第十四話 『覚醒体』
入夜が初めてその『夢』を見たのは、小学五年生の頃だった。
ある日高熱にうなされて、意識と無意識を行きつ戻りつしている時に『それ』を見た。現実なのか夢のなのかも判然としないくらい朦朧としていたにも拘わらず、その映像は鮮明で、今でも昨日のことのように覚えている。
そして、その日を境に変なものが見えるようになった。
夜に見る不可思議な夢はもちろん、幽霊のみたいなものも。それはほとんどは夜になると現れて、公園や学校や空き地なんかで佇んでいるのを見かけたことがある。両親に話したけれど信じてはくれなかった。子供の空想として片付けられてしまったんだろう。今思えばそれは仕方のないことだと思う。クラスメイトで幽霊が見えるという人に見せたこともあったけれど、彼らにはまったく見えなかった。そしてますます自分の言葉は人に届かなくなったと感じた。嘘つき。変な奴。目立ちたがり。そんな陰口を叩かれて、時には面罵されて、グループからさりげなく外されて。子供ながらにひどい疎外感と孤独感に苛まれた記憶がある。
――他人と違うということが、とても苦しいものだと、その時初めて知った。
「予言者って、入夜くんが?」
凛音は薄茶色の目をぱちくりさせていた。鯉のように口をパクパクしている。まさかと思いつつも『予言者』という現代離れした言葉が出てくるのはショッキングだったんだろう。
城をかたどった遊具を月光が淡く浮き上がらせる。見上げると、いつの間にか城の二階の滑り台の上に立つ朝倉の姿があった。壁に手をついて不敵に笑っている。
「その通りだよ、桃里先輩。信じられないかい?」
「……信じる信じないっていうより、今さら信じないわけにもいかないって話なんだけど。楓ちゃん、だったよね? キミもそうなの?」
「残念ながらボクはもう引退の身だ。今はただの魔法使いさ」
「魔法使いって、入夜くんが言ってた? 楓ちゃんが?」
「とりあえず気安く名前で呼ばないでほしいかな、桃里先輩」
「朝倉っ」
明らかに今のは暴言だ。いくら何でも先輩に対して失礼がすぎる。
「おっと、入夜は静かにしててね。シャラップだ」
ぴ、と朝倉は人差し指を唇に当てる仕草。
「……ぁ……ッ!?」
途端、声がまったく出せなくなる。すぐに彼女の『能力』だと瞬時に理解した。
「入夜くん!」
凛音が叫び、駆け寄ってくる。けれどその足を朝倉の声が引き止めた。
「まだお話は終わっちゃいないよ桃里先輩。せっかく入夜が静かになったことだし、ちょっとガールズトークにでも洒落こもうじゃないか」
心配そうにこちらを覗きこんでくる凛音。入夜は頷いて『大丈夫』と意思表示する。
迷った末、『ちょっと待っててね』と小声で囁いてから、凛音は朝倉のほうを向き直った。
「……ねぇ楓ちゃん。あたしのことを知っているのって、予言者だからなの? あたしが何を抱えているのかも知っているというの?」
「予言者は引退したってついさっき言ったばかりじゃないか。予知夢を使わなくても情報収集の方法なんていくらでもあるんだよ。貴女のことも色々と聞いているしね、桃里先輩。その『桃里』っていう苗字を嫌っていることだって知っている」
途端、凛音の身体が硬直した。表情も少し強ばりを見せていた。
凛音さんっ、と叫ぼうとするもダメだった。空気が漏れたような音しか出ない。
振り向いた彼女は、ぎこちない笑みを浮かべていた。
「なっ、なんでもない。だいじょぶ、大丈夫だから」
大丈夫、大丈夫と彼女は繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。
ふふん、と朝倉が鼻を鳴らす。
「成る程ね。なかなかタフなメンタルをしている……いや、その逆かな。『抑圧した感情』から必死に目を背けようとしているんだからね」
怯える凛音に構うことなく朝倉はそんな軽口を叩く。
「ああ入夜、もういい喋ってもいいよ」
と彼女は唇についたジッパーを開けるみたいな仕草をしてくる。すると喉の違和感はなくなり、軽く咳きこむと普通に声が出せるようになっていた。
「……朝倉。さっきから君はなんなんだ? 凛音さんを煽るようなことばかりして」
「あっは、そんなに起こらないでよ。まさか入夜、ボクの意図がわからないわけじゃないよね?」
「……意図?」
言われて入夜はハッとする。
朝倉が凛音を煽る理由――それはたしかに朝倉らしいやり方なのかもしれない。
トロイメライは感情と密接に関係がある。籠手崎澄歌の時もそうだった。彼女の感情を揺るがせた際も『現象』はエスカレートしていたのがその証拠。
つまり朝倉は、凛音を動揺させることで『現象』を意図的に起こして情報を得ようと試みていたということになる。
「早期解決を求めるならこの方法が一番てっとり早い。桃里先輩は覚醒しているんだからね」
と彼女は当然のように言う。
夢と同じで、夢の中で意識を保ち、思考することができる人間もいる。凛音もまたその一人。通常のトロイメライは意識が定まらず現象も制御できないけれど、凛音のような『覚醒体』は感情を抑えることである程度のコントロールは可能だ。
入夜にとって『覚醒体』はこれが初めてじゃない。だけど、ノーマルと比べて数は少ないのでまだ対処に慣れていないのが正直なところだった。
自分の中で渦巻く無力さに襲われながら、入夜は朝倉を直視する。
「君のそういう、土足でズカズカと人の心に踏み入るところは好きじゃない」
「それを言うなら『夢解き』だってそうじゃないか。だったら入夜ならどうするんだい? ああ、なんならボクが入夜の『アレ』を解放してあげようか。それならこの件を解決することは可能だと思うよ?」
今すぐにでも、と朝倉は挑発的な表情。
「それは……ッ」
拳を白くなるほど握りしめるも、顔を背けることしかできなかった。言い返せなかった。奥歯が砕けそうなほど強く噛みしめる。
震える息を細く吐き出し、どうにか心を落ち着かせる。公園がいやに静かに思えた。けれど肩で呼吸を整えているうちに狭まった視界が広がり、鈴虫の鳴き声が聞こえるようにまでなってきた。
首に下げたシャボン容器を軽く握り、滑り台の上に立つ朝倉を見上げる。
「……もう、帰るよ。アドバイスは有効に使わせてもらう」
「またいつでも来るといい。ボクはここで――ずっとキミを待っている」
一、二秒の間、視線が交差した。
お互い言わんとしていることは言葉に出さなくてもわかっていた。いや、わかっていると思いこんでいるだけなのかもしれない。お互いに。むしろ自分と朝倉の何もかもが。
例えばそれは、線路のように。
二つの線は、正面から見るとずっと遠くのほうで結びついているように見える。だけどそれはもちろん目の錯覚だ。実際にはどこまでも平行で、二つが交わることは決してないのだから。
「……行きましょう、凛音さん」
朝倉と視線を切り離し、踵を返し、入夜はもと来た道へと歩を進める。
首に下げた銀色のシャボン容器を、強く握りしめながら。