プロローグ・夕暮れの亡霊
「よしっ! これで終わりっと!」
学習机を四つ連結させたものの上に横たわる大きな板切れ。ペーパーフラワーのデコレーションが縁を彩る中にすっぽりと空いた右上のスペースに少女は最後のピース――黄色い造花をはめ込んだ。
数日前まではホームセンターで売られていたそれは、文字通りただの板切れだった。それが数日のうちに白いペンキを塗られ、色とりどりのペーパーフラワーで囲まれた見事な看板に生まれ変わっていた。
その過程に大きく貢献していた二人の少女は互いに顔を見合わせ、完成を満足げに微笑み合った。
「やったね、アンナちゃん!」
「うん。これで電脳祭に間に合うわね!」
教室内は冷房のおかげでひんやりとした空気が漂い、快適な空間が保たれているが、グラウンド側の窓から差し込まれてくる真夏の日光は夕方になってもギラギラと鋭利で、日暮れに抗う最後の悪あがきのようである。
アンナと呼ばれた金髪の少女――琴吹アンナは汗によって額に張り付いた前髪を右手で振り払った。
彼女の長い金髪は毛染め薬によって染められた不自然なものではなく、彼女の父親からの遺伝である。端的に言えば掛け値なしの美女。それが周囲からのアンナの評価だった。ぱっちりとした大きな二重の眼や凡そ日本人らしくない高い鼻は彼女を美人のカテゴリーに昇華させる。しかし父親譲りの高い身長や高校一年生にはとても見えない豊満なシルエットが幼さを薄めた結果、美少女よりも美女と評される機会が多くなったのだ。
夏休みの直前にあたる七月の下旬。彼女らの通う電脳学園高校は電脳祭と称した学園祭を三日後に控えていた。
本来なら学園祭までの数日は期末テストを終えた直後のテスト休み期間に当たるのだが、生徒たちは学園祭を無事に成功させてから夏休みを楽しみたいのだろう。午前中から昼過ぎにかけては全校生徒の半数以上が休校日にも関わらず登校してきた。しかし日暮れ間際とあって現在は人気に乏しい。廊下に人影は皆無だった。
彼女たちがたった今完成させた看板も電脳祭の出し物で使用されるものである。
本来ならば『クレープ』と中央に大きく書かれた自慢の看板の完成を喜び合い、存分に余韻に浸りたいアンナ達だったが、もうすぐ下校時間とあって、出来上がった看板をじっくり眺める暇もなく、下校する準備を整えることにした。
「ふー……。これで電脳祭は大丈夫だね!」
「油断大敵だよ、明純! まだ看板が出来上がったにすぎないんだから」
アンナのクラスメイトである黄村明純はおかしそうに「はーい」と気のない返事をした。
低身長で女性的な起伏にも乏しい。アンナとは正反対に、明純は見た目だけではとても高校生には見えない。中学一二年生くらい、下手をすれば発育のいい小学生よりも見た目年齢は低い。
ただ活発そうな栗色のショートヘアや円らな瞳は小動物的な印象を見る人に持たせ、多くの人が愛らしいと感じる容姿をしていた。
明純とアンナは自他ともに認める親友同士であり、それがきっかけで学園祭の実行委員に二人して立候補したくらいだ。
真面目なアンナと楽天家な明純は意外な取り合わせと思われることが多いが、自制をかけることが多いアンナと三人の弟妹を持つ明純は案外バランスのいい組み合わせだった。
今回も明純は、油断大敵と言いつつ、頬の弛みを必死に堪えるアンナの心情が容易に読み取れて、それがおかしくて仕方がなかった。
そんな他愛もないやり取りしながら忘れ物がないことを確認すると制鞄を持ち、教室を出る。あとは電子ロックで施錠。カードキーなどは不要である。
「後は職員室で先生に報告すれば準備完了ね」
アンナが呟いた直後、校内にアナウンスが流れる。
『まもなく下校時間です。校内に残っている生徒は速やかに下校してください。繰り返します――』
「嘘!? もうそんな時間?」
驚いたアンナが空中を右手で右から左へとスライドすると、空中にディスプレイが浮かび上がった。
「六時四十五分……明るいから気づかなかったわね」
薄暗い中でもわずかに発光する薄緑のウインドウに表示された時刻を見て、アンナはがっくりとうなだれた。
「……せっかく完成したんだからジュースで乾杯くらいしたかったわね」
残念そうにアンナはディスプレイを今度は左から右へとスライド。すると空中のウインドウは影もなく消え去った。
ポツリと漏らした彼女の言葉に、先ほどのやり取りを思い出した明純がひっそりとほくそ笑む。
「まあまあ。明日になれば調理班が練習で大量にクレープを焼くんだし、その時でいいんじゃない?」
「……それもそうね。それじゃ、乾杯は明日ってことで!」
乾杯という言葉から教室の隅に山積みにされた段ボールを思い浮かべ、明純はマイペースに笑った。中身は学園祭の売り物となるジュースのペットボトルで、クラスメイトでお金を出し合って購入したものだ。もちろんながらおいそれと個人が手を出していいものではない。
学級委員と学園祭の実行委員を兼ねるアンナの真面目な人柄を考えれば、十中八九、それに手を付けるはずがないのは仲のいい明純なら容易に想像できるはずなのだが、アンナほどでないにしろ、やや舞い上がり気味の彼女にはそこまで思考が及ばなかったらしい。
「――あれ?」
中庭を挟んだ反対側の教室に人影を見つけた明純はすっ頓狂な声を上げた。
「どうかしたの、明純?」
問いかけるアンナ。明純は無言でその教室を指さした。
ふっと目線で追うアンナも人影を見つけるや否や首を傾げた。
「……あそこって第一学習室じゃない?」
「そうよね」
電脳学園高校は西側にグラウンドがあり、南校舎と北校舎とを繋ぐ東西の渡り廊下によって上から見れば『ロ』の字型をしている。
第一学習室はアンナ達がいる南校舎の二階から見て、中庭を挟んだ線対称の位置にある教室だ。普段は授業で用いられることもなく、たった三人の部員と二名の幽霊部員によって何とか存続している文芸部の部室としての使用されることが専らである。
またその三名の部員のうち、二名がアンナと明純である。
普段は自分たちしか使わない教室に人影を見つけてしまっては気になるのは人の常である。
「電気もつけずに何やってるんだろうね?」
人影は徐に教室内を歩き回っているようだった――それも同じところをぐるぐると。
まだ夕日の光があるが、逆に陰になる部分は昼間の比較にならないほど暗い。蛍光灯もつけずに探し物をするには明らかに適していない。
そんな噛み合わなさがどこか薄気味悪さを醸し出す。
「さあ? でもたぶん生徒じゃないわ。だって制服じゃないもの」
電脳学園高校の制服は黒に近い紫地がベースで、男子が左肩から真下に向かって三本の黄色いラインの入った学ラン。女子は大半は薄い紫で、大きな襟の部分が学ランと同じ黒っぽい紫地に三本の黄色いストライプがプリントされたセーラー服が校則によって定められている。ちなみにスカートは赤と黄色のギンガムチェックである。
もっともこの時期になると夏服の着用が義務付けられているため、男子は半そでのワイシャツを着ているはずだ。女子にも夏服はあるが、デザイン自体は大きく変わらず、単に風通しの良い薄手の生地に切り替わったくらいだ。
第一学習室の人影は遠目に見てもわかるほどに髪が長く、アンナ達はそれが女性だろうと見当をつけていた。
それならば夕日で色が曖昧に見えたところで、黒に近い色合いが目に映るはずなのに、第一学習室の人影は白っぽい服装をしている。よってアンナは生徒じゃないと判断したのだった。
しばらく二人はその場で、人影の様子を観察していた。
それからどれくらい経ったのか。夜の帳が黄昏を飲み込み始めた頃、ふと人影がアンナ達の方を向いた。そしてゆっくりとした足取りで窓の方へ近寄ってきて、逆にまじまじと二人を観察し始めた。
「――あれー、なんかやばくない?」
「わたしもそれ思った。……めっちゃこっち見てるし」
乾いた二人の会話。
人影が何者であるのかがわからない以上、彼女たちの不信感は募る。ましてや日暮れに差し掛かる時間帯。暗くなる視界と正体不明の人物の取り合わせに大小問わず不安感を抱かない方が少数だろう。
そして――
「えっ、消えた!?」
「……嘘でしょ?」
目を離す暇などなかった。むしろ恐怖感から釘付けにされていた二人の視界から忽然として人影は消えてしまった。それも移動した様子もなく、暗闇に紛れたわけでもなく、ただ煙のように一瞬のうちにふっと消えてしまったのだ。
二人して自分の目を疑う。そして互いの顔を見合った。
「……とりあえず職員室まで行こっか」
「そ、そうね。とりあえず、ね……」
それからの二人の足の運びは早かった。小走りと称しても間違いない速度で、北校舎一階の職員室へと向かった。
それからおおよそ十秒後。
アンナ達がいたその場所に第一学習室にいた人影があった。
廊下を照らす明かりが灯されるのは午後七時になってからで、人が快適に過ごすには暗すぎる。そんな中に白いボディスーツ姿がぼんやりと浮かび上がる。
華奢な体つき。身長は平均的な成人女性と同じく、百六十センチ程度といったところだ。
何より目を引くのがフィクションの世界から抜け出したようなダークブルーの髪であり、しなやかながらも重量感に乏しい。まるでマネキンのカツラでも見ているようだった。
暗いため、鮮明に見えないが肌は透明感のあり、双眸は上質なブルーサファイアを装飾されたように澄んだ明るい色合いをしている。だからこそ時間と共に光を失われていく廊下の暗がりをその内側に反射させて、より深い闇を宿していた。
……不意に蒼い少女の全駆が揺らいだ。ジリッと電磁の乱れが無音の廊下で密かに脈打つ。
まるで浜辺に打ち付ける波のように彼女の身体を通り、透過して背後の景色を映し出す。不可思議でありながらも、幻想的な光景だった。
無感情に少女はぽつりと呟く。
「――マスター……彩人坊ちゃま……」
次の瞬間、彼女の姿は廊下から無くなっていた。
元より何もなかったように静寂を取り戻したその場を次に支配したのは、七時の絶対下校時間を告げる校内アナウンスだった。