第20章:裏切られた想い《前編》
【SIDE:志水亜美】
夜中に降り始めた雨は冷たく感じる。
夏なのに私の肌を冷やしていく冷たい雨の粒。
「どうして、亮太兄さんと奈々子さんが一緒にいるの?」
奈々子さんと仲良くしていた男性は私の兄だった。
幼馴染のふたり、どういう理由でふたりが一緒にいるのか?
私は信じられないと言った顔をすると、奈々子さんは困った様子を見せた。
「……お前こそ、何でここにいるんだ?」
ただひとり、まったく事情を理解できていない亮太兄さん。
彼は私の交際相手が和輝さんではないと知らない。
だから、こんな風に私と奈々子さんが出会っても別におかしくないと思うのだろう。
「奈々子に会いたがっていただろ?偶然とはいえ、こうして会ったんだ。話くらいしろよ。ほら、ファミレスにでも入るぞ」
とか、まったく空気の読めていないセリフを告げる。
亮太兄さんに私達はファミレスへと連れて行かれる。
お互いに顔を見合せても何も言えない。
言いたい事はあるの、でも、言えないんだ。
お店に入り、テーブルに案内された私たちは向き合う形で椅子に座る。
気まずい空気が私と奈々子さんの間に流れていく。
「それにしても、たまに家の方にも帰ってこいよ、亜美。母さんが心配しているぞ。彼氏のところで入り浸るのも青春かもしれないがな。なぁ、奈々子。亜美ってば最近、ずっと彼氏のところで暮らしているだ。お前からも何か言ってやれよ」
「……え?そ、そうね」
奈々子さんは何も言えずに俯いてしまうの。
その様子を見て確信した、彼女は兄さんと交際している。
「何だよ、お前ら?緊張しているのか?」
「亮太兄さんこそ奈々子さんと何で奈々子さんと一緒にいるの?」
「ん?あぁ、言ってなかったか?俺と奈々子って……」
「やめて、亮太。今は何も言わないで!」
声を荒げて奈々子さんの態度が豹変する、
驚いた兄さんは「な、何だよ?」と追い出されるようにトイレへと向かう。
ふたりっきりになった私達は会話を何とかしようと言葉を探す。
「奈々子さん、単刀直入に聞きます。兄さんと交際しているんですか?」
「……今は亮太と付き合ってるわ。この間、会った時、言えなかったの。ごめんなさい、黙っているつもりはなかったの」
「私は和輝さんと付き合っていますからこんなこと言える立場じゃないのかもしれません。けれど、奈々子さん。これだけは聞かせてください。どうして、亮太兄さんなんですか?もしかして、奈々子さんってずっと前から兄さんのことを?」
それは私が最も恐れている質問の答え。
そんな事実だけは信じたくない。
だって、それは今までの私達の関係において重大な裏切りだから。
奈々子さんは身体をこわばらせながら静かに言う。
「亮太と今のような関係を持ち始めたのは離婚してからよ。和輝と結婚していた時に浮気なんてしない。麻尋の事もあったし、それだけは信じて欲しい」
「……それ以降に、私と和輝さんの同じように付き合い始めた、と?」
「和輝との関係がダメになっていくうちに離婚しようって思った時、相談したのが亮太だった。離婚して、不安だった私を支えてくれたの。それから付き合い始めた……」
「奈々子さん。本当の事を教えてください。亮太兄さんとはそれ以前に何かあったんですか?私、今でも信じられないんです。幼馴染としてふたりがとても仲が良かったのは知っていますけど、そこに恋愛感情があるなんて思えません」
そうだ、兄さんと奈々子さんはずっと仲はよかった。
それは恋とかじゃなくて、友達って言う関係を極めているようにも思えた。
どうしてなの、それは違ったの?
ドリンクバーのジュースを飲みながら私は彼女の言葉を待つ。
震える声で彼女は真実を口にしてくれた。
「和輝と付き合う以前の話よ。私はね、ずっと初恋相手がいたの。それこそ、幼いころからずっと好きだった相手。それが亮太だったのよ。私は彼が好きだった」
「う、嘘でしょう?え?そんな!?」
私が驚くのも無理はない。
だって、亮太兄さんの女癖の悪さは中学の時から激しくて見ていられないくらいだもの。
下手にモテるから嫌な奴そのものだったし、私なら生まれ変わらない限り恋したくない相手だ。
「女の子に対して悪かったのは確かよ。それでも中学2年の時、私は彼に告白した。答えは微妙だったわ。『俺は本気の恋を出来る人間じゃない』って言われて、遊び半分でも付き合ってくれた。だけど、結局、うまくいかなくなったの」
「奈々子さんと兄さんって破局してからも普通でしたよね?どう見ても変わらない関係だったんですけど……?私が気付かないくらいですから」
「お互いにそうする努力をしたつもり。何も変わらないでいたかったの。その後、私は和輝に付き合わないか、と言ったの。一人はさびしかったから付き合いはじめたのよ。愛なんて最初はほとんどなかった」
その話を聞いた時ものすごくショックだった。
私が奈々子さんと和輝さんが付き合い始めた頃はまだ小学校の低学年だった。
二人は恋をして付き合い始めたのだと信じていたんだ。
「……そんな理由で付き合い始めたんですか?」
「一番の理由はね、亮太を忘れたかったの。うまくいかなった初恋を忘れたかったんだ。けれど、現実ってうまくいかない。初恋は忘れる事なんてできなかった。結局、和輝と付き合っても、結婚して麻尋が生まれても、私の心を満たしてくれることはなかったの」
初恋を忘れることができなかったの私も同じだ。
4年の月日が流れても忘れることができなくて和輝さんを想い続けていた。
だけど、私にはどうしても許せない事がある。
「……奈々子さんはずるいです。それなら和輝さんと別れて兄さんともう一度付き合えばよかったじゃないですか。確かに兄さんは付き合う女の子を次々と変える嫌な男の人ですけど、ちゃんと話せば分かってくれる人ですよ」
「そうね。そうするべきだったのかもしれない。けどさ、私の中にも和輝を思う気持ちが少なからずあったのよ。居心地も亮太と違って悪くないし、優しさに甘えたところもあったの。高揚感はなかったけども、安心感はあったから」
「だから、別れずに関係を続けていたんですか?」
「そうよ。そのうち、子供が出来て結婚することになったの。一応、愛はあったつもりだけど、私は彼を愛し続ける事ができなくなった。中途半端な想いを抱いても、それは恋としてなりえなかったのかもしれない」
過去を振り返り整理していくと見えてくるものがある。
その時は満たされてると感じても、改めて思い出すと何でもなくて。
そういう経験を積み重ねて人は冷めていくんだろう。
私は和輝さんしか愛することを知らない。
だから、想像することしかできないけども、愛が冷めていく感覚ってどんなのなの?
“愛する気持ちが冷え切っていく”。
言葉にすれば容易いけども、私には理解できない。
「……ごめんね、亜美。こんなこと、今まで言えなくて……私の事、軽蔑したでしょう。二人の幼馴染の間を行き来したりして……嫌な女よね」
「私は奈々子さんじゃないですから、そんな気持ちは分かりません。私は当事者じゃないんですけど、何だか裏切られた気持ちでいっぱいです。そんな複雑な気持ちで生まれた麻尋ちゃんはどうなるんですか?私はそれが許せない」
人の親になるのって大変だって今でも分かる。
それなのに、こんな気持ちで子供なんて産んではいけないと私は思う。
子供にとって、初めて与えられる愛情は親の愛情だもの。
「奈々子さんは麻尋ちゃんのこと、愛してあげてましたか?和輝さんとの気持ちが冷めても、子供としていいお母さんでいましたか?」
その質問に彼女は俯き何も言えないでいる。
私が言うセリフじゃないよ、こんなことを。
他人である私が言える立場ではない、私はただの幼馴染でしかないんだもの。
だけど、麻尋ちゃんや和輝さんの気持ちを考えると言わずにはいられなかったの。
「ごめんなさい。私、今、ひどいこと言いました。私、混乱しているみたいで、何を言えば分かりません。その、今日はもう失礼します」
「待って、亜美。私は……私はっ……」
私の腕を掴む彼女の手をそのまま振り払う。
今はこれ以上、話をしたくなかった。
自分の中での感情がグシャグシャに入り混じって、奈々子さんを傷つける言葉を言いそうだったから……。
「……やめてください、今の私は奈々子さんにひどい事を言っちゃいそうで怖いんです。軽蔑したりしませんけど、私には奈々子さんの気持ちを理解する事ができません。奈々子さんがどんな悩んだ“結末”だとしても、その“結果”を私は許せない。だから……私は奈々子さんを許せそうにないんです」
彼女は逃げずに向き合うべきだったの。
亮太兄さんからも、和輝さんからも……。
奈々子さんが自分の本当の想いから逃げずにいれば何も問題はなかったんだもの。
感情的になる事を避けたい私はそのまま歩もうとする。
手を振り払われた奈々子さんは今にも泣きそうな顔をする。
「ごめっ、ごめん……ね、亜美。私、私は……」
言葉にならない奈々子さん、よほど私に拒まれたのがショックだったらしい。
私だってショックだよ、大好きなお姉ちゃんがそんな事をしていたなんて。
「……奈々子さんは今が幸せなんでしょう?それならいいじゃないですか。私も幸せですよ、大好きな和輝さんと一緒にいられて、麻尋ちゃんを愛することができる。お互いに幸せなら“過去”なんてどうでもいいんですよね?」
「違うわ、違うの……亜美、私は……」
やっぱり、今日の私は感情的になり過ぎている。
これ以上いれば取り返しのつかない“本音”を言ってしまいそうだ。
裏切られたこの感情を言葉にしてしまいそう。
私は席を立ち去ろうとすると、その場を見守るかのように待っていた兄さんがいた。
「よぅ、話は終わったのか?何だよ、数年ぶりの再会だってのに空気悪いじゃん?あんなに仲良かったのにどうしたんだ?僕だけ仲間はずれか?」
その空気を理解できない発言が許せなくて、私は彼の頬を叩いた。
「ふざけないでっ!全部、兄さんの女癖が悪いからでしょ!兄さんのバカっ!大嫌いっ!!空気ぐらい読めっ!」
私は叩かれた頬を押さえて呆然とする兄さんを放ってファミレスを後にする。
「……え?なんで僕が妹に怒られるんだ?は?おい、奈々子、どういうことだよ?」
「ごめんなさい。全部ね、私が悪かったんだ……。ホントに時を戻せればいいのに」
ずっと仲の良かった私達の関係に目に見えた亀裂がはじめて入った瞬間だった。
外は大雨だけど私は傘もささずに家へ帰るために走る。
髪や顔を濡らしていく雨、服に雨のしずくが染み込む冷たさは気持ち悪い。
だけど、そんな事どうでもよかった。
奈々子さんの裏切りに比べたらそんなことなんて……。
ショックだったの、奈々子さんの行動が許せなかった。
私に対してはいいお姉ちゃんでも、してきた行動を許せるはずがない。
今にして思えば、いつも二人の交際を聞いたら歯切れが悪くて。
『好きになっても苦しみは生まれる。人が人を好きになる、それは確かに幸せかもしれない。だけど、人を好きになることは必ずしも楽しいだけじゃない。愛するからこその辛さはあるものよ』
かつて奈々子さんは私にそう言った。
その苦しみは誰のために想う苦しみなの?
和輝さん、それとも初恋相手の亮太兄さん?
奈々子さんはずるいよ、自分の中に二つの想いを抱えていたこと。
これをずるいと思ってしまう私はまだ子供の恋愛しか知らないということなの?
「そうだ、和輝さんはどうなんだろう?」
彼女のそう言う重ならない想いに気づいて別れることにしたの?
当然、自分との気持ちのすれ違いに……すれ違い?
私はそこで初めてもう一つの真実に気づく。
「和輝さんもそうだ。いつ聞いてもラブラブって感じじゃなかった」
和輝さんは奈々子さんを愛していたのかな?
人の気持ちは他人には分からないもの。
「和輝さんは……私の事は好きなのかな?」
だからこそ不安になってくる、和輝さんの気持ちが分からなくて。
何もかも分からなくなってくる、自分が信じてきたものがすべて……。
私は家にたどり着くと、ちょうど和輝さんが出迎えてくれる。
「おかえり、亜美ちゃん。雨はどうだった……ってすごく濡れているじゃないか?すぐにタオル持ってくるから待っていて」
「和輝さん……」
「ん、どうしたの、亜美ちゃん?顔色悪いけど、何か……亜美ちゃん?」
私は彼に抱きついて涙を流していたの。
和輝さんの気持ちが分からなくて、私の事を愛してくれているのかも分からなくて。
「……好きです、私は和輝さんにどう思われても好きなんですっ」
そう呟くと、急に意識がなくなるようにぐったりとしてしまう。
「亜美ちゃん?ちょっとどうしたんだ!?亜美ちゃん!」
そのまま私はゆっくりと意識をまどろみ中へと沈めていった……。
愛が目に見えるものなら分かりやすいのに。
人に恋する気持ちって、だからこそ怖いんだ――。