第十九話 『消失』
山頂から九号まで一旦戻り、入夜は凛音と一緒にロープウェイに乗って下山した。
近くの停留所で待つこと一〇分、バスに乗って(もちろん凛音はタダ乗りで)伊鳴山を後にする。発車します、という女性の無機質なアナウンスが変に白々しく聞こえた。
一番後ろの窓際の席を凛音がとり、入夜はその隣に座る。あんなやりとりがあった後のせいかお互いが沈黙を守りあっているように感じた。
彼女は窓の外で流れる景色を見るともなく眺めているようで、こちらには視線をくれなかった。時折りハミングが聞こえくる程度。それはそれで助かった、と入夜は思う。
煽ったのは凛音のほうだとはいえ、怒鳴り散らしてしまったのだ。それを今になって後悔している。感情を露わにするのはあまり好きじゃない。そもそもあんな風に怒るのだってとても久しぶりで、学校の先輩を怒鳴りつけるのはもちろん初めてだった。
ちらりと隣で座る凛音の横顔を窺う。
窓の外を楽しげに眺める彼女は、やはり気にした風でもなく上機嫌だった。テレビのCMで流れていた曲をハミングし、足をぱたぱたとさせている。これから遠足に向かう子供のように。
「なぁに? じろじろ見たりして」
窓の外を向いていたにも拘わらず、振り向いた彼女はいきなりそう言い当ててきた。
「き、気づいてたんですか」
「あは、だって窓にキミの顔が映ってるもの。声もかけずにちらちら見てくるからどうしたのかなぁって」
なるほど、と窓を見て得心がいく。入夜が視線に気づかなかったのは、彼女の姿が窓ガラスに映っていなかったからだ。
「んー? もしかして入夜くん、あたしに見とれちゃったとか」
「ありえません」
自然と語気が強くなり、声が少しうわずってしまう。「あ、いや、違います……」と言い直して無意味に取り繕う自分がさらに恥ずかしい。気づかれないように祈るばかりだった。
「なにさーまったく。やっぱり入夜くんは可愛くない」
「可愛くなくてけっこうですってば」
ちぇー、と彼女は唇を尖らせる。
もうまともに目も合わせることもできやしなかった。耳も頬を心なし熱くなっている気がする。居心地悪い雰囲気があの『黒い染み』のように押し寄せてくるようだった。途中で何度も胸元のシャボン容器に手を伸ばしては離してを繰り返した。
『次は天ヶ紅高校前、天ヶ紅高校前を通ります。御用の方は――』
とようやく無機質な女性のアナウンス。藁をも掴む思いで入夜は降車ボタンを押した。
◆
入夜たちを降ろしたバスが音を立てて去っていく。
携帯を確認すると、すでに午後四時を回ろうとしていた。そろそろ凛音の本体が起きる頃合いだった。振り向くと、当の本人は身体が凝ったわけでもないのに伸びをしている。
「……ん。それじゃいこっか、入夜くん」
「いや、家まで送ってもらわなくても大丈夫ですよ?」
「そんなこと言わないの。遠足は家に帰るまでが遠足だって学校で習ったでしょう? あたしが連れてきた以上、きちんと家まで帰すのが先輩としての責任なんだから」
少し膨らんだ胸に手を当てながら、彼女はそんな殊勝なことを口にする。
そこまで言われたら断ることができなかった。無理に断ろうとすればかえって怪しまれてしまう。
しぶしぶ商店街とは逆方向、入夜が住んでいる団地へと歩き出した。その後ろをひょこひょこと凛音がついてくる。
入夜は雰囲気を紛らわせようと辺りを眺めた。
目に飛びこんできたのは、一面に広がる青々とした田んぼだった。力強い緑。折り目正しく切り分けられ、風に揺られてさやさやと葉の擦れる音が聞こえてくる。遠くに人影がずらりと並んでいるけれど、あれはきっと烏除けのカカシだろう。最近じゃキャラクターに模したカカシを並べるのが流行っているみたいだった。
しばらく歩くと例の橋に辿り着く。凛音と初めて会った場所で、ここは調査のために彼女と何度か訪れていた。ついこの間も朝倉に会った時にここで語り合ったばかりだ。
凛音はおもむろにひょいとジャンプし、欄干の上に着地。白線を踏み歩くように慣れた足どりで歩き出す。トロイメライの身体もすっかり馴染んでいる様子だった。
「……スカートの中、見えちゃいますよ」
「入夜くんのえっち。覗いたら承知しないんだからね」
ならやらなきゃいいのに、と入夜はため息をつく。紺のスカートから伸びた真っ白な脚が目に焼きつくようだった。頭がくらくらして視線を下げる。
「……ん?」
すると、橋の下に広がる河原で誰か佇んでいるのを見つけた。背の低い女の子。Tシャツにジーンズという簡素な格好でキャップを目深に被ってはいるけれど、仕草が女の子のそれだと人目でわかる。キョロキョロと辺りを見回していた。既視感を覚え、そういえば凛音も初めて見た時は同じような仕草をしていたと思い出す。
「どうしたの?」
先を歩いていた凛音が欄干の上で器用に振り返った。
「いや、あれって」
「どれどれ? ……ん? あの子――」
指さして教えると、意外にも凛音が反応した。
「知り合いなんですか?」
「乙川ちゃん。美術部の一年生だよ。それより入夜くん、ちょっとしゃがんで」
どうして? と首を傾げると、『いいから早く』とジェスチャーで促された。仕方なくその場でしゃがみこむ。凛音も欄干から飛び降りて、同じようにした。もともと見えないので意味があるとは思えないけれど。
「どうしたんですか急に」
「たぶん……見てればわかるよ」
珍しく神妙な顔つきの凛音。なぜかそれは朝倉の表情と重なった。一体何が起こるというのだろうか。
鉄柵の隙間から覗いていると、乙川は何かを探している様子だった。おもむろにしゃがんで石を拾っている。微に入り細をうがつようにまじまじと眺め、こくこくと一人頷いて納得したかと思うといそいそとその石を近くの木陰へと運んでいった。
目を凝らすとそこには、石が塔のように積み上げれているのが見えた。
「もしかして、積み石……?」
以前凛音とも話していた『願掛け』をやっているのだろうか。
『誰にも見られずに石を高く積むと願いが叶う』という天ヶ紅高校でまことしやかに囁かれている噂の願掛け。だとしたら、入夜たちが見てしまっている以上乙川という少女の願いは叶わないことになるけれど……。
そんなこともつゆ知らず、彼女は積み上げた石の前で何かを呟き始めた。入夜ははたと気づく。
「というかこれ、見てていいんです?」
「……」
「凛音さん?」
返事がなかったので見てみると、彼女は食い入るように乙川を凝視していた。さっきとは一転、顔が強ばらせているのがわかる。
ぞあっ、と一瞬悪寒が背中を駆け上った。反射的に乙川のほうに視線を戻す。
「まさか、あれは……!」
入夜は驚愕した。一心不乱に何かを祈る乙川の背後に、異変が起こったからだ。
――――じわ、と。
山頂で襲われかけたあの真っ黒な『染み』が、突如出現していた。
急速に膨張し、『染み』は瞬時に二メートルを越す大きさまでになる。細長く形を変化させ、ぞわぞわと生き物のように蠢く。
「凛音さん!」
慌てて目を覚まそうと身体を揺すろうとするも、入夜の手はあっけなくすり抜ける。トロイメライ化している彼女に触るのは不可能だった。
そうしている間も『染み』は変化を留まらず、先端から孤を描いたような突起物が生えてくる。交差する部分はまる獣のように紅く輝きだした。
それはまるで、大口を開けた化け物の顎のよう。
あるいは、死神の持つ巨大な鎌のようにも見えた。
エコーの時とは違う。明らかに人に危害を加えるものだと肌で感じた。
「凛音さん、目を覚まして下さい!」
必死に叫ぶも、反応はない。
そして無情にも真っ黒な『染み』は動き出す。
ゆっくりと、乙川の背後から襲いかかる。ぶつぶつと目を閉じて何かを呟く彼女は最後まで気づかなかった。
ばくん! と乙川は鎌のような化け物の顎のような真っ黒な『染み』に覆い被さられ、振り下ろされ、飲みこまれて――。
気づけば、跡形もなく消失していた。
乙川も『染み』も影も形もなく、積み上げられた石の塔だけが寂しく立っている。
「そんな……」
よろよろと入夜は力なく膝をついた。かすれた声しか出なかった。いつの間にか喉が干上がっている。いや、それどころじゃない。
自分の現象を見た『覚醒体』はただでさえショックを受けるというのに、それが目の前で後輩が襲われたのだ。その衝撃は計り知れない。トロイメライは物理的な傷はつかないとはいえ、精神的な傷は別だ。
「凛音さん!」
慌てて振り向き声をかける――けれど。
「……あれ?」
果たして、そこには彼女の姿はなかった。
ショックを受けて逃げ出したのか、もしくは本体のほうが目を覚ましてトロイメライ化が一時的に解けたのか。『染み』に釘付けだった入夜には知るよしもない。
そうして凛音はその後、入夜の前に姿を表さなくなった。
次の日も、そのまた次の日も。
今までの彼女とのやりとりが、まるで夢だったかのように。
はい、そんなわけでここで第二章は終了となります。
次回は第三章が開幕!




