紅の修正天使
廊下に出た途端、蒸し暑い空気が彩人の全身を包み込んだ。思わず「うへぇ」と声が漏れた。
誰かが開け放った窓から外気が侵入してきている。その割には風は吹き抜けず、じっとりと水分を含んだ重い空気が廊下に沈殿している。更にはそこへ喧しいセミの声が聞こえてきて、彩人の体感を数度ほど高めていた。
真っ直ぐに伸びた樹脂製タイルの廊下はつやつやと光を反射していた。
僅かに歩いただけなのにじんわりと汗が染みだし、背中にアンダーシャツが張り付く。距離にすれば二十メートルにも満たないはずなのに、少しばかり体力を消耗したように感じられた。
――たかがジュースのためになんでこんなことに……。
突発的に罰ゲームを押し付けてきた明純とアンナの二人への不満に彩人は一人、肩を竦めた。
精神的に長い道を過ぎれば、あとは突き当たり手前の階段を降りるだけだ。
校舎を飛び出した渡り廊下のその先、屋外に作られた東屋のような造りの休憩スペース――六組ほどのベンチテーブルが並び、屋根がついただけの簡素なものだが――その奥に三台の自販機が並んでいる。
本来はテスト休み期間であり、この暑さのためか屋外の休憩スペースに人影はない。あるのは近所で飼われているのであろう、赤い首輪の茶色い猫がベンチの下でぐったりとしている姿だけだった。
「えっと……明純がコーラで、アンナがレモンスカッシュだったか……?」
彼女らの要求を思い返しながら復唱する。しかしその声は学校を囲むように植えられた樹木の方から聞こえるセミの声にかき消された。
小銭を投入し、注文されたジュースを順番に購入する。ボタンを押すたびに缶がガコンと音を立てて、自販機の中から落ちてくる。
最後に自分のコーヒーを購入。カバーを開けて、スチール缶を取り出そうとしたところで、気配を感じた彩人は身を翳した。
ブン、と風を巻き起こす音。彩人の身体があったところには長い脚が振り下ろされた。
「あら、よく避けたわね」
ニヒルに笑む少女の姿がそこにはあった。
ひらりと舞う赤のスカートは電脳学園の制服ではない。そこからちらりと見えたピンクと白の縞々の大地に普通の状況なら彩人は何食わぬ顔をしながら、心の中で歓喜したことだろう。
しかしそんな感情を抱く余地がないほど、彼の脳内は困惑に埋め尽くされた。
踵落としの着弾点――コンクリートで固められているはずの足元が砂利を散らして抉られた。目測で凡そ十センチもの深さのクレーター。
目の前の細身の少女のどこからそんなパワーが生まれてくるのか、一目観察しただけでは理解できなかった。
そしてそれが自分に直撃していれば……。想像しただけで背筋がぞっとした。
「どうしたの? 間抜けな顔してるわよ、加持彩人。そんな顔してると、次の攻撃は当たっちゃうわよ!」
赤銅のような鈍く煌めく髪を流しながら少女は馬鹿にするように言い放つや否や、路面を滑るように移動して距離を取る。そして助走をつけ、再度彩人に肉薄する。
――ヤベェ、殺される……。
恐怖に支配され、ほんの僅かに反応は遅れたが、彩人は懸命に後方へジャンプしながら右手を翳す。
少女に向けられた手のひらから四つの微弱な光が発生。オレンジの軌跡を描いて、壁を作るように斜め四方に広がった。
「へえ、コード入力もアプリの起動もなしにね!」
愉快そうに赤い少女は拳を振りかぶる。そして真っ直ぐに即席の防壁を殴りつけた。
キンッ――金属同士がぶつかった時のような甲高い激突音が響いた。
目の前で彼を守った透明の防壁はガラスのようにすぐには壊れなかったものの、拳が的中した箇所を中心に蜘蛛の巣上にひび割れ、音を立てながら砕け散った。
即席とはいえ、これが常人のパンチくらいなら容易く弾いてしまうほどの強度を誇る防壁だ。それがこの有様だ。
「なかなかの耐久力じゃない。でもこれならどう?」
再び彩人から少女は距離を取る。
彼女の戦術はヒットアンドアウェー。つまりは攻撃の直後に相手の射程から離れる、カウンターを恐れた堅実な戦闘スタイルだ。もっともこれは強力な攻撃力があって、相手がガードする僅かな隙がうまれるからこそ成り立つスタイルだと言える。その点ではコンクリートや防壁を易々と砕いた彼女には最適な戦闘スタイルだろう。
彩人には事態がいまいち飲み込めていなかったが、目の前の少女が自分に危害を加える意思を持ち、尚且つそれを完遂しうる能力の持ち主であることが怖いほどに理解できた――そして何より彼女が人間でないことも。
――仕掛けるならここだな。
戦闘スタイルや彼女が見せる余裕から次に取るべき行動を決定。決めたからには彼に迷いはなかった。
「アプリケーション起動:『ライトニング』」
発声による電子操作。彼は右手を突き出したまま、空中を撫でずにウインドウを起動させ、そのまま声紋認証によって攻撃性のアプリケーションソフトを使用。ライセンスを認証させる。
右手を起点にバチバチと耳障りな音を立てて、稲妻が発生する。しかし彼の元に留まる時間は一秒に満たず、電撃の槍として射出された。標的はもちろん眼前の赤の少女。
光速で飛来する槍が次の攻撃に備え、距離を開いていた彼女を襲った。
「キャッ!!」
どこにでもあり得る若い女性の悲鳴。しかしその原因が電撃だとは誰もが思わないだろう。
彩人は赤の少女の正体がリアグラムによって顕在化したプログラムであると推理した。
世界中でリアグラムが実用化され、世間一般に浸透していくにつれて、それらを用いた犯罪も増え始めた。攻撃性を持つプログラムを顕在化させ、通り魔的に通行人を襲わせ、金品を強奪するといった手法はその中の代表格である。それらの事件を解決させるべく、現実でプログラムと戦うスキルが求められていくうちに、プログラムを用いてプログラムを制する技能者達はゆっくりと着実に市民権を得ていった。それが≪修正士≫と呼ばれる人達である。
将来プロの≪修正士≫として表舞台で活躍したいと願う彩人だったからこそ、日ごろの鍛錬の成果と仕込みのプログラムによって、一応は無傷のまま、ここまで立ち向かえたのだった。しかしこれが他の一般生徒だったならば、軽傷では済んでいなかったに違いない。
――これなら逃げられるか……?
目の前で片膝を付きながらも、好戦的な眼差しで彩人をねめつけるプログラムの少女を見て、彩人は思案する。一見すると逃げ出す隙があるように見えるが、撃退というには程遠いダメージしか与えることができていない。ここで判断を誤り、迂闊に背中を見せるようなことがあれば、コンクリートを砕く怪力が再び牙を剥くことになるかもしれない。
ダメージを負っているのは少女だけだが、スピードやパワーでいえば彩人の方が大きく劣るのは歴然だ。漫画の悪役よろしく、「ここから手加減なしだ」とばかりに襲ってこられれば、例え備えていようと長くは持たないだろう。
さらに今までの一連の攻防は、彼女の油断を突いた奇襲めいた反撃によって戦いの主導権を取り戻したに過ぎない。再度攻守が入れ替われば、同じ手は通用せず、次なるチャンスが巡ってくる可能性は限りなく低くなる。
それくらいに彼女の戦闘力の高さを彩人は見積もっていた。
――どうする。追撃すべきか、逃げるべきか。
彩人の思考はこの二択を迫られていた。
彼女の一挙手一投足を窺おうと意識すると、視野の広さを欠いてしまう。それが自覚できてしまうことで猶更浮き足立っては、冷静な思考を取り戻そうとする気持ちに反して、焦りが生まれてしまう。
ベンチの方まで転がっていったコーラとレモンスカッシュのことなどすっかり忘れて、少女(敵)だけでなく自分とも戦っていた。
「いやあ、お見事だね! まさか紅に一撃入れちゃうなんて予想以上だよ!」
赤い少女に気を取られていた彩人は思わず耳を疑った。
右方から聞こえてきた第三の男の声は、興奮気味に彩人を称える。無意識に彼の視線がそちらに向いた。
休憩スペースのベンチシートに腰掛ける男は電脳学園高校の制服を着た姿や顔立ちから察するに彩人とそれほど年齢は変わらないであろう。だが大人びた雰囲気から上級生であると推察される。
整った顔立ちは見るからに理知的で、軽くウェーブのかかった色素の薄い茶髪からは清潔そうな印象を受けた。足を組み、柔和に微笑んでみせる青年は正しく様になっていたが、どこからか漂う悪戯坊主のような狡猾な曲者の雰囲気に違和感を感じた。
「ケーゴ、止めないで! あたしはこいつを殴らないと気が済まないの!」
赤い少女は青年をケーゴと呼んだ。
新たな敵の出現かと一層緊迫感を持って身構える彩人を嘲笑うかのように、青年は地面に転がっていた二本の缶を拾い上げ、レモンスカッシュの封を開けた。
プシリと清涼感溢れる炭酸の音に頬を緩ませ、彼は一口喉を潤わせた。
「君の気が済むかどうかは僕の問題じゃない。そもそも生命の危機を感じれば全力で対処するに決まってるじゃないか。そして油断したのは君自身の責任だよ、紅。しかし面白いものを見せてもらったよ」
愉快そうに青年は笑う。
当事者であるはずなのにさっきから彩人は会話の外に置いてけぼりにされている。これ以上の戦闘がなさそうなことに安堵したが、それ以上に理不尽に巻き込まれ、必死に戦った自分とは全く違う温度差で笑いながらこちらを見つめる青年に怒りを覚えた。
キッと睨みつけるも、青年は軽く笑って受け流すばかりだ。
「済まないね、加持君。僕のパートナーが先走ってしまったようだ。僕らは君の敵ではない。どうか警戒を解いてほしい」
パートナーということは青年は赤い少女の仲間なのだろう。そして不満そうながら少女が戦闘から手を引いた限りでは、青年の方が上位なのだろう。
敵ではない――その言葉の意味を彩人は量りかねていた。
「……何者だ、お前ら?」
男が現れてから、目の前の少女から獰猛な印象がかき消えたが、敵ではないという言葉にどれほどの信憑性があるのか。また彼は味方であるとは断言していない。致命傷になり得る不意打ちから始まった一連を踏まえると多少の警戒心が残るのは当然だった。
それを理解しているだろう青年だったが、彩人に鋭い視線を浴びせられながらも話を焦ることはなかった。
「さて――君に話したいことはいくつかあるが、まずは自己紹介から始めようか。僕は黒須圭吾。夏休み明けからこの電脳学園高校に編入する、アメリカ帰りの帰国子女ってやつだ。学年で言えば三年に当たる」
懐疑的に話を聞く彩人だが、少し調べればすぐにばれそうな嘘に意味はないだろうと判断する。
黒須が語り続ける間、紅と呼ばれた少女は立ち上がり、詰まらなそうに手遊びをしながらも黙って控えていた。
「僕は向こうの学校に通っている間に電脳技師として、色々と依頼を請け負ってきてね。日本に帰ってくるのを機に、正式に会社を設立しようと思っているんだ。そして加持君、僕は君を修正士としてスカウトしたい。これが一つ目の要件だ」
電脳技師とはプログラミングや修正など、総合的な電子関係の知識に富んだ者を指す言葉だ。報道等では不正アクセスを『ハッキング』と呼ぶことが多いが、これは本来『クラッキング』と呼ぶべき行為であり、『ハッキング』とは異なるものだ。普段目にする機会がなまじ多かったゆえに定着してしまった誤用の一つである。
じっと黒須は彩人を見つめた。その目に不安の欠片など微塵も感じさせない。
まるで彩人が仲間に加わると確信しているようだ。
「ケッ、なんで俺なんだ? 俺なんかよりもスゲーやつなんて、この学校の先輩にでもいくらでもいるだろうし、それに会社なんて大層なものを作るんならプロ資格を持ってるやつの方が何かと都合がいいんじゃないのか」
気性の荒い紅をコントロールできる黒須はやり手の電脳技師なのだろうが、アメリカ国内ならともかく、日本では無名の高校生でしかない。起業するなら新たに日本国内での伝手も必要だろう。そうなると同じく無名の高校生に過ぎない彩人よりも、プロ資格を持って既に活躍している大人の≪修正士≫の方が何かと都合がいい。
正論めいた彩人の言葉。
しかし待ってましたとばかりに、黒須は口許を悪戯っぽく緩ませる。まるで自慢の玩具を披露する子供のようだ。
「しらばっくれても無駄だよ。国家一級電脳技師、加持彩人君」
彩人は怪訝な表情を浮かべる。黒須はより一層の攻撃的な笑みをこぼした。
国家一級電脳技師とは電子系の技術への造詣を量る日本の国家資格の一つで、電脳一種と略されることが多い。
プロと呼ばれるのは国家三級電脳技師――電脳三種以上の有資者で、二種を所持していれば一流と呼ばれる世界だ。国内だけの基準に過ぎないが、所持者は五十人に満たない電脳一種の所持者は天才中の天才と言って差し支えない。資格自体の効力は国内に限定されるが、所持者の能力は世界レベルと言っても過言ではない、超一流を証明するに相応しい資格だ。
「これでも僕はアメリカじゃ少しは名の売れた電脳技師なんだ。多少骨は折れたが、電脳一種の所持者名簿を閲覧するくらいは造作もないよ」
彼が言った名簿は公にはされていない情報である。つまりは不正アクセス(クラッキング)によって手に入れた情報であると自白したようなものだ。
これはグレーゾーンどころか、明らかな犯罪行為である。
ただし国が厳重に管理している情報に抜き取る能力の持ち主など、彩人の周りにはいなかった。そしてそれだけの能力があるのなら、容易に足がつくような真似はしないはずだ。もしかすると国は情報を抜き取られたことにすら気づいていないかもしれない。
電脳一種の有資格者である彩人がどれだけ探したところで不正閲覧の証拠など出てこないかもしれない。
彩人の所感の通り、黒須はやはりやり手の電脳技師だったらしい。
「しかし驚いたね。電脳一種を持っていながら、身分を隠して電脳関連の専門高校に通っているなんて。流石の僕でも理由までは調べられなかったが、どういう了見なんだい? 今更君がここで学ぶことなんてないだろう」
「…………」
純粋な好奇心からくる疑問。
だが黒須の問いかけに彩人は睨み返しただけで、何も発そうとしなかった。
黒須がこの話を持ち出したのは軽い脅しのつもりでもあった。
理由は未だにわからないが、身分を隠しているということは明るみに出てほしくない情報であることは十中八九違いない。その情報が手元にあるというだけで、交渉のイニシアチブは必然的に黒須が得ることになる。
もっともそれで無理やり仲間に引き入れたところで、所詮は脆い繋がりにしかならないのも彼は知っている。
だから無言の彩人に対し、この話をそれ以上言及するつもりはなかった。
それに彼には他にも手札はある――それも切り札と言って間違いない情報が。
わざとらしく鼻を鳴らしながら、肩を竦める。アメリカっぽい仕草だった。
「……オーケイ。言いたくないことは誰にでもあるさ。さて話は変わるが、君は修正天使計画というものを知っているだろうか。簡単に言えば電脳関係の事件の捜査には電脳世界と現実世界を自在に行き来できる方が便利だってことで、自立行動のできるプログラムを作ろうという話だ。当然ながらリアグラム使用に必要なライセンスは標準で装備されている。実用化の一歩手前まで計画は進行している。試験運用されているのが三体。そのうちの一体がこの紅だ」
黒須の話のまま、彩人は紅の方に目線を向ける。
どこからどう見ても人間の少女だ。少し細身な彼女は、身長はクラスの女子とさほど変わらないし、彩人との交戦中に見せた表情の豊かさはいかにも人間臭い。彼女がプログラムだと言われても正直ピンとこないというのが彩人の率直な感想だった。
しかし整った顔の造りや珍しい赤銅色の髪への違和感の無さ。それにコンクリートを容易く蹴り砕いたあのパワーも、プログラムだからと言われてみれば納得できた。
だが、そこで疑問が浮かぶ。
「一つ聞きたいが、そんな大それたプログラムがなんでアンタの手元にいるんだ?」
「……その話は追々ね」
一瞬言葉を濁したが、黒須はわざとらしくウインクをして誤魔化す。彩人も苦笑いだった。
「話を進めるが、僕はとある依頼を受けていてね。その依頼というのがバグのせいで突如姿を消した修正天使を回収してほしいというものなんだ。調べたところ、そいつはどうもこの電脳学園周辺で電脳世界と現実世界を行ったり来たりしているようでね。僕がここに来たのは入学前の下見も兼ねた事件の調査なんだ。君にもこの事件の捜査に協力してほしい。これが二つ目の要件さ」
そこまで言ってから黒須は「ちなみに」とさらに言葉を付け足す。
その時の表情はとっておきの悪戯を用意しているような高揚感に満ち溢れ、口元が自然と歪んでいた。狡猾さの色がより濃くなっていた。
「修正天使計画の初代プロジェクトリーダーは加持宏樹。君の父親だよ。これは彼が最期に関わっていたプロジェクトなんだ」
黒須は目を細める。その顔は無言のままに「興味が出てきただろう?」と問いかけているようである。
現に黒須の思惑通りに彩人の興味は事件に向いていた。なにせ彼にとって、父は誇りであった。
彼が幼い頃の事故によって帰らぬ人となったが、その想いは今でも変わらない。同じ電脳学の道を進もうと志す現在においては目標となっている。それくらいに父の存在は大きい。
これまで彩人が父の研究について調べようと思ったことがないと言えば嘘になる。しかしそれは禁忌に触れるような背徳感があって、最後の一歩を踏み出すことができなかった。
また父を亡くして以来、母は研究所の仕事を辞めた。母も寂しかったのだ。研究所にいると父のことと思い出す時間が増えるだろうし、また母自身と同じように幼い自分に寂しい思いをさせたくないという配慮がそこにあることくらいは、幼かった彼も自覚していた。
だからこそ父の遺業に触れることが母の配慮を無碍にするように感じられ、いつしか彼のストッパーとなってしまっていた。
正直、彩人は怖かった。その父親が遺した最期の功績に触れることで、唯一の肉親である母親と隔たりができてしまうかもしれないと思ったからだ。
しかしいけないことだと思えば思うほどに、興味が湧いてくる。禁じられた聖域だと感じるほどに、その響きは甘美で、頑なに守り続けていたなにかを揺さぶった。
「……信用できない相手に協力なんかできねえよ」
「いきなり致命傷になり得る踵落としの仲間の言葉なんて聞いてられない」と彩人は吐き捨てた。
もっともそれは彼自身を縛る言霊として、口にしたに過ぎない薄っぺらい嘘だ。本心では踏み出したくてうずうずしている。それがわかってしまうからこそ、自分が怖くて仕方がなかった。
「ふむ、それなら信用できれば協力してくれるんだね」
「…………」
顔をしかめる彩人に対して、黒須は意地悪く笑って見せた。
「まあ、焦るつもりはないよ。君が納得しえない限り、僕と君は仲間になんかなれないからね」
いけ好かない男だが彩人を仲間に引き入れたいという思いは本気なのだと目を見ればわかる。
熱意を感じる分、彼の言葉に嘘はないのだろう。それが分かってしまった分、どうにも彩人は居心地が悪かった。
困ったように視線を逸らすが、次に向いた先では熱心な黒須のセリフを嘲笑うように紅がふっと鼻を鳴らしたところだった。
赤いプログラムの少女はどこまでも人間臭い。ヒトと変わらない仕草を無意識に体現しているところに彼女を設計したプログラマー――つまりは彩人の父親――の技術力の高さや拘りが垣間見えた気がした。
大きな父の遺業がすぐそばにあると思うだけで、鳥肌が立った。無意識的に左手で右腕を撫で下ろす。
「さて、そろそろ時間だから僕はお暇するよ。行くよ、紅」
いつの間にか出現させていたウインドウを閉じ、黒須が静かにベンチから立ち上がる。それに合わせて紅はリアグラムの顕在化を解除したのか、一瞬強い光を柱状に放った直後、蜃気楼のように消えてしまった。
「それじゃあね、加持君」
渡り廊下を通り、黒須は校舎の中へと姿を消した。
玉の汗が頬を伝う感覚。緊張の糸が切れた途端に、蝉が喧しく、ギラギラと日差しが照り付ける真夏の屋外だったことが思い出さされる。
すぐにでも冷房の効いた教室に戻りたかった彩人だが、なんとなく黒須を追いかけるようで足が進まない。
彩人同様に汗をかいた二本のジュース缶は黒須の手によってテーブルに放置されていた。
彩人はドサッと崩れ落ちるようにベンチシートに体を預けた。
「これ渡したら、あいつら怒るだろうな」
空になったレモンスカッシュの缶を指で弾くと、アルミ缶は軽い音を立てて横転した。
赤と黄色の缶を見つめ、冗談めいた独り言を吐き捨てるが、自分の心がここにないことを余計に自覚させただけだった。
自分の正体を知る腕利きの電脳技師――黒須圭吾。
その相棒らしき修正天使の少女――紅。
父親が最期に携わったプロジェクト――修正天使計画。
緊張感のギャップと予想だにしなかった情報が彼を疲弊させた。加えて暑さのせいで、喉がカラカラだった。甘さを誤魔化すために欲したコーヒーも今は自販機の取り出し口で汗だくになっていることだろう。
疲れから甘味を欲する本能のままに、プルタブを開け、一気にコーラを喉へと流し込む。
「ぷはー……やっぱりぬるいな」
気分を変えようと無理やり笑ってみたが、引き攣った笑みはどうにもならなかった。