第十六話 『黄昏れ』
世界を救う。
それが入夜のかつての夢だった。予言者の血筋という特異なものが自分に備わっている。その事実が当時の自分をひどく舞い上がらせた。世界の危険を察知して、迫りくる津波から、焼き尽さんとする火災から、すべてを破壊する地震から、人々を救う。
まさしくそれは自分の思い描いたヒーローそのものだった。世界を救うことが自分の使命なのだと、中学生ながらに思えていた。けれど今考えたらそれは、中学生特有の『心の病気』にしたっていき過ぎているだろう。痛々しいにも甚だしい。
桃色に照らされた細長い雲が、オレンジ色の空にたなびいていた。
放課後の屋上、塔屋に登って入夜は寝転がりながら昨夜のことを思い出す。久しぶりに朝倉楓に会ったこと、険悪な別れ方になってしまったこと、その後凛音に自分の秘密を打ち明けたこと――
ノンドリーマー。
まさにそれは夢を捨てた自分にとって、相応しい称号だ。汚名といってもいいけれど。
どうして夢を捨てたのか。その理由は凛音に教えようとは思わなかった。向こうも察してか、聞こうともしなかった。彼女は妙に察しがいい。良すぎるくらいに。
またぞろ白川が来ると困るので、シャボン玉も吹くに吹けなかった。首にかかったシャボン容器を名残惜しく手の中で弄ぶ。銀色の容器は夕日で鈍く光っていた。
ため息を――幸せを、シャボン玉に閉じこめる。
そういえば朝倉楓はよく、幸福について語っていた。幸せと不幸のバランスは明らかに不幸のほうに比重が偏りすぎているだとか、幸せすぎると神様に嫌われるだとか。
『惜福』、という耳慣れない言葉も教えてもらった。自分に与えられた幸せをぜんぶ使い切るようなことはせず、余った幸せを他に分け与えることでまた自分のもとに新しい幸せが舞いこんでくる、という意味らしい。
このシャボン容器は、その話をした時に彼女から譲り受けた。どうしてそれを自分に譲るのかと聞いたことがあるけれど、結局は教えてくれなかった。
――入夜にもそのうちわかるよ、きっと。
真剣な面持ちで呟いたあの言葉の意味は、だけど、今になってわかってきたような気がする。このシャボン容器を自分に譲った彼女の意図も。
「はぁ……」
ため息が零れる。朝倉に言わせれば、幸せが逃げていく。
憂鬱が手足に重りのようにのしかかってきた。日中に降り注いだ余熱がコンクリートからじわじわと背中に伝わってくる。吹奏楽の演奏がぐちゃぐちゃに溶けてマーブル模様のような音楽に聞こえた。これじゃダメだと頭を振って、気持ちを切り替えることにする。
目下の目的は、凛音の『トロイメライ化』からの解放。
そのためには夢を解かなければならない。となると、トロイメライが引き起こす『現象』を見極めなければならない。
「……といっても、現象が起きなきゃ話にならないんだよなぁ……」
ぼやきながら頭をがしがしとかく。八方ふさがりで目の前が暗くなるような気分だった。
ただ、他にアプローチの仕方はいくつかあるにはある。
一つは、朝倉がやっていた方法。
覚醒している凛音の感情を揺さぶらせることで強引に『現象』を起こす。もちろん『現象』に襲われるリスクはあるけれど、朝倉が言うようにこれが一番手っ取り早い。
もう一つは、『現象』を介さない方法。
トロイメライは人に感情と密接な繋がりがあるのだから、周囲の情報を探ったり本人にカウンセリングのようなものをして『抑圧された感情』のほうを探っていけば、理論上は解決できる。
だけど、入夜はどちらの方法もとりたくはなかった。前者の場合は昨夜みたく凛音に負担がかかるから。後者の場合は、周りの人間と接触することを極力避けているからだ。もちろんこちらも凛音の負担はかかってくる。
結局八方ふさがりには変わらなかった。けど、ヒントは幸いにも見つけた。朝倉の手柄なのがややシャクではあるけれど、昨夜の彼女の揺さぶりに凛音が反応したのはたしかだ。
『桃里』という自分の苗字を凛音は嫌っている。
はたしてどこからそんな情報を入手したのか謎ではあるものの、朝倉はそう言っていた。あんなに取り乱した姿を見た以上、何かしらキーである可能性は高いように思う。
そこからどうアプローチをかけていけばいいのだろうか。
視界を埋めつくすオレンジ色の夕空が、少しくすんできた気がした。時々刻々と移り変わっていく空は嫌いじゃない。
もしも空が一ミリも動かない、絵に描いたような背景になってしまったなら、世界中の人々が狂ってしまうだろう。立派な太陽や、美しい月夜。そして幻想的な夕暮れがそこにあったとしても、流れなければいつか人は見飽きてしまう。停滞は人を堕落させる。一日として同じ空はないからこそ、太陽は立派で、月夜は美しくて、夕暮れは幻想的で、ふと見上げた時に、何度でも感動を覚えるんだと思う。
そんな風に軽い現実逃避をしていると。
「入夜くん、見ぃつけた」
オレンジ色の空を遮るように、誰かが顔を覗いてきた。
一瞬また白川かと思ったけれど、予想は外れた。真っ黒な長髪でも赤縁眼鏡もかけていない。目に映ったのは、薄茶色の柔らかそうな髪の毛。
「……凛音さん?」
「やっほー。黄昏れちゃってどうしたの?」
いつもの紺のセーラー服姿の凛音が、膝をついて覆い被さるような姿勢でそこにいた。自分の意志で入夜を尋ねてきたということは、本体ではなくトロイメライだろう。
「黄昏れてなんかいませんよ。それよりどうしてここに」
「んー? 入夜くんいるかなぁって思って」
「寝る子は育つってたしかに言いますけど、さすがに早過ぎやしません?」
凛音はむむぅ、と唸って少しだけ頬を膨らませる。
「また子供扱いしてくるし。こんな生意気な後輩初めてだわ」
「僕もこんな子供っぽい先輩は初めてですけどね」
「……いい加減にしないとグーだよ?」
「やれるものならどうぞ」
直後、顔面に猫みたいなパンチが突き刺さった。文字通り、彼女の手が貫通する形で。凛音はそれにすら腹を立ててエスカレートしていき、やたらめったら両手を振り回す。
「それで、どうしてこんな時間に寝てるんです?」
今頃彼女は美術部の一員として部活動に励んでいるはずだけれど。下級生から慕われる美術部の先輩ともあろう方が居眠りをしているのだろうか。
しゅっ、しゅっ! と猫パンチを繰りだしていた凛音は、ようやくその手を止めた。ここへ来た目的を思い出したようだ。こほん、と咳払いをする。
「……ちょっと集中力が切れた時は仮眠するようにしてるの。あたし絵を描く時すごい集中力使うみたいでさ、いってみればエネルギーを充填させてるのよ」
チャージよチャージ、と横文字に言い直す凛音。
「数学の授業の時も?」
しゅっ! と即座に猫パンチが飛んできた。ギロリと無言の圧力をかけられる。
「……まぁ、冗談はさておき。凛音さんは僕に用があるんですよね?」
「ああそうそう。入夜くんとあそこに行きたいなぁって思ってて」
言いながら、凛音は北東の方角に指をさす。
「あそこ?」
彼女がさした方向を見る。そこには特にめぼしい場所もない。伊鳴山がそびえているだけだった。
「え。もしかして山登りに誘われてるんですか、僕」
「なぁに? 憧れの先輩とデートをするのがそんなに不満なのかしら、入夜くんは」
瞬間、入夜は息を止めた。彼女の言っている意味がわからない。
「ありらりらん? ウブな入夜くんにはちょっと刺激が強すぎたかなぁ」
「あの……凛音さん」
んんー? と余裕しゃくしゃくに悪戯っぽい笑みを浮かべてくる。猫パンチが通用しなかった分、ここぞとばかりの仕返しなのかもしれない。
入夜は恐る恐る、彼女に尋ねる。
「……憧れの先輩って、誰のことですか?」
「そこは素直にデートに反応しようよっ」