第9章:忘れられない初恋
【SIDE:志水亜美】
幼い頃、私にとって結城さんはお兄ちゃんだった。
「……うわぁああん」
泣きわめく私、飼っていた犬のハルが死んでしまったのだ。
まだ8歳の私はその寂しさに耐えらなかった。
泣いてばかりの私を結城さんは慰めてくれていた。
優しくしてくれるお兄ちゃん、そんな彼だからこそ誰よりも信頼していた。
「ぐすっ、ハルにはもう会えないの?」
「そうだね。でも、ハルは亜美ちゃんの事、大好きだったから。これからもずっと亜美ちゃんを見守ってくれているに違いないよ。だから、泣きやんで。いつまでも泣いていちゃハルも悲しくなるんだ」
撫でてくれるその手の温もりはいつも私に勇気を与えくれた。
どんな時も私に大きな影響を与えてくれて。
大好きなお兄ちゃんは私にとって初恋の相手になっていた。
恋に気づいた時、私は彼を“お兄ちゃん”と呼ばなくなった。
だって、兄ではなく、ひとりの男の人として接したいから。
結城さんには常に奈々子さんの存在があった。
私は妹であっても、女の子として見てくれはしない。
そんな事は分かりきっていて、だからこそ、この想いを封じ込め続けていた。
それなのに、私の中に芽生え始めた心。
私は5年の歳月を経て、また結城さんに恋をしている。
関係は変わってしまっているけども。
麻尋ちゃんの存在も、離婚したという事実も、奈々子さんの事だってある。
それでも胸にこみ上げるくらいに溢れていく想い。
“私は結城さんが好きなんだ”。
その自覚が再び芽生え始めていた。
どんなに消そうとしても、この想いは忘れることができないもの。
私にはその想いを告白する勇気も、覚悟もなくて。
だけど、また昔のように“このままでいい”なんて思いたくはない。
私は本当にずるくて我が侭なんだ。
台風の夜に私は結城さんの家に泊まることになった。
同じ部屋で麻尋ちゃんと結城さん、3人一緒に布団で眠る。
私は眠りつく麻尋ちゃんの小さな手を指で撫でながら言う。
「――お話があります、結城さん」
私にはどうしても知りたい事があるの。
「……なぜ、奈々子さんと離婚してしまったんですか」
それは踏み行ってはいけない問題だと、私は分かっていた。
この前だって深くは聞けなかった。
私のしている事は結城さんを傷つけることなのに止めらない。
「この前も言ったはずだよ。俺は“結婚”の2文字を甘く見ていた。奈々子を愛していたはずなのに、結婚してから喧嘩ばかりして。お互いの溝を埋めようとしていても、埋まらない……ダメになっていくのを感じたって」
「ダメになるって、何ですか?どうなってしまうのがダメなんです?」
心の距離とかすれ違いとか、そんな曖昧な事では納得できない。
幸せを約束した二人の破局、それを認めたくない。
大好きな人たちの幸せ、その崩れ去る現実を受け入れたくないんだ。
結城さんは決定的な言葉を口にした。
「俺はもう奈々子を愛していないし、奈々子も俺を愛していない。はっきり言えば亜美ちゃんも納得してくれるかい?」
彼の口からは聞きたくなかった一言だった。
どうしてこんなことになってしまったの?
あんなに仲が良くて、だって、中学からずっと付き合っていたのに。
それでもダメになることがあるの?
「そ、そんなことないですっ。だって、ふたりは……」
「亜美ちゃんの知っている俺と奈々子は4年前で止まっている。4年の月日は亜美ちゃんを女性らしく成長させるし、離婚するほどに夫婦の関係さえも悪化させる。時間が経てば人の関係も想いも変わるものなんだよ」
淡々と言う結城さんに私は思わず言い返してしまうんだ。
「違います、変わらないものだってありますよ」
「どういう事が変わらないんだ?人は成長する、亜美ちゃんも麻尋も4年の月日が大きく変えた。変わらないものなんて……人の想いすらも変わらずにはいられない」
結城さんの態度が私には現実逃避に見えたんだ。
自分ひとりではどうにもならなかった、そういう事もある。
どうしようもないことだって、私にも経験があるの。
「――人の想い、これだけは変わりません」
「それが変わってしまったから、俺と奈々子は終わったんだ」
私は違うんだって言いたかった。
でも、私の口からは言えない、これは言ってはいけないもの。
豆電球だけに照らされる室内、私は天井を見上げる。
麻尋ちゃんのためだろうか、天井には緑色に光る蛍光の星のパネルが貼られている。
綺麗に瞬く星空のように……。
「結城さんには信じて欲しいです。どんなに年月が流れても変わらない事があることを。そうじゃないと結城さんはこれから先、誰も信じられなくなってしまいそうで……私はそれが嫌なんですよ」
「……そうかもしれないな。俺は今回の事でそれを痛感させられた。結婚式の時、自分が離婚するなんて思いもしていなかったからな。麻尋が生まれた時も、そうだ。これから先がずっと続くのだと思い込んでいた」
結城さんはそっと布団から立ち上がる。
これ以上の会話は麻尋ちゃんを起こすと思ったからだろう。
私も彼についてリビングへと出て行った。
椅子に座りなおして、お互いに向き合う。
彼の表情は私の知らない結城さんの顔をしていた。
「幸せっていうのは崩壊するものなんだ。限りあるものなのさ。いつかは壊れてしまう、それまでを楽しむ、そう言う事なんだと俺は知った」
「違いますっ、違う……そんなの、ダメですよ。諦めてるみたいで嫌です。結城さんはこれから先も幸せになれないみたいじゃないですか」
「……俺自身の幸せは考えないつもりでいる。今は麻尋の事だけを考えていたい」
「麻尋ちゃんだっていつかは好きな人を見つけて幸せになりますよ?その時、結城さんはひとりでいいって言うんですか?こ、こんなこと、私は言いたくないですけど、結城さんは後ろ向きすぎますっ!」
つい語気を強くしてしまう。
結城さんはいつだって笑顔の似合う人で、私は彼と接するだけで幸せだった。
離婚という事にショックを受けているのは分かる。
人をずっと愛せないこともあるんだって、そう言うのは分かるけども。
「麻尋ちゃん……彼女の幸せを考えるのなら、結城さん自身の幸せも考えてください。そうじゃないときっと誰も幸せになんてできません。好きな人を見つけて、再婚する。それも結城さんの幸せのひとつです」
「亜美ちゃん。今の俺は誰かを愛する事はできない。キミの言う通り、逃げているのかもしれないな……。自分がもう誰も愛せないんじゃないかって不安もある」
結城さんの言葉に何も言えなくなってしまう。
彼のこちらを見つめる瞳が今日は何だか怖い。
「……亜美ちゃんは言ったよね、人の想いで変わらないものがあるって。それは何?」
「それは……その……」
言えるはずがないよ、こんな風に結城さんの心の痛みを知った今は何も言えない。
「……ぐすっ、うぅっ……ぁっ……」
私はついに嗚咽をこぼして泣きそうになる。
瞳をこぼれ落ちる涙に結城さんの顔色が変わる。
「あ、亜美ちゃん……?」
「言えるわけないですよ、そんな風に傷ついてしまっている結城さんに私の口から……言えるはず、ありません。変わらないのだって、それは私の一方的なものですから。結城さんにとっては違うんです」
私は涙を指先でぬぐいながら、何とか泣くのは我慢する。
結城さんに私は勢いで言ってしまうの。
「……私のファーストキスの相手は、大好きなお兄ちゃんでした。ずっと、大好きで、でも、私が好きになった時には既に恋人がいたんです。私じゃダメだって、諦めました。勝手に私の分も幸せになって欲しいと願ってました」
そうする以外にどうしようもなかった、14歳の私。
あの時はそうすることしかできなかったもの。
「5年経っても、私の想いは変わってません。結城さんが好きなままなんです……。片思いですけど。キスしてくれたら諦めるって言ったのに、嘘ついちゃいました。消えてくれなかった、忘れることができなかったんです」
きっと無意識のうちで私の想いは続いていた。
新しい恋なんてできない。
当然だよ……私の恋は継続中だったんだから。
私は顔をあげて、呆然とする結城さんに言う。
「結城さんの事、全然分かっていませんでした。離婚という事、どれだけ考えて決断したものなのか。その痛みも、麻尋ちゃんの事も含めて……あっ」
「ごめんな、亜美ちゃん。俺は今、ものすごく悪い事を言った。亜美ちゃんを傷つけてしまった。まだ、俺の事を好きで、いてくれたんだ?」
彼が私の方に差し出した手が頬を撫でてくれる。
5年ぶりの温もり、私の好きな人の温かさは変わらない。
「はい、好きですよ。変わらずに……。でも、結城さんの力になりたい事と私の想いは違うものです。麻尋ちゃんが好きだからお手伝いしたいだけで、結城さんに認めてもいらいたいとかじゃありません。だから、今まで通りでいてください」
「だけど、それじゃ亜美ちゃんは……」
「結城さん、ひとつだけ約束してください。私は結城さんには自分の幸せを見つけて欲しいんです。その相手が私じゃなくてもいいんです。……どんな形でも私は結城さんの役に立ちたいだけですから」
彼らが幸せになってくれるのなら、その相手は私じゃなくてもいい。
その気持ちを言葉にして、心が傷ついたけども、それが私の気持ちでもあった。
話をそこで終わらせて私達は眠ることにした。
言い終えてから激しく後悔する。
どうしてまだ好きだって言っちゃうのよ、私のバカぁ。
こんなのものすごく痛くて、重荷になる、嫌な女だよ。
私は結城さんの反応が怖かった。
『もう明日からはキミの力は借りられない』
そう拒絶されてしまうのを恐れていたの。
……どんな形でも傍にいたいって、それじゃ満足できないくせに。
あと一歩、踏み出す勇気が私にはなかった。
結城さん……私の事、どう思ったかな?
失望させてしまった、それとも……。
眠りにつくほんのわずかな前にふと室内に結城さんの言葉が響く。
「俺は……亜美ちゃんに感謝している。ありがとう、今も好きでいてくれて」
それが私の都合のいい妄想なのか、現実なのか。
眠りに落ちてしまった私には確認できなかったけど、安心できる一言だったの。
翌朝からは、昨日の事がなかったように普通の日常だった。
私も結城さんも特に変わらない。
それでいいんだ、このままがいい……無理に変えてはいけないんだ。
でもね、嵐の夜のことは多分、ふたりとも忘れたりしないの。
だから、結城さんにはいつか信じて欲しい。
ずっと人を愛していける、そんな強い想いがある事を……。
彼にもそう言う気持ちを取り戻して欲しいの――。