プロローグ
――――青。
空は、一面の、青。
透明を幾重にも幾重にも織り込んで、初めて生まれる繊細なその色の名前は――――青
風を受けて大きく畝る草原の緑に身を横たえて、僕は空を………空の青を見ていた。
一点の曇りも無く晴れ渡る空に、この星で最も有り触れていて、そして最も優しい色が広がっている。
澄み切った青の、なんと美しいことだろう。
僕はこの星にある無限の色彩の中で空の青が最も好きだ。
青は、この星を包む大気の色。
無慈悲なる暗黒宇宙から、この星の生命を護る無数の優しさが連なってできた色………それが、『青』。
だから、僕は、空の青が大好きだ。
視界の全てを青一色に染め抜いて、僕は目を閉じる。その後、意識に一瞬前まで見ていた鮮やかな青を思い浮かべ、瞳に焼き付けた。
忘れないように。
この繊細な色を、決して忘れないように。
羽ばたく鳥を縛るものは何も無く、吹く風を遮るものなどどこにも無い。
静かな………静かな時間だった。
世界の終焉に相応しい、静かで、穏やかな時間だった。
どれほどの時が経ったのか、無人だった草原に俄かに人の気配。
「いつまでのんびり寝てるの……コウキ君」
自分を呼ぶ女性の声に、僕は目を開いた。
一人の女性が、寝転んでいる僕の傍に立って、僕の顔を覗き込んでいた。
世界に、新たな色が加わる。
先ず、黄金。
それは陽の光を受けて豪奢に輝く、癖の無いまっすぐな彼女の髪の色。
次に、純白。
それは絹よりも滑らかで、肌理の細かい彼女の肌の色。
そして、青。
僕の好きな空の青と同じく優しい青は彼女の瞳の色。
黄金・純白・青………それが、彼女を構成する三大色素。鮮烈なその色素が、僕の視界に焼き付けられる。
「ディド?」
見知った人の、見慣れぬ思いつめた表情に、戸惑う。
「………捜したわ」
強張った顔、硬く緊張した声。純白の顔に、血の気は薄い。
「隣………いい?」
溢れ出しそうな感情を必死で押し殺そうとして、されども青い瞳の端に浮かぶ水色が彼女の心を表していた。
僕が無言で頷くと、ディドは僕の隣へ膝を抱くようにして座る。
彼女の体温を感じるには遠く、されども彼女の甘い香りが届く位には、近い。そんな、微妙な距離。
それっきり、彼女は無言。
風が吹く度に彼女の黄金が翻るが、ディドはそれを押さえようともせず、風に吹かれるがままにしていた。彫像になってしまったかのように微動だにせず、ただ、ただじっと空を見ている。
訪れた、沈黙。
ディドは、口を開く事無く空の青色を見つめている。僕の真似をするように。しばし、二人で空を見上げる。
じっと、空を見ているディド……を、僕はじっと見ている。
視界に入り込むディドの横顔は、見る者が思わず平伏してしまいそうな、女王としての気品と風格すら滲ませる絶佳の美貌。美の女神すら嫉妬しそうなほどに、人間が想像しうる理想的な美の具現の一つ、女性のあらゆる美貌を兼ね備えた完璧な存在。
その外見と性格と能力から『神仙女王』とディドが評されるのも不思議ではない。
「空………綺麗ね」
十分以上の沈黙を破ったのは、ディドの方からだった。言葉の爽やかさとは裏腹に、口調は重い。
「世界がこんなことになって、改めて空を見上げてみると………コウキ君がいつも空が好きだって言ってた事が、今………やっと分かった気がするわ」
風に吹かれるがままにしていた金髪を手で押さえ、ディドは僕の方を振り向く。
「今更分かっても…遅すぎ、なんだけどね」
溜息とともに浮かべるのは、泣き出しそうな笑顔。取り返しの付かないほどの大きな後悔と、ほんの少しの喜びが綯い交ぜになったその表情。
…………遅すぎ。
ディドの言葉が僕の胸で反復する。そう、全ては遅すぎた。何もかも、全てが、遅すぎたんだ。
失う事になって初めて、人はその重要性に気づく。そして、取り戻そうとしても、最早どうにもならない。それが日常に近ければ近いほど、人はそれに注意を向けることは少ないのだから。
僕から顔を背けて、涙を拭うディド。
「一つだけ、約束してくれる………?」
泣き笑いの表情のままで、そっと顔を近づけてくるディド。彼女の甘い香りばかりでなく彼女の体温が伝わる距離に。
「な、なに?約束って」
答える僕の声は思わず裏返っている。
嘗て無かったほどに接近したディドの顔。吸い込まれそうな空のように青い瞳、天に座す月のように白い肌、太陽よりも輝く黄金の髪が、あと、ほんの、すこし、顔を動かすだけで触れ合いそうなほどに、近い。
「……この空の青の下で」
ぽつりと………呟く言葉。甘い吐息が顔に掛かる。
「また、いつか、必ず………再会しましょう」
僕を見下ろすディドの顔は、優しい微笑みを浮かべていた。
悲しいくらい、優しい微笑み。今まで、どんな時にも浮かべた事のないタイプの笑顔。瞳には涙の跡。
叶えられる事のない――――約束。
今日本日只今この時世界は終焉る、空は塗り潰される、希望は潰える、僕は消える、もう二度と人類は地球に帰れない…こんな約束、叶うはずが、無い。
ディドは、本来不毛なものを極端に嫌う現実主義者だ。叶えられない約束は絶対にしない……そんな彼女からの、果たされる筈のない約束。
その約束がどんなに虚しいものだと解っていても…
「そうだね………うん」
僕は頷くしかない。
「約束しよう、またいつか…いつの日か……こんな青空の下で必ず再会するって」
言葉にするのは容易く、そして実行は激しく困難な……約束。だが、それを敢えて口にすることで絶望しかない未来に、ささやかな希望の種を蒔いた気がした。
「ええ、約束よ」
にっこり笑ったディドが、颯爽と立ち上がる。
「約束したんだから、絶対に叶えるように努力しましょう……私も、あなたも」
身長百七十センチの高さから僕を見下ろすディドの顔には、いつもどおりの溢れんばかりの自信と、若干の照れが入り混じっていた。どちらからともなく、僕らの顔に笑みが零れる。
最後に、ディドの笑顔が見れてよかった。心の底からそう思う。
しかし、僕らの笑顔は瞬時に凍りついた。
ゴーーーーーーーーオォォォォォォンン
ゴーーーーーーーーオォォォォォォンン
世界の終了の鐘が鳴る。
ゴーーーーーーーーオォォォォォォンン
ゴーーーーーーーーオォォォォォォンン
地の底から、空の上から、海の中から、木の虚から、大地の割れ目から、世界のありとあらゆる所から鳴り響く鐘の音に、僕はゆっくりと身体を起こす。
「もう時間?……いやね、別れを惜しむ間もないじゃない」
眉間に皺を寄せて、不快気に顔を顰めるディド。
鐘の音が一つ鳴り響く度に、闇よりもなお暗い黒雲、まるで地獄の底から涌き立つような不吉な影が世界から光を奪っていく。
「………『あまねく光は遮られる(ルーキフーゲ)』」
空の青を音も無く飲み込んでいく黒雲を睨み、吐き捨てるディド。
終焉の時は来たれり。別離の時は来たれり。あの暗黒は、その、合図。
踵を返すディド。黄金の髪がたなびき、聖法衣をひるがえす。
「さよならなんて言わないわ。コウキ君………また、いつか逢いましょう」
「うん。またいつか……」
言葉が終わらぬうちに、呆気なくディドの姿は消える。僕は再び、たった一人の孤独に戻る。
全ての色彩は喪失し黒く塗り潰される。
青が消えていく。
無慈悲なる暗黒宇宙の色が、青を飲み込んでいく。
無数の優しさが連なってできる、この星の色が消えていく。
広がる闇、これは光の影としての闇でなく、光を飲み込み掻き消す暗黒………完璧な、闇。
(………もはや(ネヴァー)………ない(モア))
聞こえてくる死霊の掠れ声。
背筋に悪寒、身体の末端が凍りつく。
(………もはや(ネヴァー)………ない(モア))
闇の奥底から這い寄り、耳元で囁く死霊。
体温が全て奪われる、寒くて、恐ろしくて堪らない。
(人類の生きる道は………)
本能的に嫌悪を抱かせる、皺枯れた慟哭。
何も見えない、間近に居るはずのディドの姿すら見えない、世界の全てから切り離されたような絶対の孤独と恐怖感、視力全てを剥奪されたかのような闇の中…………
………生首が、闇に浮かび上がる。
蒼白の顔は、長い前髪に目元まで隠れていて表情は分からない。だが、血色薄く紫の病み色をした口唇が
(………もはやない(ネヴァーモア))
ニタリ、と笑みを作っていた。
幻覚と解りながらも、闇に浮かぶ生首と正対する。
「決して(ネヴァー)」
星の死、全ての死、全滅、絶望……頭を振って脳裏に浮かぶ単語を意識外に放り出す。
「絶対に(エヴァー)」
――――さあ、僕は義務を果たそう。
右手に刀を、左手に剣を持って残り少なくなった空の青を見上げた。
「諦めやしない(サレンダー)」
――――次の世界の為に。
刀にはまだ光がある。
剣にはまだ光がある。
「いつかまた、この青の空の下で」
全てが闇に閉ざされた星の中で、僕はまだ空の青を見ている。
全てが絶望に閉ざされた星の中で、僕はまだ希望を持っている。