第十話 『晴れ、ときどき非日常』
夏も深まる八月の空に、入道雲がぽつんと浮いていた。
本日も見事に快晴。木々にしがみつく蝉たちが『夏だ夏だ』と知らせるようにせわしなく鳴いている。その鳴き声と一緒に、湿気と熱気を含んだ生ぬるい風が二年四組の教室へ――窓際で授業を受けていた入夜のもとに運ばれてきた。
ふぅ、と思わず青息吐息。
夏仕様のYシャツの首元をつまみ、あまり意味がないことを知りながらもパタパタと仰ぐ。暑い。なんとなく一番後ろの席に座る入夜はクラスメイトたちの様子を窺ってみる。
通路を挟んで斜め右に座る派手な金髪をした女の子、櫻井は下敷きで自分の顔を仰いでいた。その前の席に座る猪口はがっしりとしたその背中の中心に大きな沁みを作っている。窓際の先頭にいる鳥羽は、不敵にもミニ扇風機をこっそり回していた。
クラスメイトたちの心境はだいたい同じのように思えた。むしろ『暑い暑い』とみんなで念じているから気温が上がっているんじゃないかと疑いたくもなる。設備が整っている学校なのにクーラーをつけないのは近頃流行りの『節電』ということだった。雪国ならではの我慢強さも手伝っているのかもしれない。
少し前はこんなに暑くなかったのに。入夜は夏の空を睨み、恨めしくまたため息をつく。
「……あぁ、アツがナツいぜ……」
と感慨深く呟いた。
暑さのあまり頭がおかしくなった入夜が、ではもちろんなく。
窓に向けていた視線を落とすと、腹話術を仕掛けた黒幕がそこにいた。授業の真っ最中にも拘わらず、紺のセーラー服を日陰と同化させながら体育座りをしている女子生徒が一人。
入夜は周囲を窺ってから、小声でその人物に話しかける。
「(……何してるんですか、凛音さん)」
現在進行形で上の教室で授業を受けているはずの桃里凛音だった。涼しい顔して悪戯っぽく笑う。
「ふふっ、入夜くんの心を代弁してみました」
「(はいはい。それで、いつも通り僕の授業を妨害しにきたと?)」
「だからぁ、妨害じゃないってば。遊びにきたの。可愛い後輩くんはちゃんと授業受けてるのかなーって監視も兼ねて」
しゃあしゃあと彼女はそんなことを口走る。
「(そうですか。数学の授業をサボタージュしてまで。涙がちょちょ切れますねそれは)」
「むむぅ……。だって仕方ないじゃない、難しいんだから」
先生言ってることわかんないし。数式覚えられないし。証明とか意味不明だし……とへそを曲げたように唇を尖らせる。ついにはうつむいて床を指で弄り始めた。
はぁ、と入夜は本日三度目のため息をつく。
「また寝ちゃったんですね、凛音さん」
彼女のその指先は、よく見れば教室の床を潜っていた。
気づけば籠手崎澄歌のトロイメライを『夢解き』してからすでに五日が経っていた。凛音のトロイメライ化を解決しようとここ数日彼女と一緒に行動を共にして調査していたけれど、一向に糸口が見えず今に至っている。それは目の前で体育座りしている彼女がそれを証明していた。
トロイメライは夢と同じ性質を持っていることもあって、本人が眠っている間にしか現れない。この場にトロイメライ化した凛音がいるのも、上の教室で彼女の本体が船を漕いでいるからだろう。
「(こっちに来ないで、そのまま授業受けてればいいじゃないですか)」
「元に戻っても覚えてないんじゃ意味ないでしょ。覚えたことぜーんぶ忘れちゃうんだから」
「(それは仕方ないですよ。夢と同じ性質ですから、トロイメライは)」
「便利なようで不便だよねぇ、それって」
ぼやくように彼女は言う。もちろん入夜以外は誰も聞こえちゃいないけれど。
今の彼女は壁だって通り抜けられるし、透明人間のように振る舞うことだってできる。教室の真ん中で『たーまやー!』と叫ぶことも自由だ(実際この教室でやっていた)。
けれどその反面、そんな楽しい経験は目が覚めると共に忘れてしまう。人の頭の中には忘却装置みたいなものがあるからだ。人間は眠っている間に何十回と夢を見ると言われている。だけどその内容をほんの一握りしか覚えていられない。そしてそのほんの一握りの夢でさえ、起きて数分で消えてしまうこともしばしばだ。夢というのは本当に脆くできている。
などと空想に耽っているうちに、気づけば教室が異様なほど静かになっていた。さてはどこぞの幽霊でも通り過ぎたのだろうか。幽霊っぽい人なら隣で体育座りしているけれど。
周りを見回すと、それは違うように思えた。なんだか注目されているような気がする。
斜め前にいる櫻井も猪口も、それから左先頭にいる鳥羽も含めてクラスメイトたちがチラチラとこちらを見てくる。廊下側の列に座る白川のクスクスと笑う声が聞こえた。
その奥で、教壇に立つ日本史の教師がむっつりとした顔つきでこちらを睨んでいた。生徒たちから面白半分、畏敬の念半分で『社長』とあだ名されている堅物教師だった。
「聞こえんのか、真々琴。上の空のようだがもう黒板を消すぞ?」
「すみませんでした。もう少しだけ時間を下さい」
「わかった」
鼻息を一つ鳴らし、社長は黒田官兵衛の雑談に入った。たぶん自分をフォローしてだろう。気まずくなる雰囲気を話題性のあるネタで和ませてくれたんだと思う。授業が終わってからまた個別に指導されるだろうけれど、それだって公然と怒られる自分の姿を晒させないようにするためだ。堅物ながらこういう気遣いをできる先生が生徒たちから慕われているのもわかる気がした。
それに比べて、と入夜はジロリと窓のほうを見やり、
「…………あれ?」
妨害してきた凛音を文句の一つでも言おうと思ったけれど、そこに彼女の姿はなかった。
さては事態を察して逃げ出したか。そういう動物的な勘は働きそうなタイプではある。
すると窓から声が聞こえてきた。
『……あいたぁ!?』
『こらぁ桃里! 授業中に寝るなと言っとるだろうが!』
『きょ、教科書の角で殴るなんてひどくないですか先生ぇ……』
『だったら寝るなバカモンが。数学また赤点とるぞ!』
上級生たちのどっと笑う声。凛音の教室も窓が全開のようで会話が筒抜けだった。
これじゃ先が思いやられる、と入夜は黒板の内容をノートに取りながら嘆息する。
それでなくてもあれから五日も経っている。あまり気乗りしないけれど、こうなれば『彼女』に協力を仰ぐしかないのかもしれない。
首に下げた銀色のシャボン容器を自分に預けた少女。
青い城に棲み着くあの『魔法使い』に。
更新少し遅れましたすみませんorz
第二章スタートになります!