第十二話 『路地裏の猫』
夜の商店街は静まり返り、今や日常の裏側を見せていた。
天ヶ紅高校を脇を通る緩やかな傾斜が描いた一本道。左右に建ち並ぶ店や家の軒から伸ばしたひさしを繋げて作られた雁木造りは、大雪が降った際に通路として使われる雪国ならではのものだ。日中はそこそこ賑やかで、古風な町並みだけに古き良き時代というか、なんとなくノスタルジックな気分にさせられる場所だった。
けれど今は深夜を回っているのでどこの店も家々も頑なに扉を閉めている。昼間に活気がある分、夜になるとまた少し違った雰囲気を醸し出していた。
入夜はいつものように消雪パイプの上を踏み歩く。風が生ぬるく、湿度は高く、月には薄い雲がかかっていた。いつも通りの夜。
しばらく歩いていると、前方に人影を発見する。街灯の下で紺色のセーラー服――天ヶ紅高校の制服に身を包んだ少女が立っていた。高めの身長に、薄茶色のショートカット。彼女もこちらに気づいたようで手を振ってきた。
「入夜くん、こっちこっち」
と促してくる凛音の姿がそこにあった。
もちろん生身じゃないだろう。本体は家でぐっすりと眠っているはずだ。行ったことはないけれど、彼女の家はどうもここら辺らしかった。
「おはようございます、凛音さん」
「ん、おはよー」
夜にこんな挨拶を交わすのも慣れたものだ。入夜はさっきまで睡眠を摂っていたし、凛音は凛音で本体が眠ってから【トロイメライ】として覚醒した直後なので自然とこんなやりとりになる。
「それじゃ、行きましょうか」
「えっとたしか、今日は『魔法使い』さんのところに行くって言ってたっけ」
「ええ」
ふぅん、と凛音は呟く。
「どんな人なの?」
「僕と同い年の女の子ですよ。……少し変わってますが。まぁ見てからのお楽しみです」
ふぅん、とまた彼女。なぜか唇を尖らせてアヒル口になっていた。
正直、あまり広げたくない話ではある。今日凛音を『彼女』に会わせるのだって本当は気が進まない。今だってやるせない気持ちで足が重いくらいだった。
だから入夜は話題を変えることにした。昼間に白川から聞いた情報を思い出す。
「そういえば聞きたいことがあるんですが」
「んー?」
とアヒル口のまま、若干ご機嫌斜めな返事。
「今日、というか昨日ちょっと耳にしたことなんですけど、凛音さんの父親というのは」
「……あー、はいはい。そういえばキミには言ってなかったっけ」
地元の画家である空馬清十郎、つまり凛音の父親の桃里千里のことだった。
「隠してたわけじゃないんですよね?」
「……あはは、そんなわけないでしょ」
と凛音。途端に歯切れ悪くなっていた。嘘が下手な人だな、と入夜は思う。
一瞬の沈黙があって、彼女はバツの悪そうにこめかみを掻いた。
「実は今、ちょっとぎくしゃくしちゃってて」
「……それホントですか、凛音さん。僕、言いましたよね? 【トロイメライ】は根本的には心の問題から生じるんですって。どうしてそれをもっと早く言ってくれなかったんですか」
それも五日の間も。
彼女と共に行動していて、親との関係どころか親の存在すら話してくれなかった。……となると、逆にいえばここら辺に『抑圧した感情』がある可能性が高いともとれるのだけれど。
そこでふと、凛音の足が止まった。
「――夜くんだって」
「え?」
消え入りそうな声に入夜は少し前で立ち止まり、振り返る。
果たしてそこには、いつになく硬い表情をした凛音の姿があった。
「入夜くんだって、言わないじゃない」
何を、と言おうとしたけれど、あまりに彼女の目が真剣だったので言葉に詰まってしまう。
「キミが抱えているものをだよ。どうして【トロイメライ】が見えるの? どうして『夢解き』ができるの。それにどうして――クラスで自分からひとりぼっちになろうとしているの?」
キミは、一体何を抱えているというの? と、彼女は畳みかけてくる。
その声は少し濡れていて、穏やかで、悲痛の叫びのようでもあった。悲しみ、憂い、憐憫、そして怒り。それらがないまぜになった感情が、その薄茶色の瞳に宿っているような気がした。
知りあって間もない人間に対してこれほどの感情をぶつけてくることに入夜は内心驚く。別に恋人になったわけじゃないし、どころか友達にもなったわけでもないのに。
何か自分が彼女の琴線に触れてしまったのだろうか。あるいはもともと純粋な心を持っているのか。この五日間、薄っぺらい会話だけで過ごしてきただけに自分は凛音のことを何一つ知らないのだと実感させられた瞬間だった。
「凛音さんは――」
気づけば入夜は口を開き、そう言っていた。
けれど喉下まででかかった言葉が零れることはなかった。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。
「……いえ、凛音さんが気にすることじゃありませんよ」
頭を振って苦笑してみせた。
凛音は不満げにため息をついて、隠すことなく顔を曇らせる。彼女なりに察してくれたらしかった。
しばらくはお互いに黙々と歩いた。先頭を入夜が歩き、その後ろをふてくされたように凛音がついてくる。納得いってないんだからね、後できちんと説明してもらうんだからねという視線が背中にザクザクと刺さる。その傷口に、重たい沈黙が容赦なく塗りこまれた。
そして緩やかなカーブをようやく終えたところで、入夜は足を止める。
「……?」
すでに通り過ぎた狭い路地の隙間。そこへ一旦戻ってみる。
「入夜くん?」
「(しぃー、静かに。何か聞こえませんか?)」
路地の奥を指さすと、凛音は空気を読んでくれたようで声のトーンを落とした。
「(聞こえるって何が…………ん、猫?)」
こくん、入夜は頷いた。路地の闇から猫の鳴き声が聞こえる。それも一匹二匹じゃなくて、何匹もいるようだった。少なく見積もっても一〇匹はいるだろう。
ふと、『尾が二つある猫には注意してね』と白川から聞かされたことを思い出す。
いわゆる猫又のことだ。
正体は山に住んでいる年老いた猫という説もあるけれど、人に飼われた猫も老いれば猫又になってしまうという説もある。イノシシほどの大きさと言われたり、人に化けたりすることもあるらしい。悪質なものは人を何人も喰い殺すこともある恐ろしい妖怪だと彼女は言っていた。
白川と拘わるとこういった不必要な知識まで持ってしまう。ホラー映画を見た後に一人でトイレにいけなくなる子供の心理と一緒だ。知らぬが仏。この世でもっとも恐ろしいものの一つは、幽霊でも妖怪でもなく、人間の想像力だと入夜は思った。
などと考えていると、
「(行ってみるよ入夜くん!)」
「(ええっ、ちょっと凛音さん!?)」
止める間もなく彼女はずんずんと暗がりに消えていった。入夜も慌てて追いかける。
狭い路地を少し歩いた先に、開けた場所があった。その前に立ち尽くす凛音は呼吸をするのも忘れるくらい魅入っているようだった。
どこにでもあるようなちょっとした空き地。けれど月の光に淡く照らされてそこは神聖さすら感じさせられた。
しかし凛音はそれで呆けているわけでもないらしかった。もう少し近づいて見てみると、なるほど得心がいく。これはあまりお目にかかれない光景だ。
二〇近くにものぼる猫たちが、そこにいた。
まばらながらも円を描いて座っている。これはたぶん『猫の集会』というやつだろう。その原因は色々と説は出回っているらしいけれど、どれも確信には至ってないらしい。まさか実際にこの目で見ることになるとは思いもしなかった。
そして猫たちが描いた円の中心に、黒と灰色の中間色――チャコールグレイの美しい毛並みを持つ一匹の猫が鎮座しているのが見えた。
「えっ」
思わず入夜は声をあげてしまう。凛音に『しぃー!』と口に指を当てて注意された。
しかし気づいた時にはもう遅く、各々くつろいでいた猫たちがすぐに反応。一瞬だけ場が凍りついた直後、瞬きもしないうちに一斉に逃げ出してしまった。
夏の夜風が路地の通路から流れ、入夜の首筋をなでる。
後に残ったのは入夜と凛音の二人と――そしてチャコールグレイの猫だけ。
猫は逃げも慌てもせずその場で伸びをして欠伸を一つ、それから入夜と凛音のほうを交互に見てくる。見透かしたように目を細め、まるで人間がするような仕草で。
そして猫は言った。
「やぁ入夜。久方ぶりだね」
猫の集会、一説では街コンみたいなものだとか言われてるみたいですね。
……まじか(唖然)