第十一話 『ミステリアス・ガール』
放課後、入夜は屋上へ来ていた。
特に用があるわけでもなく、なんとなく。強いて言うならシャボン玉を吹きに。まるで不良の学生がこそこそと煙草を吸いにきたみたいだと我ながら思うけれど、人目を忍んでストレスを解消するという意味では一緒だった。
日中よりは気温がおとなしめで、それでもむわっとむせかえるような熱気と湿気の残骸が屋上を満たしていた。ぐるりと囲んだフェンスがオレンジ色の夕日に照らされて、その下に網目状の影を落としている。ここではシャボン玉がフェンスに引っかかってしまうので、入夜は塔屋の上に登って腰を下ろす。
温い風と一緒に吹奏楽の演奏が、サッカー部のかけ声とが聞こえてくる。見下ろすと雁木通りの商店街が目に入る。建ち並ぶ家々は瓦屋根が多く、古式ゆかしい町並み。その奥には緑に色づいた田園風景が広がっていて、さらに奥、北東の端には伊鳴山がそびえ立っていた。
いつもの風景。そんな当たり前の日常に触れていると不思議と心地よさを感じた。ここに来るのはそれもあってかもしれない。非日常に浸りすぎてズレている自分を、ここで調整しているのかも。
さっそく首に下げていた銀色のシャボン容器を取り出して、ネジ式になっている頭の部分を回す。それからストローにたまったシャボン液を軽く落とし、ゆっくりと吹いた。
無数のシャボン玉が空中に広がる。グリセリンを混ぜたシャボン玉は空気と陽光に触れてすぐに固まり、微風に弄ばれても割れる素振りも見せず無邪気に戯れている。夕焼けに浮かぶシャボン玉は鮮やかに輝いていて、嘘っぽく見えた。
壊れることのないシャボン玉。
それは入夜にいつも彼女のことを思いださせた。このシャボン容器を自分に預けた少女。青い城に棲み着く『魔法使い』。
ため息をすれば幸せが逃げていく。それは少しもったいないから、シャボン玉にため息を――幸せを閉じこめてしまえばいいと彼女は言っていた。
その時の彼女の横顔は今でも覚えている。いつも軽薄な態度をとって自分をからかっていた彼女が、いつになく悲しそうな表情をしていたからだ。いや、見間違いなのかもしれない。そう見えただけだったとか。よくわからない。液の入った容器を強く握りしめた。
ふぅー、と今度は深く息を吐いて細やかなシャボン玉を作る。
そうやってしばらく吹いていると、無数のシャボン玉は夕日が半分ほど沈んだ空のあちこちに広がっていた。たんぽぽの綿毛のようにふわふわと漂い、見えなくなるまで遠くに飛んでいく。
そこで唐突に、屋上のドアが開く音がした。
とっさに入夜は身を隠す。特に悪いことをした覚えはないけれど。
しばらくしてからまたガチャリとドアが締まる音がした。どうやら行ったみたいだ。入夜は胸を撫でおろしつつ身体を起こしてため息をつく。ため息をつきがてら、またシャボン玉を吹く――
「真々琴くん、見ぃつけた」
吹こうとして、不意打ち気味に後ろから声をかけられた。入夜はビクリと反応し、恐る恐る後ろを振り返る。
「……白川さん?」
黒髪を揺らしながら、白川愛河が両手を後ろに組んで立っていた。赤縁眼鏡の奥に覗く蠱惑的な瞳と目が合う。いつもの不透明な笑みを作っていた。
たしか彼女は部活動に入っていなかったと記憶している。まだ帰っていなかったのか。
「帰ろうと思ったら屋上からシャボン玉が飛んでるものだから、気になって来てみたのよ。まさか、犯人が真々琴くんだなんて思わなかったけどね」
こちらの心を読んで先回りするように彼女は言う。たしかにオカルト好きの彼女のことだ。持ち前の好奇心でわざわざ校内に戻ってくるのは想像に堅くないのかもしれない。
「でも、ちょうど良かったわ。真々琴くんに耳よりの情報を入手してきたから」
「耳より?」
「とぼけちゃって。真々琴くんが今お熱な桃里凛音さんの情報に決まっているでしょう?」
クスクスと彼女は笑う。
籠手崎澄歌のトロイメライを『夢解き』した後に、またそれとなく白川に凛音のことを聞いていたのを思い出す。その時点では情報を持っていなかったので、また後日に、という話しだった。こちらから頼んでおきながら不覚にも忘れてしまっていた。
「ごめん、ありがとう。……それで情報って?」
「そうねぇ、真々琴くんは『空馬清十郎』っていう画家を知っているかしら」
「ああ、ちょっと有名だよね。地元の人だっけ」
白川は微笑を浮かべて肯定する。
「ええ、だけどその名前は筆名――そうね、俗に言うペンネームなの。本名は『桃里千里』っていうのよ」
「桃里って……もしかして」
「そう、彼女の父親よ」
それは知らなかった。もちろん凛音にもさりげなく色々と聞き出してみたけれど、彼女はそのことについてまったく触れなかった。喋ったのは美術部の部長ということと、それに後輩たちから慕われているということ(自慢げだった)くらいで。もしかしたら意識して話題にあげなかったのかもしれない。
「びっくりだ。凛音さんにそんな立派な親御さんがいるだなんて」
思うままにそう口にした直後、白川が目を少し細めた。
「……『凛音さん』、ねぇ。真々琴くん、いつの間に下の名前で呼ぶほど彼女と親しくなったの?」
「あっ、いや、それは違――」
「ふぅん? そのわりには見知った風に聞こえたけれど」
呆れたように白川は肩を竦める。
「まぁいいわ。私はこれで帰るわね」
「……あ、うん、ありがと」
「どういたしまして。また何かわかったら教えてあげる」
踵を返して悪戯っぽくウィンクをする彼女は、早々と塔屋から降りていく。そして屋上のドアに手を伸ばしかけ、ふと、入夜のほうを仰ぎ見た。
「それじゃあご機嫌よう。真々琴くん」
「……ねぇ、白川さん」
遮るように入夜は声をかけた。なんとなく聞きたくなったことがあった。ずっと疑問に思っていて、言い出しにくかった質問。
「白川さんは、どうして僕に情報をくれたりするのかな? それも他人のプライベートな情報をさ」
「それは真々琴くんがミステリアスだからよ」
即答されるも、意味が理解できなかった。
「私は謎めいたものが好きなのよ。オカルトもそうだし、今日のシャボン玉もそう。そして真々琴くんは何か大事な秘密を抱えている。――直感がそう言うのよ」
内心ドキリとした。これだから女性の勘は侮れない。
「理由を、聞こうとはしないの?」
白川はまた不透明な笑みを浮かべて、屋上のドアを開ける。
「恋愛はね、異性のすべてを知りたいと誰しも思うけれど、すべてを知ってしまえば恋は自然と冷めてしまうものなの。ミステリアスだからこそ心惹かれるの。だからもし真々琴くんが誰かとつき合う時は、少しずつ自分の秘密を切り分けて与えてあげるといいわ」
バターのようにね、と彼女は薄く笑う。
「……えっと?」
いきなり話の舵をきられたように思えてしまう。けれどそういうことでもなかったようで。
白川は艶然と微笑み、こう言った。
「謎は謎のままであったほうが、心惹かれる時だってあるということよ」
ガチャリとドアが閉められた。コツコツという階段を下る音が聞こえる。
彼女の言葉は、たまに理解できない。理解はできないけれど、いつも真実に近いことを言っているような気がした。単純に思わせぶりなだけなのかもしれないし、煙に巻かれただけなのかもしれない。
入夜は顔を上げた。見ると、夕日はすでに沈みきろうとしていた。
じきに夜の帳が下りるだろう。町は闇に包まれて、町民たちは眠りにつく。そしてトロイメライが動き出す。……残念ながら、こればっかりは謎を謎のまま放置することができない問題だった。
だからこそ今夜、入夜は『魔法使い』に会いに行かなければならない。
そんなわけで愛河さん再登場です。
個人的にけっこう気に入ってるキャラなのですが、立ち位置的にサブっちゃあサブなんですかね。なるだけ出してあげたいなぁとは思うのですが。。。