろう?
凛音は必死に考えてみたけれど、思いつかなかった。記憶が失われてしまう以上何もできない。
「まあまあ。そう思い詰めないでよ桃里先輩。ボクがいいこと教えてあげるからさ」
楓の声に、潜りこんでいた意識が浮上する。
「いいこと?」
「はは。といってもあまり期待されても困るけどね。入夜を助けることには繋がらないかもしれないけど、まあ、何かの役には立つと思う」
「?」
意図がわからず、小首を傾げる凛音。
楓は悪戯っぽくウィンクをした。
「ボクは魔法使いだ。貴女にとっておきの『魔法』を教えてあげる」




