第二十三話 『抱えるもの』
入夜くん、と桃里凛音は心の中で呟いた。
夕方にも訪れた月城公園。その二階の滑り台の入り口に腰を下ろし、見るともなしにまんまるの月を眺めていた。夜の空には星が溜まり、時刻はもう深夜を回っている。
今頃彼はどうしているだろう。自分が勝手な行動をとっているばかりに呆れているかもしれない。きっと、今こうやって黄昏れているのを見れば彼は怒るだろう。
怒られてもいい。思えば散々怒られてばかりだったのを思い出す。こっちが先輩なはずなのに。
それに、夕方のあの後ろ姿。
今にも消え入りそうで、ほんの少しつついただけで崩れてしまいそうで、見ているだけで胸が苦しかった。できることなら駆け寄って抱きしめてあげたかった。ぎゅっと抱きしめて、『大丈夫だよ』と言ってあげたかった。そんなことを自然に思えてしまう自分に、少し驚く。
入夜のことは、この城の『魔法使い』と自称する楓から聞いていた。
予言者という特別な存在として生まれて、小さい頃は周りから疎まれて育ったこと。中学三年生の時にこの高見倉町に引っ越してきて、楓と出会ったこと。彼女と『夢解き』をして過ごしたこと。――それから、彼女がトロイメライになってしまったこと。楓の本体は今も神木病院で眠っているらしかった。
一体彼は、どれだけのものを背負って生きているのだろう?
年下なのにあの大人びた口調がそれを語っているようでもあった。でも、彼の喋り方は楓のそれに少し似ている。彼女から影響を受けているというのたぶんあると思う。
凛音はじっと玲瓏に輝く月を見上げた。それが宙にぷかりと浮かぶシャボン玉のようにも見えて、今頃彼はシャボン玉を膨らませているのだろうかと想像する。
「まるで戦場に赴いた騎士の帰りを待つお姫様のようだね、桃里先輩」
と、上の方から声が降ってきた。
見上げると、右側の鉄柵の上に猫が器用に立っている。チャコールグレイの毛並みを持った猫。挨拶がわりか挑発するようにしっぽを軽く振ってきた。
「楓ちゃん」
「やぁお姫様。ご機嫌麗しゅう」
「今度はどこに行ってたのキミは? こんな夜中に」
彼女はこの月城公園にずっと佇んでいるわけでもないらしく、気の向くままに町を放浪しているみたいだった。そういえば初めて出会ったのも公園じゃなくて、路地裏の猫の集会だったと思い出す。猫のように気の向くままに暮らせたらどんなに素敵だろうと歩き回る猫を見ていつも思ったものだけれど、彼女はその夢を叶えているようだった。ちょっとだけ羨ましい。
「ふふ、これでもボクはモテるほうでね。愛人のところに行ってたんだ」
「あ、愛人……?」
「ちなみに猫のね。なかなか可愛い男の子なんだよこれが。まぁ本命の子と比べれば少し物足りなさがあるんだけど」
これがほんとの『猫股』ってね、とチャコールグレイの猫が悪戯っぽく笑う。猫のウィンクなんて初めて見たけれど、色んな意味で魔性めいていた。
「まったくキミって子は。入夜くんに頼れないからあたしは楓ちゃんのところに来たんだよ? 早くなんとかしてくれなくちゃ困るの」
「だから言ったじゃないか、最初に。ボクはもうそういうのを卒業したんだってさ。今はただの魔法使いで、少しモテるだけの猫にすぎないんだから」
にべもなく彼女はそんなことを口にする。
「そんな……入夜くんだってあんなに苦しんでるのに」
「ああ心配してるのかい? はは、こんな可愛い先輩に思われるなんて入夜も隅におけないなぁ。まぁ彼の場合、何気に昔から異性に好かれやすい体質だったけどね」
「キミは心配しないの?」
「ボクが? んー、どうだろうね。たしかに彼は頼りなくて時々見ていられないけど、個人的にはむしろ早く折れてくれたほうが好ましいかな」
「……何それ。どういう意味?」
はは、と朝倉は不敵に笑う。
「どうもこうもまんまの意味さ。入夜が何もかもを諦めてくれれば万々歳だよ。ボクのようにね」
「楓ちゃんのように……?」
その言葉に、どうも引っかかりを感じた。それってつまり、彼女もまた何もかもを諦めたということで、そうなってくると――
「……もしかしてキミ、自分からトロイメライになったの?」
「おーっと、これは鋭い。成る程成る程。入夜が言っていたのはまんざら誇張でもなかったわけだね。なかなかに聡い人だ」
これはお見それした、とニヤつきながらの遠回しの肯定に、凛音は目を瞠る。
「……嘘。入夜くんがあんなにショックを受けているのはキミのせいなの? どうして彼を傷つけてまで――」
「貴女にはわからないよ桃里先輩。絶対に、ね」
「そんなの関係ないよ。そんなの、何の言い訳にもならない……! キミが一人でそうするのは勝手だけど、入夜くんを巻きこむなんて許せないよ」
その金色に輝く猫の瞳を、凛音は睨みつけた。
楓はその視線を躱すようにひょいと身体を持ち上げ、壁を伝って城のてっぺんに軽やかに着地。そして見る見るうちに猫は人の姿になっていく。
気づけばボーイッシュな黒っぽい服装に、チャコールグレイの長髪の姿をした楓がそこに立っていた。金色ではなく、見透かすような黒の瞳で凛音を見下ろしてくる。
「はは、貴女の許しなんて乞いたくもないさ。桃里先輩にはわからないだろうからね、この苦しみは。この、逃れようのない理不尽さは」
「……キミ、まだ子供だね」
「うふははっ。まさかそれを貴女に言われるとは」
ククっと喉の奥で楓は笑う。
風が公園の木々を揺らし、草むらからは鈴虫の鳴き声がいやに響いた。
凛音はその余裕を貼りつけた顔に、ぴっと指をまっすぐにさす。
「そんなに言うなら楓ちゃんの悩み、あたしに話して見せなさい。包み隠さずその苦しみとか理不尽とかぜんぶよ。先輩であるこの凛音さんがどーんと受けとめてあげる」
さあ来なさい、と両手を広げる凛音。
「ふっ」
と楓は吹きだした。
「あっは。はははっ、あっはははははははは! いやぁこれは参った参った。参りましたよ桃里先輩」
「何がおかしいの?」
ひとしきり笑った後、『あー笑った笑った』と満足そうに呟く楓。
「ああいや馬鹿にしてるわけじゃあないよ? ……いや、でも半分はそうかもね。ただもう半分は単純に凄いと思っただけ。尊敬するよ。そんな風にストレートに聞くことができる貴女のほうがよっぽど『予言者』に向いているんじゃないかなってね」
「あたしが?」
「そう、貴女が。入夜にはそれができない。というより、他人と拘わるのすら彼は拒んでいるからね。だから彼は『現象』便りなんだよ。『現象』から神話を読み取るセンスだけはあるからね、入夜は」
それは知っている。教室にいても彼はクラスメイトたちと自分から接しようとしていないのはすぐにわかった。時々、どこか黄昏れるようにクラスメイトたちをちらちらと窺っていることも。そんな姿が見ていられなくて、授業中に眠ってトロイメライ化してしまった時はよく彼のところに通っていた。
今はそれすらも許されなくて、懐かしさと切なさとで胸がひりつく。
「……楓ちゃんと入夜くんは、一体他に何を抱えているというの?」
「ふふ、知りたい? それはね――」
楓はこれみよがしに口端を持ち上げる。
「彼が抱えているのは『不安』と『孤独』。そして、誰からも忘れ去られた『想い出』よ」
――と。そう告げたのは、目の前にいる楓じゃなかった。
声は後ろから。ガラスのコップの縁を指でなぞったような声が聞こえてきた。
凛音はゆっくりと振り返る。
そこには、いつのまにか女の子が立っていた。天ヶ紅高校のセーラー服。腰まで伸びた濡れたような黒髪に、赤縁眼鏡が月明かりに反射する。そのガラス越しに光る涼やかな眼と眼が合った。彼女は艶やかな笑みを浮かべ、恭しくお辞儀をする。
「ご機嫌よう。挨拶するのは初めてになるわね、『凛音さん』」
「キミは――」
彼女を知っている。時々教室で入夜と喋っている女の子だ。いつも黒い文庫本を持っているからよく覚えている。
白川愛河。たしか、そんな名前だった。




