第十八話 『約束』
「凛音さん、凛音さん!」
入夜は必死に呼びかけた。『黒い染み』は依然と膨らみ続け、始めは粒にすぎなかったものがテニスボールほどの大きさになり、脈打ち、一つの生き物のように蠢いている。
トロイメライの現象だ、と入夜は思った。何かの神話をかたどっているはずだけれど、こんな漠然としたものじゃ分析もできない。ただ見た感じは悪い予感しかしなかった。
『染み』はバスケットボールの大きさにまで膨張。圧迫感が尋常じゃない。テレビで巨大な風船を割れるまで膨らませる罰ゲームを見たことがあるけれど、それに近い恐怖感があった。
入夜は一歩下がる――パラパラ、と小石や砂が後ろに落ちていった。階段を登ってきたことを忘れていて思わずバランスを崩す。
「ッと!」
危うく踏み外しそうになるのをこらえるも、状況は悪くなる一方だった。
バスケットボールからさらに姿を変え、今度は細長い形状になっていく。このまま『染み』の現象を見守り、分析すれば夢が解けるのかもしれない。だけど状況が状況だった。逃げ場がない上に入夜自身が『現象』に巻きこまれてしまった場合、元も子もなくなる。
「凛音さん、目を覚まして!」
叫び、ほとんど肥大化した『染み』で見えなくなった彼女に呼びかける。
「目を覚まして下さい凛音さん!」
『染み』は二メートルをゆうに越えていた。入夜との距離は三〇センチもない。蠢く影は今にも襲いかかってきそうだった。額から汗が滑るように流れ落ちる。
「凛音さんッ!!」
声の限りに入夜は叫んだ。
するとその瞬間、『染み』はふっと跡形もなく消え去った。障害物がなくなり凛音の後ろ姿だけがそこにある。さっきと変わらず無言のまま立ち尽くしていた。
そして、彼女はゆっくりと振り返る。
「……あ、ごめん入夜くん。何か言ったかな?」
◆
頂から見える高見倉町は、思いのほか映えて見えた。
昔ながらの瓦屋根、人で賑わう商店街、緩やかに傾斜を描く一本道――馴染みのある場所なのにこうして見るとまた少し違う。日常の、その裏側といえるのかもしれない。ここまで来るのにそれなりに苦労はしたけれど、それだけの価値はあったと入夜は思った。
「あ、ほら見て入夜くん。あそこあそこ、学校があーんな小さく見える」
隣の凛音が鉄柵から乗り出すようにしてはしゃいでいた。秘密の宝箱を開けて見せる子供みたいに無防備なこの笑顔。不覚にもドキリとしてしまった。
まるでさっきの『染み』の現象が嘘のようだった。
しらばっくてれている風でもなく、後ろを向いていたので背後の異変に気づかなかったいらしい。本人からすれば『ぼーっとしていた』くらいの認識なのかもしれない。
入夜はあえてそのことを凛音に伝えなかった。籠手崎澄歌のように意識がない状態のトロイメライであれば問題はないけれど、意識のある『覚醒体』にとって自分の身から出た『現象』はショックが大きいからだ。以前の体験から得た教訓だった。
入夜は頭を振る。思いつめると変に勘繰られるかもしれない。
満足そうな笑みを浮かべながら景色を眺める彼女の横顔を、入夜は見る。
「それで、凛音さんはどうしてこんな山頂くんだりまで僕を連れてきたんです?」
問いかけに、凛音は一度視線を下げる。それから顔を上げ、遙か遠くに見える海の水平線を見つめた。
「……昔ね、あたしが落ちこんだ時、お父さんによくここまで連れてきてもらったの。まだ小さい頃だったから苦しかったんだけど、この山頂に着いたら不思議と辛いのとか苦しいのとかが軽くなったんだよね。『山は色んなものを落とす』って、お父さんがよく言ってたっけ」
「落とすって、辛さや苦しみを?」
「迷いとか悩みもだよ。石も岩も落とすし、それに命だってそう」
「それだけは落としたくないですね」
あはは、と凛音は笑った。その表情に入夜はくすぐったさを覚える。
きっと彼女は自分のためにここまで連れてきてくれたんだろう。朝倉と会ってから何かを察して、彼女なりに元気づけようとしてくれたのかもしれない。
朝倉との関係も、予言者のことも、何もかも明確には話さそうともしない入夜に凛音はどうしてここまでしてくれるのだろうか。少し前までお互いの名前すら知らない間柄なのにも拘わらず。彼女自身も、『トロイメライ化』という大きな問題を抱えているはずなのに。
「入夜くんはね、あたしと似ている気がするの」
「え?」
こちらの思考を先回りするような言葉に、少し驚く。
「どういうことです?」
「あはは、特に深い意味はないよ。なんとなくそう思っただけ」
「はぁ」
曖昧な答えに、曖昧な返事。
「というか、キミは難しく考えすぎなんだよ。複雑に悩みすぎ、物事を重く受けとめすぎ。少し真面目すぎるんだよね、入夜くんは」
「……あの、会話の流れがあんまり掴めないんですけど」
「人生相談よ、人生相談。先輩が後輩の悩みを聞くのは普通でしょう?」
入夜は苦笑する。
「悩みって、だけど僕のは――」
「『予言者』っていう特別なものだから、他人にはわかりっこない?」
う、と入夜は息を詰まらせる。そう言われると自分が思い上がっているみたいで嫌だった。
「だって、実際わからないじゃないですか。僕みたいなのは……異常なんですから」
「特別な血を受け継いで、幽霊みたいなものが見えて、それを成仏させることができる。たしかにどれもあたしにはできないよ」
でも、と凛音は続けた。
「入夜くんにだってあたしのように絵を描くことはできないでしょ? 自分にできることをお互いやってるだけだよ。悩みを持っているのだって、お互い様だもの」
あたしだってこんなになっちゃったしね、と彼女はおどけてみせる。
背中の辺りが強ばるのを感じた。心がざわつくのが自分でもわかる。
「そんな簡単な問題じゃないんですよこれは。色々な問題が複雑に絡み合って、もうどうにもならなくなってるんです。『予言者』の血なんて引きさえしなければ、僕はもっと……」
「悩み苦しみもなく平凡に過ごせた? そんなのありえないよ。入夜くんは入夜くんだもの。きっと、『予言者』じゃなくてもまた別のことで難しく考えて、思い詰めてるでしょう?」
瞬間、入夜は気づけば鉄柵を思い切り殴っていた。
「凛音さんに……僕の何がわかるんですかッ!!」
生ぬるい風が、竜の鼻息のように強くなった。イイィン……と、柵の振動する音が響き渡る。叩いた手がジンジンと熱を帯びていく。荒い息を吐きながら肩を上下させ、数秒、瞼を強く閉じる。そして鉄柵の振動する音が聞こえなくなった頃、再び目を開けた。
「……すみません、取り乱しました」
けれど凛音は後輩の無礼を責めるでもなく、ただ薄く微笑むだけだった。
「良かった。やっと入夜くんがホントのこと言ってくれた」
「凛音さん……」
わざと煽ってきたのか、と入夜は狐に包まれた気持ちになった。感情を吐きださせるために、本音をぶつけさせるために彼女に誘導されていた。悪戯が成功したみたいに彼女は「えへへ」と笑う。
自然な足どりで凛音は鉄柵を身体ごとすり抜けて振り返り、柵越しに入夜と向き合った。
「約束して、入夜くん」
と彼女はそう言った。
「今度の土曜日の、商店街の夏祭り。キミはあたしを誘うの」
「誘うって、凛音さんは」
「もちろんそれまでにあたしをなんとかしなきゃダメ。先輩とお祭りデートをしたければうんと頑張らくっちゃね?」
突拍子もない提案に、入夜はたじろいだ。どこまで本気なのかがまるで判然としない。
「わかってるんですか? 僕が夢を解いたら、凛音さんはトロイメライ化している時の記憶を失ってる状態なんですよ? 今しているこのやりとりだってあなたは忘れてしまうんです」
「それでもだよ。キミはあたしを誘うの。教室に颯爽と入ってきて、まっすぐあたしの席まで悠々と歩いてきて――それから、いきなり『僕と夏祭りにいきませんか?』って、優しく手を差し伸べてくるの。きっとそうしたら、あたしはキミの手をとると思うから」
「そんな恥ずかしいことできませんよ。第一僕は――」
す、と入夜の口元に凛音の細くて白い人差し指が伸びた。言い訳は聞かないからね、と無言で彼女は首を振る。
「もっとシンプルに考えて。難しく思わないで。キミはただ、夏祭りにあたしを誘うだけだよ。それだけのお話」
ね、簡単なことでしょ? と凛音は子供っぽく首を傾げてくる。そこには、彼女の本質のようなものが覗いているような気がした。
成績が悪かったら勉強をすればいい。火事になったら水をかければいい。誰かが死んでしまいそうだったら手を差し伸べて助ければいい。難しいことをできるだけシンプルに考えて、わかりやすく切り取って、それを当たり前のように口にする。
入夜にはそんな凛音が羨ましく思えた。そんな考え方ができたなら、今頃自分はこんな風になっていない。彼女のように常に前向きに生きられたのなら、もしかしたらヒーローにだってなれていたのかもしれない。どんな悩みも困難も、挫くことなくシンプルに。
トクン、と入夜の心臓が跳ねあがった。
薄茶色の髪も、同色の瞳も、紺色のセーラー服も、自分より少し高い背丈も、その白い素肌も、今までとまるで変わらないはずなのに。真夏の青空を背負う彼女は、どこか今までと違って見えた。
具体的には、きらきらと輝いて見えた。背後にある陽の光の加減のせいかもしれないけれど。
「じゃ、そろそろ降りよっか? 帰りはロープウェイでね」
ハミングをしながら彼女は上機嫌に歩いていく。
『山は色んなものを落とす』と凛音は言っていた。辛さや苦しみ、悩みや迷い、石や岩、それから命。霊験あらたかなこの伊鳴山だったなら、それもありえるのかもしれなかった。
あるいは入夜が――恋に落ちてしまうことだって。