前編
雪の日だった。銀色の髪の少年が何もかもを奪われた日は。
家を失い、家族を失い、故郷を失った。
少年の住む家は、“狼”――人狼が住むとして知られている村にあった。かくいう少年もまた狼であった。国の法律では、そう言う村からは年に何人かの“狼”を差し出さなければいかなかった。差し出された狼達は、手懐けられ、忠実な狗になり、兵士となった。
だが、それを拒む村も多かった。狼は労働の柱であったからだ。土地柄、雪が多く食糧不足を解消するためには多くの労働力が必要であったからだ。
そして、そういう村は消されていった。法を犯したから、国にとって脅威となりうるからと。少年の住んでいた村もそういう村の一つであった。
群れからはぐれた狼のようになった少年は、雪の中を頼りない足取りで歩いていた。行く当てもなく、よたよたと。生き延びるために歩くのか、死に急ぐために歩くのか、そんなこと少年にはもう分からなくなっていた。
どれぐらい歩いたか。とうとう力尽きて、その場に倒れこんだ。雪がクッションのようになって、倒れても痛くはなかったが、心が痛かった。無力な自分が嫌になって、少年は泣いた。
「どうした?」
不意に、頭上から男の声が聞こえた。芯のある、よく通る声だ。
「……村が、父ちゃんと母ちゃんが……ッ」
「何ッ。近くの村がまた消されたのか!?」
男のその質問に、ただ首を縦に振って答える。そうすることで、自分が故郷を失ったのだと実感され、ますます涙が溢れた。
「おいッ! みんな、来てくれッ!」
男が仲間を呼んだ。
「ボウズ、立てるか?」
「…………」
「無理そうか……よし、俺の背中を貸そう」
男が少年を負ぶった。すっかり冷え切った少年には、男の背中の温もりがとても暖かかった。
「ボウズ、名前は?」
「………リュカ」
「そうか、じゃあリュカ、いまからお前を俺達のアジトに連れて行く。今後のことは、そこで話そう。だから、今は眠っておけ」
少年――リュカはその声に安心したのか、次第に眠りについた。
それは、リュカと『ワイルドウルフ』との出会いであった。今から、十年前にのことである。
今朝から『ワイルドウルフ』はバタバタした様子であった。次の一週間後に作戦の準備があるからだ。
リュカもまた、次に備えていた。十年前から鍛錬を重ね、三度の作戦を経験した彼は丹念に自身の装備であるライフルをチェックしている。アサルトライフルをそのまま大きくしたような銃――ウルフラムは、かつてはリュカの手には余る代物であったが、今ではすっかり馴染んでいた。
横には大口径の弾丸の入った弾倉が積まれていた。銃が大きくなっている分、弾を大きくなっているのだ。対物ライフルの弾ほどの口径がある。
「こんなものか……」
ウルフラムを置き、リュカは一息ついた。
「リュカ、ちょっといい?」
そんなリュカに少女が話しかけた。リュカと同年代ほどの、美しいブロンドの髪の少女だ。
「モニカか……どうかしたか?」
「ディンゴが呼んでるの。リュカと話しがしたいって」
「ディンゴが? なんだろうな……」
「分からない、でも大事な話みたいだよ」
「そうか、分かった。ありがとう」
「ディンゴ、何か用?」
リュカの目の前には、右目に眼帯をした男がいた。先ほどのまで整備をしていたようで彼のすぐそばにはウルフラムが置かれている。この男こそがディンゴであり、今の『ワイルドウルフ』のリーダーだ。
「ああ、ちょっとな」
ディンゴは遠い目をした。これまでのことを思い出しているような様子だ。
「お前がうちに来てから、もう十年か……」
「ディンゴに拾われていなければ、俺はあのまま野垂れ死んでいただろうな」
「あの時は悪かったな……俺達の到着がもう少し早ければお前の家族も死なずに済んだんだがな」
『ワイルドウルフ』の活動は主に二つだ。一つが人狼の強制的な連行を阻止すること、そしてもう一つが消されようとしている村を救うことだ。
ディンゴがリュカと会ったのも、リュカの村を救うために駆けつけたからだ。残念ながら、彼らの救いの手は間に合わなかったが。
「もしの話をしたってしょうがないだろ、ディンゴは俺と思い出話でもしたいのか?」
「いやそうじゃない、次の作戦についてだ。お前には、次では副リーダーを務めてもらう」
「俺に? まだ実戦経験は三回しか積んでないぞ?」
「それだけあれば十分だ。お前の実力を考慮してな」
「それにしても、なんでこんなギリギリになって……」
「俺にも思う所があるんだ」
そう言って、ディンゴは右目の眼帯をそっと押さえた。
五年前、とある村の救出作戦があった。かなり大きな村で、かなり厳しい戦いを作戦に参加した者達は強いられた。ディンゴもそのうちの一人であった。
苦戦の末、結局その作戦は失敗した。
作戦参加者達のほとんどは生きて帰らなかった。運良くディンゴは生き残れたが、多くものを失った。友を、右目を、そして当時のリーダーであった兄を。
ディンゴがまだ副リーダーであった頃の話だ。
今回の作戦もまたそのときと状況が似ていた。そんな状況で、かつての自分が務めていた副リーダーを誰かに任せようとするディンゴの心の内では、複雑な思いが絡み合っているのだろう。
だが、指揮系統の統制やいざという時――例えばリーダーが死んだときなどを考えると、副リーダーは選出しなければならなかった。
「…………五年だ、五年なんだ」
ディンゴのその言葉が、リュカの耳に重く響いた。
「ディンゴから話って何だったの?」
戻ってきたリュカに、モニカが聞いた。
「ああ、俺が次の作戦で副リーダーを任されたんだ」
「へぇ、すごいねっ!」
モニカは、花のように明るい笑顔になった。まるで、自分のことのように喜んでいる。
リュカはその笑顔に幾度と無く、救われてきた。何もかもを失ったリュカに、再び光を与えてくれた。何としてでもその笑顔を守りたいと、常々思っている。
「まあな……それにしても、いつも忙しそうで久しぶりに話したけど、ディンゴは変わったよ。何ていうか、暗くなった」
「きっと疲れてるんだよ。リーダーとして、皆のために毎日頑張ってるんだもん」
「そうかな。十年前は、もっと――疲れていても明るく振舞っていた気がするけど、やっぱ五年前の失敗を……」
「うん……仲間とお兄さんを亡くしたんだもん。すごく、ショックだったと思う……」
そう言って、モニカはリュカの顔を覗った。その表情には心配の色が見て取れる。
「……次の任務は、成功させるよ」
「うん、絶対成功させてねッ」
リュカが副リーダーを任されて、一週間後。
作戦開始、一時間前。村に繋がる洞窟の中でリュカは指揮系統の最終チェックに追われていた。村の住民は既に避難を終えており、後はのこのことやって来た敵を殲滅するだけだ。
今回の作戦では三人一組のチームを六組、そして狙撃班を三班作り、実行する。作戦の成功に不可欠なのは、このチーム間の連携であることは言うまでも無い。
「偵察班より連絡ッ! ハウンドドッグたちは予定通り、ポイントを通過したとのことですッ!」
国に仕えている狼の多くは、無理矢理引き連れ来られた者達だ。厳しい躾の結果、国に忠実な犬となった。だが、少数であるが自ら志願して、犬となった人狼もいる。
人狼は強大な力を持っている。その力を使うことは、それぞれの村でも厳しく制限されている。その力を自由に振るうには、国に仕え、村を襲う側に回るのが手っ取り早い。村を捨て、狼としての矜持を捨て、ただただ自らの力を使うために彼らは犬となったのだ。
『ハウンドドッグ』というのは、そんな人狼を指す蔑称だ。猟犬に成り下がり、好き勝手に振舞うことを選んだ彼らを『ワイルドウルフ』の面々は忌み嫌っているのだ。
作戦の参加メンバー全員が、ハウンドドッグについての報告に耳を傾けていた。リュカも、そして勿論ディンゴも。
「よしッ。各員配置に就けッ」
ディンゴが、メンバーに命令した。了解、と狼達の野太い声が大きく鳴り響いた。
三人一組のうち、一人が隊長として残りの二人に指示を出す。これは、副リーダーであるリュカも変わりはない。
二人――ボリスとロベルトを引き連れて、配置に就いたリュカは息を殺して、作戦の開始を待っていた。ウルフラムを握り、いつ開始されても良いように。
『ハウンドドッグ、接近ッ!』
リュカの無線に、通信が入った。他の二人にも、その通信が入ったようだ。頷き合い、手で合図を送ってその場から、敵の様子を観察する。
味方の狙撃。それが戦闘開始の合図だ。
人狼は狼化することで、強大な力を発揮することができる。個人差はあるが、狼化していられる時間は約三十分、例えばリュカは三十二分ほど狼化していられる。つまり、人狼同士の戦闘では、後出しで狼化したほうが有利というわけだ。
そして、それはハウンドドッグの方も分かっている。狙撃班が、狼化のきっかけを狙撃によって作り出すのだ。
見たところ、予想通り彼我の戦力の差は無さそうであった。僅かに『ワイルドウルフ』側の方が多いといった感じだ。
リュカ達の無線に通信が入った。
『狙撃開始まで、カウントダウン』
リュカはウルフラムを握る手に力を入れた。
『3、2、1――』
三人はアイコンタクトを送り合い、身構えた。
『ファイアッ!』
その言葉とともに、六発の銃声が一斉に轟いた。狼化前に、大口径の弾丸をまともに喰らった猟犬がバタバタと倒れた。
それを皮切りに、狙撃を免れた猟犬たちが狼化し始めた。犬歯が鋭い牙となり、顔つきも凶暴になった。狼化によって変わるのは外観だけではない。嗅覚を始めとする五感全てが飛躍的に敏感になるうえ、肉体も銃弾の一発や二発では倒れないほど強靭なものとなる。
猟犬たちは、鋭くなった五感で狼たちを捉えた。
リュカ達も、猟犬のうちの一人に存在が知られた。だが、彼らは十数秒のアドバンテージを得ていた。
応戦するために、狼達は一斉に狼化を始めた。同様に狼化したリュカは、ずっしりと重かったウルフラムが軽くなったように感じた。
猟犬は銃口をリュカ達に向け、引き金を引いた。大口径の弾丸が牙を剥く。いくつもの弾丸がリュカに襲い掛かる。
リュカは強化された脚力でとにかく地面を蹴った。それを追うようにして、銃弾の雨が降り注ぐ。地面は乾いた音を立てながら抉られ、砂埃が舞った。
人狼同士の戦いは、常人のそれとはまるで違う。彼らは狼化によって反応速度が向上しているため、正面からの攻撃はまず当たらない。それゆえに、人狼の戦いはすなわち背後の取り合いとなる。まるで戦闘機同士の戦いであるそれは、まさにドッグファイトというわけだ。
背後の取り合いは、とにかく脚をいかに使うかで勝負が決まる。そのため、ワイルドウルフではまず、走り込みをやらされるのだ。
銃弾をかわし切ったリュカは目と手で、他の二人に合図を送った。彼らはその脚力をもって、猟犬を取り囲んだ。
その間も猟犬はなんとか三人を振り切ろうと駆け回ったが、それでも引き離せなかった。まるで三人は、獲物に噛み付いて相手が死ぬまで離そうとしない狼のようであったし、実際その通りであった。
完全に猟犬を追い詰めたリュカ達は一斉にウルフラムの引き金を引いた。重く、凶悪な反動を狼の力で抑えつけ、弾を一気に吐き出した。
いくつもの大口径の弾丸を、全身にもろに喰らった猟犬は血まみれになりながら地面に倒れこんだ。いくら狼化している人狼といえどここまで喰らったらひとたまりもない。猟犬はもはや、完全に息をしていなかった。
「まずは一人目」
それを見て、リュカは冷酷に呟いた。