第十五話 『ノンドリーマー』
入夜は夜道にシャボン玉を浮かべていた。
青城公園を後にしてから商店街を通り、天ヶ紅高校を過ぎた辺りまでずっと吹きっぱなしだった。シャボン液の量もすっかり少なくってしまっていた。少し後ろで凛音がうつむき加減で着いてくる。終始無言で、お互い黙々と歩き続けた。
やがて川のせせらぎが聞こえてきた。いつの間にか橋まで来ていたようだった。
「ねぇ入夜くん、ちょっと休憩しない?」
後ろからそんな声が飛んでくる。振り向くと、凛音が少し疲れた笑みを浮かべていた。トロイメライ化している状態では疲れは感じないはずだけれど、もしかしたら気を利かせてくれたのかもしれない。お言葉に甘えることにする。頷いて、鉄橋の柵に寄りかかった。
名も知らない古びた橋。ボロボロに錆びたその柵越しに、河原が眼下に広がっていた。流れる川の水面に月が映りこんでいるのを眺めながら、入夜は呟く。
「そういえば、ここで凛音さんと初めて会ったんですよね」
「うんうん、危うく密室に監禁されてノコギリで足を切られるところだった」
「……本当、被害妄想も甚だしい限りです」
「入夜くんだってノリノリで悪役こなしてたじゃない」
あはは、と入夜は力なく笑う。つられるように凛音も吹きだした。ほんの少し前のことなのに、とても懐かしく感じる。今後はこの橋を通る度にそう思うのかもしれない。
なんとなく、二人して口を閉じた。不思議と心地良い沈黙がゆったりと漂う。入夜は鉄柵を背にしたまま頭上を見上げる。月はすでに落ちかけ、夜を照らす役目を終えようとしていた。チラリと横を窺うと、凛音は河原を眺めていた。慈愛と憂いを讃えたようなその微笑みは、息を呑むほど大人びていて、普段とはまるで別人に見える。月下美人、という言葉がまた浮かんだ。
「どうかしたんですか、凛音さん」
「ううん、ちょっとね。ところで入夜くんは知ってるかな、この河原で噂になってる『積み石の願掛け』」
入夜は頷く。
「『誰にも見られずに石を高く積むと願いが叶う』っていうおまじないでしたよね、たしか」
「女の子って好きだよね、そういうの。あたしの後輩もやったって言ってたわ。『凛音先輩のような美人で才能ある女性になりますようにー!』って」
「『美人で才能ある女性』に、ですか。へぇ。凛音さんのような。ほほぅ」
「何か文句ある?」
じっと睨まれ、入夜はハンズアップしながら首を振る。悪ふざけがすぎたようだ。それを見て凛音がクスクスと笑う。
彼女は向きを変えて入夜と同じように空を眺めた。広がる夜空に星を掴もうと白い手を伸ばす。それから、わずかに横たわっていた沈黙を静かに破った。
「ねぇ入夜くん、聞いてもいい?」
「何をですか」
凛音が横目チラリとこちらを見て、また星空を仰ぐ。
「キミのこと。それから、楓ちゃんのこと」
とっさには返せなかった。ひどく口が重たくなるのを感じた。
「さっきは、すみませんでした。根は悪いやつじゃないんです」
「入夜くんが言うならそうなんだろうけね。というか、あの子って本当に魔法使いなの? 猫に変身したり入夜くんに変なことしてたよね? キミもキミだけど、楓ちゃんも楓ちゃんで謎すぎるよ」
「……彼女は――」
言いかけて、零れかけた言葉が淀んでしまう。膝に乗せた拳を軽く握りしめた。
「朝倉は、今の凛音さんと同じなんです。トロイメライ化しているんですよ彼女は」
「ええっ、トロイメライになるとあんなことできるようになるの? 猫になれたり魔法を使えたり?」
「猫はともかく、魔法は凛音さんも目にしたことがありますよ……いや、耳にしたことがあると言ったほうがいいでしょうか」
「耳に……って、もしかして籠手崎さんの『エコー』のこと?」
「その通り。朝倉はちょっと特別で、トロイメライの『現象』を自由に扱うことができるんです」
入夜は喉に手をやり、軽くさすった。
「朝倉が扱っている現象は、神話の『アリアンロッド』からだと思われます」
「ありあんろっど」
聞き慣れなていないせいか、凛音はカタコトでオウム返しをする。
「ケルト神話に出てくる月の女神のことですよ。彼女は三つの呪いを自分の子供にかけてしまうんです。それは名前保持の禁止、武器保持の禁止、そして結婚の禁止です」
「ってことは、何かを禁止する現象?」
「ええ。さっきも僕は『発声』を禁じられました。一時的ですが、声が出せなくなったんです」
「ひどいことするなぁ、楓ちゃん」
「まったくですよ」
朝倉はいつも強引すぎる。他人を振り回して、必要以上に周囲を巻きこむ。そのくせいつも正しいところがやっかいなところだった。彼女と行動を共にしていた頃、どれだけ自分が苦労をしたことか。
遠い過去の懐かしさに、入夜は思わず苦笑する。
「どうかしたの?」
「いえ。……それより急だと思いますけど、凛音さんは夢とかってありますか?」
「夢って、追いかけるほうのだよね?」
はい、と入夜は首肯する。
「ホントに急だね。どしたの?」
「いやせっかくですし、人生の先輩に人生相談に乗ってもらおうかと」
ぴくん、と凛音の耳がわずかに動いた気がした。『人生の先輩』というフレーズに反応したのだと思う。その証拠に、彼女は隣で得意げに腕組みをしていた。
「まあねぇ。今をトキめく女子高校生だからね、あたし。夢なんていくつあるよ? ケーキ屋さんで働いてみたいーとか、お花屋さんにもなってみたいし。あ、それとお菓子を山ほど買ってお菓子の家とかも作ってみたいよね」
子供か。小学生の卒業アルバムで大体書いてあるようなことばかりなような気がしてならないと入夜は心の中で呟いた。
「……そういうのじゃなくて、『これだけは叶えたい』っていうのというか」
「だったら画家かな。やっぱり」
あっけらかんと彼女は言い放つ。まるで未来が決まっているかのように、当然のごとく。プロの画家の娘だからというのもあるのかもしれない。
「自信、あるんですね」
うーん、と凛音は唇を尖らせて唸った。
「あんまりそういうのは関係ないよ。あたしはあたしの道を進むってだけで、後のことはまるで考えてないし。こういうのはシンプルに考えるのがいいもの」
ふわりと彼女は微笑んだ。芯の通った強さと、少しの陰りを讃えた笑みだった。
「そういう入夜くんは?」
と凛音は興味津々に聞いてくる。入夜はバツの悪そうに苦笑した。
「……今は、ありませんよ」
「じゃあ前のは?」
「世界平和」
うん? と凛音は途端に眉を寄せてしげしげと睨みつけてくる。
「真面目に答えてよ入夜くん。小学生でもそんな大それた夢は持たないよ?」
「や、けっこう本気だったんですよこれでも。もうそれは叶わないですけどね」
「どうして?」
「実は僕、朝倉にもう一つ禁じられているものがあるんですよ。……それも二年前から」
ええっ、と凛音は声を上げる。それからみるみる彼女の顔が険しくなっていく。今度朝倉を見つけたらタダじゃおかない、とでも言いたげに。
入夜は首を振った。
「違いますよ。彼女から一方的にじゃなくて、同意の上です」
朝倉の『能力』を解除しようと思えばいつでもできた。入夜が彼女にそう願えば、いつだって。だけどそれをしなかった。二年もの間、入夜が忌み嫌う『アレ』は朝倉によって封じられてきた。
「何を禁止したの、キミは」
「予言者にとって大事なものを、ですよ」
「……大事なものってもしかして――」
入夜は深く頷いた。
「ええ、予言者にとって大事なものは、『予知夢』です。もっといえば、『夢を見る』という行為そのものを朝倉に禁じられたんですよ」
夢を見ない人間というのは、実は見ていた夢をすべて忘れているだけであって、実際にはすべての人間が夢を見ていることになっている。
だけど、かつて夢を見ない人はこう呼ばれていた。入夜も自虐を兼ねて自らをそう呼ぶことにしている。
『ノンドリーマー』――と。