第二章10
終点に着いた。暗い暗い闇の底に。
「此処に、コウキ君の武装があります」
沈んだ空気、冷えた空気、重い空気………空気の密度を感じる空間に、
「お久しぶりね、エリーシャちゃん。髪を切ったの?とても似合っていて素敵だわ」
「ありがとう、お婆様」
美しく老いを迎えた、老婆が一人。エリーシャが駆け寄っていく。手を繋いだままの僕も、引きずられて。
「あらあら、可愛らしい子ね。エリーシャちゃん、あなたがお友達を連れてらっしゃるなんて珍しいわ、どなたかしら?」
「友達といいますか…この娘がコウキです」
「は?」
面食らった老婆に、エリーシャは簡潔に説明する。僕が、偽装の為に性転換したことを。
「う、うう……こんな格好したくないのにエリーシャが無理やり」
「あ、あらあら。そうでございましたの………その様な事が………」
「まあ、ここまできたらもう解除してもいいでしょう」
「ちょ、え?いきなり!?」
ぽん、と軽い音を立てて体と服が変化する。
胸が縮んで、髪が短くなって、男の体に、本物の僕に戻る。
「あらあら、本当にコウキ様だったのね」
驚きはそのまま笑顔に変わり、笑顔から即、居住まいを正して、
「では、改めてはじめまして、御先祖様。
私はヤグチ・ヒカリ………」
「ヤグチ………?え?それって?」
「あなたの妹、アカリの孫にあたります」
「僕の………アカリの………子孫?」
面食らうのは、今度は僕の方だった。
「光栄ですわ、伝説の『剣聖』にお会いできて。けれど悲しいですわ、これで本当に戦争が始まるのだと知らされるようで」
アカリには似ていない………でも、どこかに面影がある老婆。
「アカリ様がこの動物園と絶滅回避研究所を建てられてより百年………我らヤグチ宗家は此処で多くの動物達の生と死を見てまいりました」
目尻に浮かんだ皺は、どれだけの苦渋を刻んできたのか。
「ええ、多くの多くの生き物が……弱っていく様を、狂っていく様を、滅びていく様を」
震える睫毛の下の瞳は、どれほどの涙を流してきたのか。
「看取って………参りました」
言葉にはどれ程の重みがあるのか、とてもとても窺い知れないけれど――――この暗い暗い闇の底には、百年分の重みが積み重なっているのだけは、理解できた。
「話したいことは、伝えたいことは、語りつくせぬほど御座いますが、今はまずコウキ様の為の武装を復活させましょう」
「僕の、武装を」
「ええ、失礼ですが、お手を………」
言われるままに両手を差し出す。
重ねられる手、歳と共に水気を失った手、年齢を重ねた手………人生を感じさせる手、ヒカリさんの手が、僕に触れた刹那、
「!?う、うわわわわわ?!」
ヒカリさんの手が僕に握りつぶされた!!
一瞬前までそこにあった手が無くなっている!
目の前で、指は、手は、手の平は人間には無い器官、羽へと代わっていく。
「あらあらそんなに怖がらないで御先祖様」
「――――――――!??!」
悲鳴を上げる僕をからかうようにコロコロと笑いながら、ヒカリさんは、ヒカリさんは手から腕へと羽に変わっていく。
「私は嬉しいの、ちゃーんと役目を果たす事ができて」
腕から肘まで変わった羽が僕の周りに散らばってゆく。
体が羽に変わるたび、時が戻るように若返っていくヒカリさん。最早その姿は老人ではなく、中年の女性へと。
「頑張ってね、御先祖様。
ガモンハイドは強いだろうけど、御先祖様の力なら必ず倒せるから」
羽が飛び散って体は縮む。体が縮むと、若返る。若返ると、体が削れる。
「負けないでね、御先祖様。
みんなの期待に押しつぶされそうになっても、負けたらダメよ」
グロテスクと神聖さが融合も分離もせずに並列する光景と、そんな自分の怪現象など意に介さぬヒカリさんの激励に、
「大丈夫!大丈夫だよ!みんなは――――みんなは僕が守るから!」
妙齢の女性へと若返ったヒカリさんを抱き締める。強く、強く、決意が伝わるように、叫びながら。
「ふふ、誰かの温もりを感じるなんて、何十年ぶりかしら」
耳元で、鈴のようにコロコロと転がる声音。抱き締めた感触は、ひどく柔らか――――人間とは思えないほど――――柔らか。
「それから、エリーシャちゃんも」
「――――はい」
慌てふためく僕とは違って、落ち着き払ったエリーシャの声。
「今まで友達になってくれてありがとう。貴女のお蔭で寂しさが紛れたわ。
貴女も……引け目や負い目なんて感じる事などないのだから……幸せに、なってね」
エリーシャからの答えは無い。それでも、耳にかかる吐息は楽しげに。
「生まれる前から好きだった人と、ちゃーんと幸せにならないとダメよ」
「お、お婆様!?」
「お願いね、おにーちゃん」
「――――あか、り!?」
最後は舌っ足らずな幼い声で、妹を思わせる、妹にそっくりな声で――――
ヒカリさんは、消失した。
腕の中の感触が消える。存在が失われる。
全てが消えて残ったのは…ただ壱枚の羽。
(ああ、これで私の『御役目』も終わる)
痛いほど悲しい声が、耳に寄らず鼓膜によらず、直接脳に語りかける。
(みんな………幸せにね………)