"絶対的"な自我の存立に関わっている「他者」について
人間というのは「終わり」というのがあるのではないかと私は考えている。「終わり」というのはどういう事かと言うと、(自分だけがこの世で唯一正しい)とか(自分だけがこの世で唯一の被害者だ)と考えるようになれば、その人間はもう「終わり」だという事だ。
こうした「終わり」は私のまわりの人間にも普通に訪れている。私にもいずれこれが訪れるだろうが、その時は私も「終わり」であろう。私の中から他者性が失われた時、私という肉体が死ぬ前に既にその精神は死んでいると仮定して差し支えない。
このような終わり、つまり自分の事しか考えられない、自分のエゴイズムをそのまま正義と誤認しているような人は世に大勢いる。この文章を読んでいる人もまわりにそういう人を発見するのは容易のはずだ。
こうしたエゴイズムというのは、自我の欲望や欲求を絶対化するという精神から来ている。また、こうした欲求をそのまま、客体的な「正義」と考える事によって、この人間は自己中心的という良心の非難から逃れる事ができる。正義の権化になった人間はとりあえず「終わった人間」と考えてもいいかもしれない。
ただ、こうした事はエゴイズムを正当化している人間に限った事ではなく、誰にでもある事ではある。
私達は「自分」というもの、「自我」というものを当たり前のように考えている。現代は自分や自我というものを肯定するというのが、それこそ近代以降の「宗教」となっているから、このような考え方は常識的なものとして正当化されている。
封建社会においては自我を否定する事が正義だったが、近代以降は自我を肯定する事が正義となっている。自我を肯定する事は誰でもやっているし、自己啓発本のようなものは過去の宗教と同じく「自我信仰」の延長として現れるものに過ぎない。
ただ、こうした自我の肯定というものには限界がある。自我を絶対視している人々にとっては、問題があるとすれば、悪いのは世界であり、他人である。こうした人は、自分以外の他人を思い通りにできないから、いつも苛々としている。自分が苛々しているのは、自分に問題があるのではなく「他者」に問題がある。
こうした人々は「自分」を見ない。自分を振り返らない。こうした人は自分が自分独りの力で存在していると思う。こうした人は自分の正義に他人が従わない事を不合理と感じ、怒りの声を上げる。
こうした人々は忘恩的であり、他人に助けてもらっても、支えられても、何も思わない。自我は絶対だから、他人が彼を支えるのは「当たり前」でしかない。一方、彼は他人を支える義務はないし、他人に自分というものを消費されるのを恐れる。それどころか、他人は彼の思い通りにいかないものとして非難の的になる。
こうした人は自我を絶対視し、自我の自由を先天的なものだと心得ているのだが、私はこれは、発生論的に間違っていると思う。
発生論的に間違っている、という意味はあとで書くとして、ここでドストエフスキーの「悪霊」という小説に出てくるあるエピソードを取り上げたい。ドストエフスキーが現代人の病患をうまく描いていると思うからだ。
「悪霊」に社会主義者の会合のシーンがある。そこにある女学生がいる。彼女は急進的な思想に染まっている。傍らには彼女の親戚の中年の男性がいる。
親戚の男性は、彼女が赤ん坊の頃に、彼女を腕に抱いてあやした事がある、というような話を語るのだが、女学生はこれに激怒する。彼女は
「私はそんな事を頼んでいないでしょう! 一体あなたは何の権利があってそんな事をしたんですか!」
というような事を言う。親戚の男性は「今の若者はこれですからな!」と嘆息する。
「悪霊」にそのようなシーンがある。今、私は「悪霊」を読まずに記憶を頼りに書いているので細部は間違っているかもしれないが、全体としてはそれほど間違っていないはずだ。
※
ドストエフスキーはこの場面を誇張して描いている。また、誇張されているからこそ、本質があぶり出されて、わかりやすくなっている。
この女学生は、我々にとっては常識的な「自我」「自由」「権利」という概念にとらわれている。こうした概念は現代人にとってはもはや当たり前の事なので、これを批判しようとする者はほとんどいない。
この女学生は、まだ自我が発生する以前の赤ん坊の自分自身に対しても、そうした概念を拡張している。これはドストエフスキーが誇張しているポイントで、それだけに本質が露呈されていて、興味深い。
当然、赤ん坊というのははっきりした自我を持たない。他人と自分の区別が多少あったとしても、はっきりと自分というものを持っていない。
そもそもで言えば赤ん坊というものは他者の世話がなければ自分自身になれない。生きる事ができない。赤ん坊が最初から「自分」があって「権利」があって「自由」があるとすれば、赤ん坊一人で独立して生きていけばいいかもしれない。だが、赤ん坊は他者からの世話を必要とする。
人が自分という独立した存在になる為には、他者の献身が必要となる。しかし、自我という存在に目覚めた時には、この、他者の介在によって自己自身となったという記憶は忘れ去られてしまう。…いや、そもそもで言えばそのような記憶の存在が成立する事、その根拠の成立に他者が関わっているのだ。
私がこの文章の最初の部分であげた「終わった人々」というのは、こうした自己の存立が他者の介在によってできあがったという事を「忘れてしまった」人々だ。こうした人々は自分一人で自分が成立していると考える。
他人は自分の敵であると考える。彼らが忘恩的であるのは、二歳とか三歳以降の自我がはっきりした自己を全てだと思いこんでいるからだろう。実際には彼らは他者が存在したからこそ、今、存在しているのである。
もちろん、こうした自我のはっきりしていない乳幼児期において、身体的にか精神的に、自己の存在を脅かされるような事態に陥れば、彼の無意識は世界に対して攻撃的になったり、否定的になったり、絶えず自己を世界から遠ざけようとするだろう。ただ、そうだとして、そのような「彼」が成立する基盤に他者が介在していたという事実は消えない。他人がいたから自分という存在がいるという根底は変わらない。
私達は自分ひとりの正義を、自我概念を絶対視して振り回す事は可能だが、その概念の成立に他者が関わったという事実そのものを消す事はできない。「終わった人々」が忘れているのはこのような事態に他ならない。
「悪霊」のエピソードに戻れば、女学生は自分が「だっこ」されている事に対して憤っている。「あなたに何の権利があるのですか!」と。ドストエフスキーはこうした人物の病的な自我概念を明らかに揶揄して描いている。
この女学生は自我の概念を、自我という概念が成立する以前の乳幼児期にまで拡張している。ここに問題がある。赤ん坊の彼女に自己の権利があり、誰も彼女に構う権利がないとなると、彼女は勝手に一人で成長すればいいだろう。しかし彼女はひとりで生きる事ができない。
彼女が彼女になる事ができたのは、彼女の意志に反して、というより、彼女の意志ができる以前に他者が彼女に対して親和的に接したからに他ならない。彼女はそれをわかっていない。彼女は自我というものを信仰している。彼女は自我を絶対視している。それ故に彼女は自我が少しでも汚されるの恐れて激怒する。
しかし誰かが彼女を「だっこ」したり、食事を与えたりしなかったら、彼女は生きる事はできなかった。要するに、絶対的ともみえる自我という存在そのものに既に他者の存在が介入している。しかし自我概念を絶対視している人間にはこういう事はわからない。
私は実際、こうした人々を私の周囲に多く見てきた。彼らは忘恩的だが、彼ら自身はそうだとは考えていない。悪いのは世界であり、他人であると考えている。
こうした人々は過去の人々が神という存在を信じていたのと同様に、自我という存在を絶対視している。彼らは自我存在を認めてくれる他人を探すが、彼らの方で最初から他人を否定している為に、そのような他人を発見できずに苦しむ。
こうした人々は「自分を認めてくれる他人」を見つけようとする。そうして、そうした人物といざ実際に付き合ってみると、相手がそういう人間ではなかった事に幻滅する。しかし希望を失う事はできないから、同じ事を繰り返す。
これはそもそも、自我という観念から逃れられない人間の宿命なのかもしれない。ただ私が思うのは、現代の人々が絶対視する自我観念(ポップソングから自己啓発本まで、これが現代の宗教と呼んでいいほどに繰り返し肯定される)にも外部というものは存在し、その自我そのものに既に外部は食い込んでいる。こうした人々はその事実を否定する故に滅んでいく。
そうして彼らが滅んでいく様それ自体は、彼らの考えているような彼らの正義の実現でもないし、絶対的な自我観念の完結でもない。
それは他者の存在を含みこんだ自我の崩壊、すなわち、自我の"他者化"という当たり前のドラマに過ぎない。そして人が生まれて存在している以上、このドラマを回避するのは不可能には違いない。




