テディベア・チェイン
「キャバクラって面白いのかな?」
山岸宏介がテレビに視線を投げたまま、唐突に話題を振った。山岸のノートを必死に写していた和田と八代の手が止まる。和田の部屋のテレビは何年も前の型だが、画質は充分に保たれている。画面にはキャバクラで働き始めた二〇歳前後の女性に密着したドキュメンタリー番組が放送されていた。
「何言ってんの、お前」
和田は再び作業に戻った。手は動かしているが、視線は山岸に向いていない。
「そのへんの中年オヤジとかは、よく行くじゃん?」
「向こうは仕事だから、本気にするわけないだろ」
八代が紙パックのミルクティーを飲みながら反論する。
「……なんつうか、興味ないわけじゃないんだよね……」
「……マジ?」
「いつからそんなチャラくなったんだよ……」
和田と八代は勉強する気が失せてしまったのかシャーペンから手を離してしまっている。二人の鋭い視線が山岸にチクチクと刺さる。
「ちょ、じょ、冗談だって」
二人の視線に気付いた山岸は慌ててテレビを消し、自分のノートを広げた。気まずい空気に怯えているのか試験範囲外の英文にアンダーラインを引いている。
和田は高校で山岸と知り合っている。付き合いも短く、知らないことは多かった。山岸が女子生徒の間で引く手数多の人気者であることを内心妬んでいた時期もあったが、嫉妬の念はいつの間にか風化して消えてしまった。和田が思っていた以上に山岸は男子生徒に対しても変わりなく接していることを自分の身で体感したからだ。いつの間にか山岸に対して好感すら抱き始めていた。
しかし、夏休みを目前に控えた今になって和田の中に小さな猜疑心が芽生えようとしていた。
「山岸って実はかなりなタラシだったりする?」
「やめてくれよ、そういうの」
山岸は和田と目を合わせることもしないまま英語の長文を訳している。英語が得意ではないが嫌いでもなかった。暗号解読、なぞなぞに近い感覚を楽しんでいる。
山岸が英語のノートを片付け始めたときだった。家の呼び鈴が部屋に響き、和田が立ち上がり部屋から出て行った。山岸と八代は手を動かしながら頭の隅で、誰がやってきたか、あるいは和田の母親なんかが帰ってきたのかを気にかけてしまっていた。二人の集中力の何と短命だったことか。階段を登る足音が重複して二人の耳に届く――。
「お邪魔します」
和田の後から黒い髪に赤い縁のメガネをかけた女子が軽い会釈をしながら部屋に入ってきた。
「あれ、末沢?」
末沢莉子は山岸のクラスメイトであり、文芸部に所属する女子生徒である。口数は少ないが友達は多い。豊かな表情と女性的で澄んだ声を持っているが、男子生徒を勘違いさせるには充分すぎる武器であることを、末沢自身は無自覚である。「難攻不落」と陰で評されていることなど知る由もない。
「山岸君たちが勉強会するって聞いて混ぜてもらおうと思って……」
「一言言えばいいのに」
山岸と末沢の間には終始含羞の色が漂っていた。二人の目は互いを見据え、照れるという感情を超えた仲睦まじさらしきものが垣間見える。和田と八代は黙ったまま二人を見ている。耐え切れなくなった八代が小声で呟く。
「あぁあ、彼女持ちのところに女の子って集まるのかねえ」
その後、勉強会は太陽が沈んだ後になっても終わる気配を見せなかった。吹っ切れた和田と八代が意地でも山岸と末沢を同じバスに乗せることを阻止しようとしたからである。八代の家は和田の家から近くにあり、徒歩で一分も要しない距離にある。山岸と末沢が並んで歩く姿を見たくなかった和田と八代は意地でも四人で朝を迎えようと躍起になった。二人の情けない意地が末沢の予期しない事態であったことは言うまでもない。
「なあ、考え直してくれよ」
理科室には二人の男女。壁に掛かった時計の針が時を刻み、その音が部屋中に響いていた。
「喋らないで」
橘和泉は低く言い放つと、キッと山岸を睨んだ。前髪から覗く目は鋭く、怒りの色が滲んでいる。
「もう口も聞きたくないの」
「頼むよ、せめて話だけでも聞いてくれって」
山岸は橘の機嫌を伺いながら語尾をできるだけ柔らかくこころがけて喋った。橘は黒板に体重を預けたまま腕を組んでいる。どことなくいかがわしい雰囲気が辺りを包んでいる。明かりの消えている理科室は外の光によって照らされ、薄暗い。
「……失望したわ」
橘は目を閉じ、ついには山岸の弁明を耳にも入れようとしない様子で固まってしまった。
「一緒に寝てなんかないって」
「……」
「ただ、俺はこたつの中にいて……だいたい俺たちは徹夜したんだって!」
一二月に入り、外の寒さは冬本番を迎えていた。クリスマスを一週間後に控えたこの時期になると、いたるところは電飾でライトアップされ、夜を飾る。橘はこの季節が嫌いであった。他人の幸せほど不快なものはなかったからだ。山岸というボーイフレンドができてもその感情が薄まることはなかった。
「じゃあ、どうして電話に出なかったの?」
「……単に、気が付かなかったんだ」
「五回もかけたのよ? ありえないでしょ?」
「仕方ないだろ」
「仕方ない? ホント嘘が上手いわね昔から」
橘はため息混じりに言った。
「……」
「莉子にもかけたわ、でも出ない。夜更かしできない莉子がその日に限って徹夜できたなんてありえない。」
数分前に比べて橘は早口になっている。橘が怒鳴り終えると静寂が部屋中を支配した。微かに廊下から生徒の声が聞こえる。二人は声が遠ざかるのを待った。徐々に声が小さくなることを確認すると橘が軽く息を吸って言った。
「無視したんでしょ……二人で」
「違う!」間髪入れずに山岸が返す。
「嘘よ!」
山岸の弁解をかき消すように言葉を被せる。その声は荒く攻撃的で女性らしさがほとんどなかった。
橘が時計に目をやる。鐘が鳴る数分前だった。
「……次、移動だから」
橘は山岸に引き止められることを考慮して足早に理科室から出て行った。山岸は立ち尽くし力なく床を眺めている。焦点が合わず、足元が歪んで見えた。
澄んだ鐘の音が響く。
山岸を一喝するように鳴る鐘の音は鼓膜を震わせ、彼の目を潤ませるのだった。
「まあ、当の末沢が休んじまっちゃ、疑われても無理ないわな」
昼休みの教室に山岸の姿があった。彼の周りを男子生徒が二人囲んでいる。八代は空いた末沢莉子の席を眺めながら「運悪りいな」と笑った。和田は顔をニヤつかせながら山岸と末沢の席を交互に見つめる。山岸は黙って机に突っ伏している。視線を山岸に戻して、八代が再び口を開いた。
「白状しちまえよ」
「誤解なんだ! 全部!」バッと顔を上げて反論する。
「口だけじゃ厳しいって、そんなの」
「……」
山岸はまた蹲り、不貞寝でもするかのように何度も大きく深呼吸を繰り返した。
「大変だねえ、彼女持ちは」八代と和田は皮肉混じりに笑った。
「てか、なんでバレたの?」和田は適当な椅子を見つけて座ると机に肘をついた。顎を手のひらに乗せて八代の返事を待った。
「よりにもよって、友達ん家に行ってた、って濁しちまったんだとよ」
「ああ、それはやっちゃったな、納得」
二人が山岸の反応を伺おうとした途端に山岸が口を開いた。
「違うんだって、後から莉子が遅れて来ただろ。俺、来るなんて聞いてなくて」
「莉子、ねえ」
「罪ですなあ」
まだ休みが終わるまで時間がある。できることなら橘との時間に繰り越したいと思った。午前中まで晴れていた空一面に薄い雲が張り付いている。強い風が何度か教室のカーテンを揺らし、轟々と窓を叩く音がする。
日は傾き、雲は時間が経つごとに気味悪く汚れていった。橘はビニール傘を片手に末沢莉子の自宅に足を運んだ。玄関には母親が出た。初対面であったため「忘れ物を届けに」と適当な嘘を吐いた。
末沢の部屋に向かう途中、階段を上がりながら橘は山岸の顔を思い浮かべた。まだ幼い、生まれて間もないライオンのような印象はまだ完全に拭えていない。山岸と付き合い始めたときから変わらない。そんな山岸を愛らしく思っていたとこは事実だ。しかし、もう「可愛らしい」と思うことはなくなった。成長してしまったライオンは大きな牙を自分に向けているのだ。
二階に上がったすぐ近くの扉。ローマ字で『RIKO』と書かれた木製のプレートを目で確認すると橘はドアノブをひねり、ゆっくりと扉を引いた。末沢はベッドに座り、壁に寄りかかりながら文庫本を読んでいた。橘の姿を認めると開口一番に「ごめんね」と言った。
「なんか、学校行けなかった」
「大丈夫よ、全然」
末沢は明るい黄色の寝巻きを着ていた。読んでいた文庫本を閉じて、手元に置く。橘は末沢の伸びた足付近に腰を下ろすと、カバンを膝に乗せてしばらく部屋を見回した。淡いピンク色に染まった壁に似合わない雨雲が目立っていた。
「部活はいいの?」
「休むように言ったわ」
「怒られるんじゃないの?」
末沢は問いただすような口調で言った。眉の間に薄いシワを寄せ、橘の返事を待った。
「大丈夫よ、副部長なんかいなくても」
「……そう」
会話が一時、途切れる。ついに雨が降り始めた。雨が地面を打つ音が部屋中に響き余計に沈黙を長く感じさせた。末沢がまた文庫本を手に取ろうとしたとき、橘が口を開いた。
「……ごめんね、莉子」
手が止まる。橘は俯いて顔を隠すように膝を曲げ、両手で抑えた。
「……なんで付き合ったりしちゃったの?」
橘はしばらく膝を抱えたまま動かなくなった。末沢は返事を待っている。橘が足を伸ばし、大きく伸びをした。大きくため息をひとつし、末沢に背を向けたまま続けた。
「気の迷いって言えばいいの? あたしもバカだったわ」
「仲、よかったんでしょ?」
「そうでもないわよ、あっちだってどうせ体目当てだったんだわ、男なんてみんな野獣なのよ」
橘は雨音にかき消されることがないほど張った声で言った。末沢から見える橘の背中は小さく、肩が小刻みに揺れていることに気付いたが、下手なことは言いたくないと思うにとどまり、橘の反応を待つことにした。
末沢には男性経験がなかった。彼氏彼女の事情に興味がなかった、といえば嘘になるが、自分が意中の男性に対して尽くせる自信がなかった。中途半端に恋愛をしたくない、末沢の恋愛に対する価値観は確かなものであったが、凝り固まった恋心は末沢を奥手な性格にしてしまっているようだ。
「そうよ……男なんて、男はみんな……」
橘は右手に力を入れ、自分の太ももを握るように強く揉んだ。手を離すと手のひらの形に赤くなった。胸の前で両手を噛み合わせ、橘は目を閉じて深呼吸を始めた。
「どうしたの――」
橘が振り向いた瞬間、末沢の体は橘の両手に押され勢いよくベッドに沈んだ。末沢の全身に覆い被さるように、橘は末沢の顔の横に両手を突き立て末沢の顔を覗き込んだ。
呆気に取られた末沢の顔を見た橘は咄嗟に上半身を起こした。無意識のうちに唇の前に手をあてていた。末沢に跨ったまま、橘は末沢の顔から目を背けることはしなかった。
末沢の目は潤みを増し今にもこぼれ落ちそうだった。末沢を泣かせるなど橘の望むところではない。怯えさせてしまったことが、橘にとって予想していなかった反応であり、正直な自分を否定された事実をまだ飲み込めていない。
愛している女性を傷つけた実感を必死に誤魔化そうしている。
「……ごめん、なさい」
「和泉……」
「……最近気付いたの、あたし――」
言葉が出てこない。言いたいことは決まっている。しかし、橘はストレートに「女性を性的な対象にしている」と言う勇気がなかった。橘の目にも涙が溜まっていく。空回り、挙句の果てに末沢の心に傷を負わせてしまったかもしれない。それでも橘は顔には出さず無表情を貫こうよしている。末沢の顔を凝視している。
強がりが功を奏したのか、橘の涙は乾き、頬から落ちることはなかった。まだ雨が降っている。橘が部屋に入ってきたときより黒く濁った雲が窓から見える空一面を覆っている。
「ねえ」
末沢は橘の顔を見ないように務め、窓の外を見ながら言った。
「宏介君、私が貰ってもいい?」
●
「おまたせ」
「ああ」
週末、末沢は山岸をショッピングに誘った。電車を何本か乗り継がなければならなかった。高校にバスで通っている末沢には新鮮な時間だった。
「待った?」
「いや、ちょうど」
山岸の声は低い。まだ顔も晴れていなかった。そんな予感はしていた。山岸がまだ落ち込んでいることも末沢の計算の内。老若男女関係なく気は晴れないときは誰かを頼りたくなるものだ。駅の出入口で末沢は思った、何百人といる人混みの中で山岸君の心を支えられるのは私だけ、と。
「行こっか」
末沢が歩き出す。山岸は後ろについていく。休日であるだけに道は買い物客で溢れている。車が走る隙間もない。道を挟んで何軒も店が伸びている。商店街を彷彿とさせ、山岸や末沢が通う高校周辺では馴染みのない光景だった。
「いつも、こういうトコで買ってんの?」
「ううん、年に一回来るか来ないかぐらい、お財布が温まったときにしか来る気にならなくて……」
「そっか」
末沢の目当ては特になく、いつもその日の気分で服を買っている。決まった店やブランドがあるわけではない。今日に限って言えば服を買うことが目的ではない。山岸と同じ時間を一緒に過ごす、なんとも純情溢れる目的があったのだ。
そのため店に入って物色をするでもなく、洒落た喫茶店を探すでもなく、ただのんびりと二人で道を歩いていた。末沢はよく古本屋の前で足を止めた。店先の棚に詰められた古本を何冊か手に取り数ページ読んだ。山岸には汚い紙の束にしか映らない。対照的に末沢の目は鋭く光っていた。
「あれ、ゲームセンターできてる……」
周辺の古本屋を探している最中、末沢は巨大なゲームセンターの前で立ち止まった。隣りの呉服店と比較すると横幅は二倍以上ある。総面積で言えば地域最大規模と謳っていても不思議ではない。新装開店などの幟が見当たらない、開店して間もないわけではないようだ。
「入ろう?」
「お、おう」
ゲームセンターを目当てにする人はやはり少ないのか人口密度は外に比べて低い。一階はUFOキャッチャーやプリクラが設置されている。山岸は女子とゲームセンターに入るのは初めてだった。男くさい雰囲気は女性には合わないものだと思っていたが、末沢はせっせと中身を物色している。余計に女性の生態が理解できなくなりそうだった。
UFOキャッチャーと一口に言ってもバリエーションは豊富で趣向を凝らした台が何種類も並んでいる。単純に景品をアームに引っ掛けるものもあれば、くじをすくうもの、穴に細い筒を通すもの、と視覚的に見ても飽きない。山岸はその凝ったデザインに感心した。途中末沢と別行動になったが、絶えずUFOキャッチャーを見て回った。そして、入り口からちょうど対角線上になった場所に巨大な台を見つけた。その大きさは珍しかったが山岸の視線は外見ではなく、中身に注がれている。
「――っ」
その巨大な台の中に、橘和泉の姿があった。
言葉を失った。驚きと怖いもの見たさの板ばさみになった山岸の足は膝さえ曲がらないほど固まってしまっている。橘は胡坐で座りながら山岸を見たまま動かない。半分ほどしか開いていない目は曇り、顔は暗かった。
「あっ! すごい……」
他の台の陰から末沢が顔を出した。財布から一〇〇円玉を出して投入すると、台の横から橘を覗き込み、アームと橘との距離を測り始めた。ちょうど橘の二の腕上空でアームが停止し、ゆっくりと降下する。
「これ取れるかな、絶対持ち上がらないよね」
山岸の足はもはや別の生き物のように勝手に末沢に近づいて行く。アームが橘の当たりバランスを崩した。山岸は橘の目の前まで来ると思わず目をつむった。音が聞こえる、黒い視界の中に騒音が飛び交っている。けたたましい音が頭の中で暴れ、頭を叩き割られるような感覚に耐え切れず思わず目を開いた。
そのときたしかに、橘の目は腫れ上がり、頬を涙が流れていた。反射的に山岸は末沢の手を強引に引いた。
「……もう出ようぜ」
「ちょっと、山岸君!?」
●
月曜日、山岸は橘を呼び出した。あまり生徒が利しない非常用の階段。二人が立っている踊り場は遠くから眺めることはできない。剥がし忘れている部活勧誘のポスターが二、三枚貼られたままになっている。
「どうしてあんなことをしたんだ」
「……何のこと?」
橘の声には少し抑揚があった。しかし、その開き直ったような態度は山岸を余計に突き放しているようにも聞こえる。末沢との一件を橘は水に流そうとしている。同時に山岸との関係もうやむやにするつもりだ。
「言いたくないならそう言ってくれ」
「……だから何が、主語がないのよ、さっきから」
山岸は息をまとめて吸った。
「なんでUFOキャッチャーの中にいたんだっ!」
山岸の発言を聞いた橘は、まるで不審者でも見るような視線を送った。大きなため息を吐いたかと思うと持ち前の鋭い目を山岸に向けて言った。
「…………本気で頭にきたわ、何回私を侮辱すれば気が済むの?」
「……本当に、わからないのか?」
「さっきからそう言ってるでしょ!」
「…………そうか」
沈黙。橘に口で負けることは山岸にとって珍しいことではない。付き合い始めた頃から橘が山岸を連れ回していたことのほうが多かった。橘のじゃじゃ馬な性格が山岸は嫌いではなかったし、むしろ橘らしさとして、愛でている面が内心にあったことも事実である。しかし、今回ばかりは「じゃじゃ馬」だからどうという問題ではない。橘の反論には一切の嘘偽り、矛盾もない。しかし、山岸は自分の勘違いだったと事態を飲み込むことができなかった。
「もういい? 莉子のところに用があるから……どいて」
「お前も見てないのか?」
「うん、見てない……あのときの景品って、くまのぬいぐるみのことでしょう?」
その日の放課後、文芸部が活動している進路相談室に山岸の姿があった。末沢以外の部員はもう部屋から抜けていて、後片付けをしていた末沢だけが居残っているタイミングを見計って山岸は何くわぬ顔で扉を開けた。部活中でなければ橘と鉢合わせになる可能性があったからだ。
「……見間違い、だったのか」
「何が?」
「俺、この前のUFOキャッチャーの中に和泉を見たんだ」
「……本気で言ってるの、それ? ふふ、可笑しい」
外は日が傾いてからしばらく経っている。夏が近いとはいえ暗い。自動車のヘッドライトが流れている。ほぼ無人の校内、山岸はまたあのゲームセンターの中に立っているような気がした。
「本当に見たんだって!」
山岸の張った声に驚いた末沢は不機嫌そうに頬を膨らませながら言う。
「……わかったよ、信じるよ……でもさ、もしそんな事態が本当に起こったらゲームセンターの係の人が何かしてるはずでしょ? 山岸君以外の周りの人だって、写メ撮ったり、誰かに連絡したりすると思う」
「………それは」
「山岸君が和泉を見たのはわかったよ、でも私はくまのぬいぐるみを見てたの。……もうそれでいいでしょ?」
「…………」
「忘れちゃおうよ、ただの見間違いなんだから」
「でも、気になることがあるんだ」
「まだあるの?」
「莉子、本当にくまのぬいぐるみに見えてたんだったら、どうしてUFOを頭の上に移動させなかったんだ?」
「え?」
「デカいぬいぐるみと取ろうと思ったら、まず頭にクレーンのアームを引っ掛けようとするのが普通だ。でも、お前は腕のところでクレーンを下ろした」
「……そんな常識、私にはないもん」
「横から覗いてたりしてただろ、腕を狙ってた証拠だ」
「…………」
末沢は下を向いたまま黙っている。時折、右足で軽く空を蹴った。
「お前も、見たんだろ?」
「…………」
「でも、お前は、嘘を吐いた」
「なんとなくね、山岸君も見えてるかもって思った。わかってたんだけど、だから何って思っちゃって……」
「和泉と、何かあったのか?」
末沢は長机の上に浅く座ると山岸となるべく目を合わさないように視線を泳がせながら語り始めた。
「……和泉は山岸君と別れかがってた。でも言い出せなかったから無理矢理浮気現場をでっち上げるために私に相談してきたの。和田君の家に行ったのはそのため、和泉が教えてくれたんだ。でも朝まで和田君の家に泊まることになったのは予想してなかったけどね」
「…………」
「私は、山岸君のこと、好きだった。でも和泉がいたから何もできなかった。別れたがってるのを知ったとき決めたの、こうやって告白するって」
「…………」
「それに私、和泉に告白されたの。女同士なんて考えたこともなかった。『男なんてみんな獣なんだ』って、正直怖かったな」
「……末沢」
「何?」
「声、しゃがれてる」
「嘘……」
「俺行くよ」
「……うん」
山岸は一度も振り返ることなく部屋から出て行った。廊下を早足で歩く山岸の足音が嫌というほど末沢の耳に押し寄せてくる。そして、徐々に遠くなっていく山岸のことを考えると急に視界が滲み出した。自身でも気が付かなかった。もしこの部屋に籠ることができたなら、何時間でも泣き続けられるような気がした。バスの中ですすり泣くことなど恥ずかしくてできない。行き場をなくした末沢の涙はその目蓋の中に収まらず滴り、床に小さな染みを作った。
つぶらな黒い瞳、暖かそうなベージュの毛皮、山岸の目の前には巨大なクマのぬいぐるみが足を伸ばして座っていた。既に日は完全に沈み、高校生は追い出される時間が迫っていた。山岸はポケットからまた一〇〇円玉を投入し、アームをクマを頭上に運ぶ。クマを手前の溝に落とすだけでいい、しかし、重いクマの体は一回では微かにしか動かない。
思い出す。山岸が橘と付き合うようになった日のことを。少なからず山岸にも下心があった。しかし、橘もそれを察していた。橘が受け入れてくれた、山岸の欲望を満たした。始めは山岸が上だった、主導権を握っていた、しかし、一度満足してしまった後に待っていたものは虚無感と拘束感だった。そのとき初めて、身勝手だったと後悔した。
最後の一〇〇円玉。もう一度だけクマの頭に照準を合わせる。橘の姿を思い浮かべながら祈る。アームがクマの頭を撫でるように滑ったとき、クマの体が音を立てながら手前に倒れた。
電車の中で山岸は考える。こんな大きなぬいぐるみを抱えて自転車を走らせることなどできない。両手で抱きかかえなければならないほど大きいのだから。もう仕方がない、考えるのは止そうか、まだ乗り換えまで時間がある。山岸はクマの背中に顔を埋めた。柔らかい綿の感触、肌を撫でる毛皮。これも、山岸が求めた感覚に似ている。そんな感覚に満足している自分を、山岸はひどく恥じた。
〈了〉