第一話 『真夜中の透明人間』
そして悪夢のようなチャイムが鳴った。
終始睡魔に襲われていた数学の授業が終わり、天ヶ紅高校は現時点から昼休みに入る。真々琴入夜はこの時間帯がどんな授業よりもひどく苦痛だった。
窓側の一番後ろ、入夜は自分の机に引っ掛けていた鞄から弁当箱を取りだし、内職よろしく黙々と開封作業にとりかかる。保温性に特に優れているわけでもない二段式の弁当箱をまずばらす。蓋を開ける。中に入っていたのは、毎度判で押したような日の丸ご飯。おかずは昨日の余った焼きそばと、生姜焼き。どちらも時間が経って少し硬くなっていた。そして冷たい。というか脂っこい。遺憾ながら炭水化物ばかりの偏った昼食となってしまった。
入夜はさりげなさを装いつつクラスを窺う。
二年四組の教室はがらんとしている。室内を満たしているのは八月上旬の生温かい空気と、少し居心地の悪い静けさだった。チャイムと同時に六割近くの生徒が購買へと走っていったせいだ。
けれどこの静寂もじきに終わるだろう。引いた波がまた押し寄せるように、すぐに購買から戻ってきた生徒たちで教室に活気が戻る。焼きそばパンがゲットできただとか、今日はメロンパンが買えなかっただとか、そんな他愛もない会話で教室が満たされるのがありありと見えた。
「あらあら。真々琴くんのお弁当箱、まっ茶色だね」
そんな涼しげな声が、左後ろから聞こえてきた。
鈴を転がすようなというよりは、グラスの縁を指先でこすった時のような声質に近いかもしれない。胸の内側を撫でられたみたいな気持ちになった。
そちらを振り向くと、開いた窓に腰掛けるようにして赤縁眼鏡の女子生徒が立っていた。トレードマークの眼鏡とセットで、いつもの黒色のブックカバーをかけた文庫本を手にしている。
「……いつからいたの、白川さん」
「体に悪いよ、そういうの。きちんと野菜もとらなくちゃ」
入夜の質問には答えず、白川愛河は、不透明な笑みを浮かべてそう言った。窓から生温い風が入ってきて、濡れたような真っ黒なセミロングの髪が揺れた。同時に柔らかなシャンプーの香りが入夜の鼻腔をくすぐってくる。
紺色の半袖セーラーの上にベージュのニットベストを着ている。似合ってはいるけれど、暑くはないんだろうかと心の中で首を傾げる入夜だった。
「そういう白川さんはご飯食べてないね。ダイエット中?」
「こらこら。女の子にそんなこと言ったらダメだよ真々琴くん。デリカシーがないって言われちゃうよ?」
「もう言われてる」
なら今後は気をつけるように、と白川は人差し指を立ててくる。ついでに悪戯っぽい笑み。優等生ぶりが如実に表れる仕草だった。
彼女は持っていた文庫本――きっとまたぞろホラーものだろう――を読み始める。文学少女を気取った感じでもなく、読書の習慣がきちんと染みついているのだとわかる。
「そういえば真々琴くん。あの噂を知ってるかしら」
と、白川は器用にも文字を目で追いながら話しかけてきた。
「噂って、何の」
「真夜中の透明人間」
「……どこで?」
と聞くと、彼女は走らせていた目を一旦止めて、指先を下に向ける。ここ、と指し示す。この学校。天ヶ紅高校でだよ、と。
入夜は悟られない程度に小さくため息をついた。
「それなら僕も知ってるよ。透明人間って呼ばれてるのは知らなかったけど、最近その話題で持ちきりだったし」
学校は意外と狭い。教室はもっと狭い。人とコミュニケーションをとらなくても耳をすませば自然と情報は入ってくる。もっとも、脚色されて事実が変にねじ曲がっていることが多いけれど。
「というか、白川さんってホントそういう類いの話が好きだよね」
「あら悪い?」
「いや別に」
ちょっともったいないと思うけどね、とはあえてつけ足さなかった。
成績優秀で誰とでも打ち解け、面倒見がいいことから彼女は誰からも頼りにされている。今だって、交友関係が乏しい自分に話しかけてきている。基本的に世話焼きなのだ。そんな非の打ち所を感じさせない彼女の唯一の欠点ともいえるものが、大のホラー好きだった。
小説も映画もほとんどホラーしか見ないし、行動力があるのでその手のスポットがあればどこへでも足を伸ばす。以前は廃虚巡りがマイブームだと言っていた。
変な間がぽっかりとできて、入夜は再び生姜焼きの消化作業にとりかかる。そういえば突然訪れる沈黙の間は幽霊が通り過ぎた証だったっけ、と根も葉もない噂を思い出す。
白川は慣れた手つきで片手でページをめくった。ゆっくりと沈黙が流れる。彼女がさらに一ページめくったところで、その沈黙が破られた。
「でも最近ね、もう一つ別の噂があるの」
「別の噂?」
「三年四組の籠手崎先輩は知ってるかな。籠手崎澄歌さん」
入夜は生姜焼きを飲みこんでから、首を小さく振る。
「なんでもね、真夜中に学校の側で夜遊びしてた子が見たんだって」
「……」
その言葉に、入夜は反射的に反応してしまう。
「見たって、籠手崎先輩を?」
「そう。籠手崎先輩を」
と白川は目を合わせてくる。その瞳は心なし爛々としているように見えた。
「見た子が言うにはね、その籠手崎先輩が一瞬で消えたとか、消えてないだとか」
「まるで幽霊みたいに?」
「そう。幽霊みたいに」
ふむ、と入夜は軽く握った拳を口元に当てて考える。
真夜中の透明人間。
籠手崎澄歌。
突如消える現象。
頭の中で白川が言ったいくつかのワードを繋ぎ合わせ、考察する。いや、考えるまでもないのかもしれない。自分の予想が外れて欲しくて、逃げ道を探していたのかも。結論は深いため息と共に吐きだされた。
「白川さん、お願いがあるんだけど」
「なにかしら、真々琴くん」
「籠手崎先輩のことについてちょっと聞きたいんだ」
「あれ、真々琴くんって年上が好みだったっけ」
「違う違う。ただの興味本位」
「ふぅん。別にいいけど……なんか――」
そう言いかけて、教室のドアがガラッと勢いよく開け放たれた。白川と仲のいい別のクラスの女子だった。
『愛河ー! 焼きそばパンゲットしたから一緒に食べるぞー!』
パンを手に持った右手をブンブンと振っている。その後ろにも数人の女子が顔を隙間から覗かせていた。白川はこくりと頷いて、
「それじゃあまたね、真々琴くん」
「うん」
彼女は読んでいた本をパタンと閉じて、友人達のもとへ歩いていった。けれど入夜の後ろを通り過ぎる際に彼女は耳元で囁くように呟いた。
「籠手崎先輩のこと、後で教えてあげる」
不意打ち気味だったので入夜はぎょっとする。振り向くとそこには、また不透明な笑みがあった。目と目が合う。
「ありがと。白川さん」
どういたしまして、とハミングするように呟き、彼女は黒髪を揺らしながら教室を後にした。
「……さて、と」
改めて入夜は弁当箱と向き合う。引き続き消化作業に取りかかる。教室の隅で、一人黙々と。バランスはどうあれここでしっかりと食べておかなければならないのだ。
今夜は少し、忙しくなるのだから。
愛河さんの読んでる本は『ハンニバル』という設定でした。
『真々琴君の脳みそ、焼いて食べたらどんな味がするのかな?』とか言わせたかったんですけどね(笑)