プロローグ
夜も深い校舎の中で、ふわりと幸せが浮いていた。
そんな詩的なセリフがふと脳裏をよぎる。彼女が言っていたことを思い出したからだ。
ため息を吐けば幸せが逃げていく。空気に溶けてなくなってしまう。
それはちょっともったいないから、だったらその幸せを――ため息を、シャボン玉に閉じこめてしまえばいいじゃないか。そんな言葉と一緒に、この銀色のシャボン容器を彼女から譲り受けていた。
ふぅー、と。
真々琴入夜は、銀色のストローに息を吹きかける。最初は優しく、それから徐々に強く息を吐いて、なるたけ大きなシャボン玉を作り上げる。
吐いたシャボン玉は三階の昇降口から階段に向かってクラゲのようにゆっくりと漂っていた。背にした窓ガラスから、差しこんだ月光がそれらを照らす。ちょっと幻想的な光景に心が和んだ。
パチパチとふいに隣から控えめな拍手が鳴った。視線を右に移すと、背の高いショートカットの少女がその大人っぽい顔に笑みを浮かべていた。
「夜の学校でシャボン玉かぁ。けっこう好きだなぁあたし」
こちらを見ずにシャボン玉のほうを向いているので、話しかけているのか独り言なのかよくわからない。そもそも出会って数時間という間柄ではあるけれど、それを抜きにしてもあまり読めない女の子だった。
桃里凛音。入夜と同じ天ヶ紅高校の生徒で、学年は自分より一つ上の三年生。その証拠に紺のセーラー服のリボンは白色だった。
しかし、どうして上級生というのはこうも大人びて見えるのだろうか。学校の七不思議に数えていいくらいに首をひねる疑問ではある。たぶん迷宮入りの謎の類いだろうけれど。
彼女のその肩で切り揃えられた薄茶色の髪も、同色の瞳も、透き通った白い肌も、白い首筋も、細く長い手足も、その指先も、すべてが月の光に照らされて、異様に大人びて見えた。やっぱり謎だ、と入夜は思う。
「入夜くんってさ」
と不意打ち気味に凛音の薄い唇が開いた。唐突だったので危うくシャボン液を吸いこんでしまうところだった。
「……何ですか、凛音さん」
「いやさ。意外とキミ、緊張感がないのよねって」
はぁ、と曖昧に頷く。てっきり子供扱いとされるとばかり思っていた。
入夜は首にぶら下げていたチェーンつきの小型シャボン容器に視線を落とす。銀色の筒状の形をしていて、ストローとシャボン液の入った容器が一体化したものだ。ストローの頭の部分を回すことで着脱可能なタイプ。こんなものを普段から携帯しているのだから子供扱いされても仕方がないと覚悟していたけれど、彼女の疑問は別に向けられたようだった。
「こんな真夜中に学校に忍びこんで。本当、入夜くんって何がやりたいの? シャボン玉を吹いてみたかっただけ?」
入夜は苦笑して首を振る。
「はは、違いますよ」
「ならどうして?」
と眉をハの字にして小首を捻る凛音。探偵みたいに口元に指を当てていて、なんとなくその仕草が可愛らしいと思った。大人びた顔つきをしているだけに、子供っぽい仕草がどうにも可笑しく映る。
「僕がシャボン玉を吹くのは、大抵嫌なことがある時ですよ。ストレス解消アイテムというか。まぁ、わかりやすく言うと煙草みたいなものです」
「ふぅん……ってことは、今入夜くんに嫌なことがあるってことか」
「はい。まぁ、今は僕だけじゃなくて、凛音さんもですけど」
「あたしにも? それってどういう――」
言い終える前に、どうやら彼女も気づいたようだった。
タン、タン、タン――と。
まるで、誰かが階段を登ってきているような足音に。
音の響きの感じからすると、すでに踊り場にいるようだった。カサカサ、という音が聞こえたかと思うと、また階段を登り始める。
タン、タン、と誰かが入夜たちのところへ向かってくる。ゆっくりと、そして着実に。
「……ねぇ、これってどうなってるの?」
と、凛音は視線を階段に向けたまま、呆けた口調で問いかけてくる。
その間も『誰か』はこちらへの歩みを止めていない。五メートル、四メートル、やがて二メートルの近さまで詰め寄ってくる。息づかいが聞こえてくるほどの距離。窓から差しこむ月の光が、その正体を照らし出す――
……はずだった。
けれどあろうことか、そこには誰もいなかった。
姿がまるで見えない。文字通り影も形も存在していない。足音も、呼吸の音も聞こえているはずなのに、その本体がどこにも見当たらない。
自然、入夜と凛音は後ろに下がる。窓ガラスが背中に当たってひんやりとした感触。隣にいる凛音が前を警戒しながら視線を飛ばしてくる。
「……もしかしてさ、嫌なことってこのことだったり?」
「さすがです凛音さん。大当たり」
「わかってたならなんで言わないの!」
「お化け屋敷で女子に抱きつかれるのが夢だったもので」
バカなのキミは!? と目を丸くする凛音。場を和らげようと軽いジョークを飛ばしてみたけれど、どうやら失敗のようだった。
「いいから走るよ!」
叫び、凛音は廊下を駆け出した。入夜もそれにならって着いていく。姿の見えない『誰か』も追ってきているようだった。
「なんなのアレ! 透明人間? 幽霊? それとも妖怪とかそういうの!?」
「どれも違いますよ」
と入夜は即答する。
透明人間でも妖怪でもない。もちろん幽霊でもないけれど、しかし、その存在は限りなく幽霊に近いのかもしれなかった。このシャボン容器をくれた彼女によれば。
日常の裏側の、その最奥である三年四組のプレートが見えてきた。
走りながら入夜は独り言のように呟く。
「アレの存在を、僕は【トロイメライ】と呼んでいます」