第十七話 『伊鳴山』
高御座町のシンボルともいえる伊鳴山は、山全体が神社の神域になっている霊山だ。
標高は六〇〇メートルほどしかないものの、深い緑をたたえたその山容は霊山にふさわしい威厳を持っているのは無神論者である入夜でさえも感じるものがある。毎年の初詣は凄まじく、二年前初めて年明けの初詣に行った際はその人の数に驚かされた。
本堂へと繋がる参拝用の幅広い石階段は見上げるほど長く、上り下りすれば軽い修練になりそうだと辟易する。けれど恐ろしいことに今日の修練はもう少しハードだった。
先に本堂のほうへ二人でお参りを済ませ(登山者お決まりのしきたりらしい)、入夜は来る時も上ってきた石階段の脇にある『登山用ルート』と書かれた看板を見上げる。その奥に、挑戦者を飲みこまんと大口を開けた石造りの鳥居が立っていた。
「……本当に登るんですか、ここ」
「うん、一緒に頑張ろうね入夜くん」
ひょいと入夜の隣に並んできたのは、いつものセーラー服姿の凛音だった。心なし声が弾んでいるのは気のせいじゃないだろう。
「一緒に頑張るって。頑張るのは主に僕だけだと思うんですけど?」
今の彼女はトロイメライ化しているので肉体的な疲労はまったくない。時計は午後一時を指しているのにも拘わらず。なんでも彼女の休日はいつも午前を絵を描いて過ごし、午後は疲れて睡眠をとっているのだとか。絵を描く時にどれだけの集中力を使っているのだろうと入夜は少し呆れていた。
「とかいっちゃってー。入夜くんもきちんと準備してきたあたりやる気のほどが窺えるよね。ジャージにトレッキングブーツにそれにタオルも。あはは、変なカッコ」
指をさされて笑われる始末だった。
「『山を舐めちゃダメだからね!』って凛音さんが散々説教垂れたからですよっ。何が悲しくて休日にこんな格好で山登りまでしなくちゃいけないんですか……」
「はいはいそこ愚痴をこぼさないこぼさない。高校の先輩にして山登りの先輩でもあるこの凛音さんがレクチャーしてあげるんだから、大船に乗った気持ちでいなさいって」
「……それ、氷山に激突する大型客船じゃないですよね?」
「キミは映画の見すぎ。ほら、時間もあまりないんだから行くよ入夜くん」
さっさと歩き出してしまう凛音。そういえば山登りのパニックホラーものもあったっけな、と思いながら入夜は不承不承その後ろをついていくことにした。
途中まで敷かれていた砂利もなくなり、剥き出しの地面を入夜は踏み歩く。
道の脇に立ち並んだ木々はどれも大きく、幹は手を回しても半分も届かないくらいに太い。折り重なるように生い茂った木の葉が容赦のない日光を遮り、涼を作っている。空気は澄み、緑に溢れ、川のせせらぎは綺麗な音色のようだった。
霊験あらたかな神域なだけあって神秘的な雰囲気に包まれた場所で、そこかしこで鳴く蝉たちのやかましい大合唱すらその神秘さの一部となっている。
一〇分から一五分刻みで二号目、三号目とサクサクと通り過ぎ、途中で岩の裂け目から湧いていた清水を頂戴したり、凛音から山に関する雑学を聞いたりで特にアクシデントもなく順風満帆に(山だけど)進んでいった。聞けば彼女は、小学生の頃から父親と一緒に来ていたらしい。肌がかぶれてしまう漆の特徴や草木の名前がスラスラと出てくるところ、『山登りの先輩』を胸張って名乗るのも伊達じゃないようだった。
道中益体のない会話をしながら一時間半、早くも八号目を通り過ぎた。標高が比較的低いとはいえもう少しかかるものだと思っていたので、意外だ。
入夜は額の汗をタオルで拭う。なるべく日陰を歩いていたので多少暑さから身を守ることはできたけれど、延々と続くこの傾斜と凹凸の激しい地面とに体力がみるみるうちに奪われていった。両足のふくらはぎがすでにパンパンだ。
ひるがえって、隣を歩く涼しげな顔をした凛音が恨めしく思う。汗一つかかない真っ白なその横顔を睨むように入夜は横目で見た。
「……それで。こんな修練を僕に与える理由、そろそろ話してもらえるんですよね?」
「可愛くないなぁ修練だなんて。だから、デートってさっきから言ってるでしょー?」
「『憧れの先輩』とデートができて光栄ですよ、本当」
「うわ、棘のある言い方。やっぱり可愛くないなぁ入夜くんは」
可愛くなくて結構、と入夜はため息をつく。
なんだかんださっきから理由を尋ねても、のらりくらり躱されるばかり。まるで最初に出会った時と立場が逆転したみたいだった。彼女のことだから根に持っているのかもしれない。
「というかこれ、降りる時間とか考えてます? 凛音さんの本体が起きたら僕一人で下山しなきゃならないっていう地獄が待ってそうなんですが」
「任せなさいって。あたしはこれでも一度寝たらなかなか起きないタイプなんだから」
「……それ、胸を張って自慢げに話すことじゃないですよね?」
「『眠れる獅子』と、人は呼ぶわ」
「誰が」
「あたしが」
まさかの自称だった。
「それより、もうすぐだからって気を抜かないでよね入夜くん」
「はいはい」
学校のみならず山でも先輩風を吹かせたいらしい。ただでさえ体力が消耗しているので、無駄な争いは避けるべくさせるがままにしておくことにする。
「山からすれば、人間なんてカマキリも同然なのよ」
と、凛音はもっともらしく語り出す。
「はぁ。その心は?」
「……あ、忘れちゃった」
「じゃあ何で言ったんですかそれ……」
さっきまでの威勢はどこへやら、凛音は急に萎れだした。
「うー、仕方ないじゃない。……ただの受け売りだし」
はぁ、と入夜は疲労混じりに嘆息する。
「たぶんそれ、『蟷螂の斧』のことじゃないですか?」
「……そ、そう! よくわかったわね入夜くん。もちろんあたしも知ってたけどあえて知らないフリをしたのよ。もちろんあたしも知っていたけど、あえてね!」
「二回も言わなくていいです」
蟷螂はカマキリ、斧はカマキリの鎌の部分を意味する故事の一つだ。カマキリが車に向かって前脚を振り上げる様を『儚い抵抗』に例え、強大なものにちっぽけな存在が挑む時に使われている。
例えばそれは、巨大な山に挑むちっぽけな登山者のように。
しばらくまた雑談を交わしつつ九号目を抜け、さらに進めていくと、ほとんど土砂に埋もれた木製の階段に差しかかった。凛音は跳ねるように前に出る。恐らくこれを上れば念願の十号目――つまり頂上に到達するんだろう。
そのまま一気に最後の一段を上りきり、彼女は突然「あっ」と声を立てる。何かを見つけたようだった。
「どうしたんですか?」
けれど、答えは返ってこなかった。
固まったように彼女は呆然と立っている。不審に思って入夜も階段を駆け上がった。何気に段差が高く、一段上るのにも一苦労だ。
そしてようやく上りきったその先、凛音の視線が向かう場所にあったのは――
「…………石?」
少し開けたところに、石が置いてあった。
転がっていた、ではなく、『置いてあった』。こう表現するのは、明らかにそこには何かしら人為的なものがあると感じとったからだ。
積み石。
大きなものから順々に、いくつかの石が積み上げられていた。それも一つだけでなく、積み石の山は大小様々にそこら一体に広がっていた。まるで墓地みたいに冷えた沈黙が佇んでいる。ここまでくるとものものしさすら感じるほどだ。
「これ、なんなんです?」
「…………」
背中を向けたまま彼女はしかし、ぴくりとも動かない。
「凛音さん?」
声をかけども一向に返事はない。そして入夜が首を傾げた、その時だった。
――――じわ、と。
凛音の背後に、真っ黒な『染み』のようなものがぷつりと浮かんだ。
ちょうど油性ペンの先を紙の上に押しつけた時のように、それはじわじわと滲んでいった。
クリスマスは家族で『ワンピース』のメリー総集編みたいなのを一緒に見てました。総集編シリーズは毎回見てて思うけどなんだかズルい気が……。
それではメリークリスマス!