仕事のあと
終業時刻になり、外線が全て留守番電話に切り替わったのを確認してから、机上の書類をキャビネットへ移して私は挨拶をした。
「お先に失礼します。」
この会社は残業があまり好まれない。
昔はとにかく残業している人の方が評価されていたが、数年前から突然、評価方法が時間対効果に変わった。
そのために苦労をした人もいたが、元々プライベートに重きを置くために時間内作業の効率化を考えてきた私にとっては嬉しい話だった。
エレベーターを降りて正面の自動ドアを出ると、すぐ横に大久保さんが立っていた。
私達は談笑をしながら新しく出来たというホテルの地下にある最近噂のワインバーへ向かった。
階段を降りて扉を開けると、アンティークの小物や絵画に囲まれたそのお店は、間接証明で少し暗く、ジャズの音楽が遠くに聞こえる。
椅子のデザインなど細かい拘りを感じ、初めて来たのだが私はこの雰囲気をとても気に入り、大久保さんは嬉しそうだ。
それ程広いお店ではないが、これから贔屓にしようかと考えた。
時間がまだ早かったためか、お客さんは少ない。
ふとカウンターの方を見ると、見覚えのある顔の女性が店員と談笑していて、思い出したい私はその彼女をじっと見ていた。
するとその女性は私の視線に気付き、少し驚いてから
「摩耶?」
と声をかけてきた。
小中学校時代の同級生の秋世ちゃんだった。
彼女は先日結婚式を挙げ、知り合いが働いているこのお店で二次会が開かれたためそのお礼に来たらしい。
彼女の左手薬指には結婚指輪が光り、彼女は照れくさそうな幸せそうな表情で笑った。
あの頃の面影はそのままだが、宮本を好きな女子とよく喧嘩をしていた秋世ちゃんはすっかり「女」になっていた。
彼女の結婚相手を聞いて私は彼女のイメージに対して意外に思い驚いた。
誰と一緒になろうと本人の勝手なはずなのだが、失礼な事に私はかなり顔に出てしまったようだ。
すると彼女は
「私も実は意外だったよ。
でも恋愛も結婚もタイミングだからね。」
と笑って言ったが、少しだけ寂しそうに見えた気がした。
あまり長話をしていると部外者の大久保さんに申し訳ないので、秋世ちゃんを大久保さんに簡単に紹介してから、私と大久保さんは奥の方へ移動した。
今日は色々な事がある。
そのせいか、このタイミングで暖かい塊の問いかけに気付いてしまった。
私はどこかで直と一緒になる未来が欲しいと思っていたのだ。
いつものように差し障り無い事を話しながら大久保さんと笑顔でお酒を楽しんでいるのだが、私はどこか上の空だ。
大久保さんには気付かれていないようだが、少し申し訳なく思っていた。
その時大久保さんからメモ用紙を一枚差し出された。
中には電話番号が書いてあって、大久保さんのプライベート用携帯の電話番号らしい。
「休日とか暇な時にでも電話して。」
と彼は言った。
私と大久保さんは勤務時間の会話と、終業後にこうしてご飯を食べたりお酒を飲む以外に接点を持ってはいない。
基本的に電話を支給されるため、要件がある時はその電話があれば十分で、当然勤務中ではない休日にその電話を鳴らすなどという事は無かった。
大久保さんは誰にもプライベートの携帯番号を教えない人だ。
つまり一歩踏み出すためにこれを私にくれたのだ。
私はまた上の空に過ごしていた事を少し申し訳なく思ってから、その紙を受け取った。
「まあ摩耶ちゃん忙しそうだから、暇な時にね。」
と彼は笑った。
恐らく逃げ道を作ってくれたのだろう。
私から電話がくれば脈があるとして進む事を考え、電話が来ないうちは今まで通りという感じだろうか。
私は受け取ったメモを鞄にしまうと、あまり間を開けずに「そういえば」と、くだらない話をし始めた。
間が開いてしまうとその時間の空間に意味ができてしまう気がしたのだ。
少し談笑をしてから私達は店を出て帰宅の途についた。
明日は土曜日なのでもう少し遅くなっても良かったのだが、そういう気分ではなかった。
私は大久保さんと別れてから、朝は憂鬱に思いながら通った桜の並木道をゆっくり歩き桜を見上げた。
ずっと消えてくれない暖かい塊の靄が少しずつ広がって全身に染み渡る。
桜の花が少しだけ開いている事に気付き、顔が歪み
その時私の鞄からメールの着信音が鳴った。