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悲しい追憶

 ――こういうのって明晰夢って言うんだっけ……。

 少年は嘆いた。

 夢だと認識できる夢。それが明晰夢。

 ぼんやりとした夢の世界においても、その記憶だけは鮮明で、忘れたくても忘れられなかった。

 悲しい結末が待つだけだとわかっている。それは幼い日の記憶――。


 白衣姿の両親はコーヒーの入ったマグカップを手に議論に熱中していた。それが小学校へ上がったばかりの少年の姿を見つけるや否や、真理に迫りたいという研究者としての矜持からくる攻撃性は影をひそめ、優しい親の顔へと早変わりした。

「パパー!」

 膝を屈める父親の元へ少年が飛び込んだ。

 思っていた以上の力強さに一瞬父親はバランスを崩し、手の甲にコーヒーを零した。冷めきったコーヒーが手にかかったところで、ようやく長時間議論していたことに気付かされた。

「おおっと! ……気付かないうちに大きくなったな、彩人!」

 わしゃわしゃと父親が彼の頭を撫でた。それはかきむしると言っても差支えがないくらいに乱暴な手つきだったが、それでも少年は気にも留めない。髪の毛が乱れようとも、純粋に父親の言葉が嬉しくて無邪気に顔を綻ばせた。

 父が帰ってくるのはいつも深夜で、少年が眠ってしまってからだった。若くしてこの研究室の室長を任される明晰な頭脳も、子どもとのすれ違いに一人の親として寂しさを感じていたのは、それだけのやり取りで一目瞭然だった。

 そして息子である少年も幼いながらに理由が分からないまま、すれ違いを当たり前として許容し続け、寂しさを感じてきていた。それ故に何気ない父子のスキンシップですらも、二人にとっては――最も近くで見続けてきた母親も含めた三人の家族には特別でかけがえのないものだった。

 ここは国内の最先端技術の集まる国立の総合研究所である。複数の分野ごとに研究室が存在し、その道の専門家たちが全身全霊を込めて、新しい技術の開発に勤しむ場所だ。その中でも特に多くの予算が注ぎこまれ、力を入れているのが電脳学と呼ばれる新しい分野だ。

 簡潔に言えば二次元と三次元の壁を取り払うための研究。それはプログラミングされた設計図を基に特殊な周波を組み合わせて照射することで、質量や熱量などを始めとする性質を与え、現実に存在する物質と何ら変わらない物体を作り出すことを目的としていた。

 これまで存在しえなかった物質を仮初の形としてでも生成することが可能になれば、分野を問わず大きな発展の礎となるのは間違いない。

 十年ほど前、日米仏の三ヶ国による共同研究によって、その糸口が見出された時、日本のホープとしてプロジェクトに参加していたひとりが彼の父親だった。今や妻子を設け、三十代半ばにして国内有数の研究室長を務める父親は、世界的に有名な研究者のひとりであり、小学校に通い始めたばかりの少年にとって自慢の存在である。

 今日も授業短縮期間で、午前中だけの授業を終えた少年は、昼食を求めて両親の働く研究室を訪れたのだった。

「彩人君、一人で来たの?」

「うん!」

 若い女性研究者の問いかけに、少年――彩人は元気いっぱいに答えた。

 「この年齢で一人で電車に乗って研究室まで来れる行動力はなかなかのものだ」というのは、親馬鹿気味の父親の弁である。

 また始まったとばかりに親ばかな話を聞き流す周囲も慣れたものだ。

 しかし団欒もあっという間に終わりを告げた。

「加持室長!」

 シュンと僅かな音を立てて、自動ドアが開いたと思うと、やや早足で白衣姿の男が入ってきた。

 困ったような焦ったような表情はただ事ではないのだろう。

 父親をはじめとした研究チーム全員の顔が引き締まった。

 ゆっくりと流れていた時間が早くなったのを感じて、少年も意味も分からないまま、視線を行き来させた。

「どうした? 騒がしいな」

 努めて冷静さを装う。しかし室長という立場上、緊急事態の予感に芯から落ち着くことなどできなかった。

 駆け込んできた男が本来いるべきは隣接する第二実験室だ。

 そこではプログラムの顕在化を安定させる実験が行われている最中のはずだ。すでに実験の方法は確立され、現在は統計的に信憑性の高いデータを得るために繰り返し実験が行われている段階だった。そのため何かしらに事故が起こるなど、想定されていなかった。

 立ち込める緊張感に男は息を呑む。急いできたために額にはじっとりと粘っこい汗が浮かんでいる。

 百分の一秒ほど言いよどんだが、それすらも惜しいとばかりに早口で現状を報告する。

「それが実験中にいくらかの数値がこれまでの実験の十倍程度に跳ね上がりまして――」

 その言葉に室長の顔が険しさを帯びた。

「わかった。すぐに行く」

 短い言葉の中に焦りの色が見えた。

 その一言に男は踵を返した。

 父親は自身を落ち着かせるように白衣の襟元を正し、うつむき加減に重そうな息を吐き出した。

「彩人、父さんは少し実験室に行ってくる。すぐに戻ってくるから母さんと待っていてくれ」

 先ほどとは打って変わって優しい手つきで少年の頭を撫でると、その後ろ姿はゆっくりと、しかし早足で遠のいていった。

 これが少年――加持彩人の見た父親の最期だった。

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