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最終話《解除できない救い》

 午前二時十七分。

 私は、いつも通り床に伏せた。

 右頬を床につける。

 鼻が少し潰れる。

 呼吸が床に反射して、ぬるく戻ってくる。


 この姿勢。

 この角度。

 この距離。

 全部、身体が覚えている。

 覚えているということは、誰かに教えられたのではない。

 私が私に、何度も刻んだということだ。


 私は扉の下の隙間に目を押し当てた。

 ――いつもなら、そこにある。

 白いもの。

 片目だけの目。

 遅い瞬き。

 こちらを「確認」する視線。


 それが、ない。

 暗いだけ。

 何もいない。


 普通なら、安心するはずだった。

 覗いた先に何もないなら、危険がない。誰もいない。見られていない。

 安心。救い。戻れる。


 なのに、背中が冷えた。

 あるはずのものが、ない。

 それが怖かった。


 怖いのに、目を離せない。

 怖いのに、次の瞬きまで待ってしまう。


 私は待った。

 待っても、何も起きない。

 暗いだけの隙間が、まるで口みたいに開いている。

 吸い込むものを探して、開いている。


 私は唇を噛んだ。

 痛くない。

 痛くないのが、怖い。


 午前二時十七分。

 今日の手順は、終わった。


 終わったことに、胸の奥がふっと軽くなる。

 軽くなると、息が深い。

 深い息は気持ちいい。

 気持ちいいから、私はそのまま目を閉じた。


 翌日。

 夜が来るまで、私は普通に過ごした。

 普通に過ごせることが、普通じゃない気がして、息が深くなる。


 鏡の前に立つ。

 薄いリップを塗る。

 色は、くすんだ赤。

 少し茶色がかった、乾いた赤。

 “ちゃんとしている”色。

 誰かを安心させる色。

 話を早く終わらせる色。


 私はそれを塗るたび、唇の輪郭を整える。

 整えると、胸が固くなる。

 固くなると息が浅い。

 浅い息で「大丈夫」を言うと、世界が回る。

 回るのが嫌だから、私は言わない。

 代わりに、塗る。

 塗るだけで、手順は進む。

 手順が進めば、私は考えなくていい。

 考えなければ、戻らなくていい。


 午前二時十七分。

 私は、また床に伏せた。

 頬の位置を微調整する。

 まつ毛が床に触れる。

 その感触が、気持ち悪いのに懐かしい。


 私は隙間を覗く。

 暗い。


 でも、昨日より「部屋」になっていた。

 壁がある。

 床がある。

 天井の影がある。


 何もない。

 家具もない。カーテンもない。

 でも、空間だけはきちんと揃っている。

 揃いすぎていて、怖い。


 誰かが片付けた。

 誰かが整理した。

 誰かが「何もない状態」を、ここに用意した。


 私は、それを見てしまう。

 見ると、胸が固い。

 固いのに、息が深い。

 矛盾が気持ちいい。

 矛盾のまま生きるのが、私の癖だった。


 今日の手順も、終わった。


 三日目の夜。

 私は少し早く目が覚めて、時計を見ないようにした。

 時間を意識すると、世界が回る。

 回ると、期待が来る。

 期待が来ると、私は「大丈夫」を言ってしまう。

 だから、見ない。


 見ないのに、身体が勝手に二時十七分へ連れていく。

 私は床に伏せた。

 覗く。


 暗い部屋の床の真ん中に、赤い箱が置いてあった。

 赤い。

 くすんだ赤。

 少し茶色がかった、乾いた赤。

 ――私のリップの色に似ている。


 箱は、開いていた。

 中身は見えない。

 見えないのに、私は分かった。

 そこは「入れる場所」だ。

 入れる。

 返す。

 返却。


 箱の縁が、ほんの少し欠けている。

 誰かが何度も触った欠け方。

 繰り返された欠け方。


 私は唇の裏側が冷たくなるのを感じた。

 同じ赤。

 同じ温度。

 同じ匂い。


 胸の中心が固くなる。

 固さが来ると、浅い息が出る。

 浅い息は怖い。怖いのに懐かしい。


 私は目を離せない。

 赤い箱が「そこにある」だけで、

 部屋が“処理する場所”になってしまう。


 今日の手順は、終わった。

 終わったことに、私は少しだけ安心した。

 安心した自分が、一番怖かった。


 四日目の夜。

 覗く。


 赤い箱の隣に、白い紙が置いてあった。

 紙は一枚じゃない。

 薄い束。

 角が揃っている。

 揃っているのに、紙の端が少しだけ波打っている。

 触られた跡。


 表紙に、大きな文字。

 同意書


 私は喉が鳴った。

 鳴ったのに、音が出ない。

 出ない音は、身体の中だけで響く。


 同意。

 同意すれば、話が早く終わる。

 終わらせたい。

 終わらせたい私は、いつも「大丈夫」を言ってきた。


 紙の下部に、署名欄。

 そこに、自分の字があった。

 自分の癖。

 “ちゃんとしている”字。

 相手を安心させるための字。


 私は、書いた覚えがない。

 ないのに、ある。

 無いはずの記憶が、紙の上にだけ残っている。


 私は、その瞬間、理解した。

 この部屋は、私の部屋じゃない。

 私が私であるための場所じゃない。

 私が「私」を返していく場所。

 私が「私」を同意で削っていく場所。


 覗くことでしか、私はそれを確認できない。

 確認できないなら、救いを呼べない。

 呼べないから、息が深い。

 深い息が気持ちいい。

 気持ちいいから、私はまた覗く。


 五日目の夜。

 覗く前から、嫌な予感がした。


 床に頬をつけると、冷たさがいつもより濃い。

 濃い冷たさは、手順が進む合図だ。


 隙間に目を押し当てる。

 白い紙と赤い箱。

 そこまでは、昨日と同じ。


 でも、違う。

 隙間の向こうの床に、赤い線があった。


 最初は、線に見えた。

 床に引かれた、一本の赤い線。


 でも線は床に染みていない。

 床の上に乗っている。


 私は目を細めた。

 赤い線は、少し盛り上がっていた。


 線じゃない。

 塗られたものだ。

 口紅。

 くすんだ赤。

 少し茶色がかった、乾いた赤。

 私が毎晩、唇に塗っている色。


 嫌だ、と思った。

 嫌だと思うと胸が固い。

 固い胸は浅い息を呼ぶ。

 浅い息は世界を回す。

 回るのが嫌だ。


 だから私は、嫌だと思ったまま、覗き続けた。

 覗くのをやめれば、世界が回る気がした。

 やめれば、誰かに説明しなければならない。

 説明すれば、関係が成立する。

 成立すれば、期待が生まれる。

 期待が生まれれば、私はまた「大丈夫」を言う。

 それが嫌だった。


 赤い口紅は、隙間のすぐ向こうに貼りつくように置かれている。

 まるで、隙間のために用意されたみたいに。

 ――覗かれないようにするために。


 私はそう思ってしまった。

 覗く側がいる。

 覗かれる側がいる。

 覗かれる側は、覗かれないように整え始めた。


 整え始めた、ということは。

 向こうには、もう、覗かれる価値のある“何か”がいる。

 それが、怖かった。


 六日目の夜。

 私は、眠らないつもりだった。

 眠らなければ、手順は始まらない。

 始まらなければ、私は壊れない。


 でも二時十七分は、眠りとは関係なく来る。

 身体が勝手に床へ向かう。

 膝が折れる。

 手が床につく。

 頬が床につく。


 私は止めようとした。

 止めようとすると、胸が固くなる。

 固い胸は浅い息を呼ぶ。

 浅い息は世界を回す。

 回るのが怖いから、私は止められない。


 隙間に目を押し当てる。

 赤い箱。

 同意書。

 そして――赤い口紅。


 今日は、線じゃなかった。

 塊だった。


 隙間のすぐ向こうで、

 口紅が“唇の形”をしていた。

 塗られた唇が、床に押しつけられた形。

 ぬるく光る赤。

 乾いているはずなのに、湿って見える赤。


 私は息を呑んだ。


 隙間の向こうから、声がした。

 かすれた、でも優しい声。

「……よかったね」


 母の声だった。


 私は、瞬きができなかった。

 瞬きが遅れると、鏡の中みたいになる。

 鏡の中は怖い。


 向こうの部屋で、足音がした。

 誰かが歩いている。

 誰かがいる。

 誰かが、生活している。


 そして、別の声。

 私の声。

 泣きそうな声。

 でも、ちゃんとしている声。

「……ごめんね」


 母が言う。

「いいの。もう、いいの」

「ほら。出よう」


 ドアが開く音がした。

 向こうの部屋のドアが。

 向こうの世界の出口が。


 私は、そこで初めて見た。

 部屋の奥――見えるはずのない位置に、影が動く。

 母が、誰かの腕を取って、引いている。


 引かれているのは、私だった。

 輪郭が濃い私。

 息をしている私。

 泣ける私。

 名前で呼ばれて返事ができる私。


 母が、その私を抱き寄せる。

「よかったね」

「戻れた」


 戻れた。

 救いの言葉。

 向こうの私は、救われる。

 救われるべきものは、救われる。

 世界はそういうふうにできている。


 その瞬間、母がこちら――隙間の近くへしゃがみ込んだ気配がした。

 母の影が、低くなる。

 視線が、こっちを向く。


 母は、隙間の向こうにいる私――

 床に伏せて覗いている私に向かって、言った。

「……偉かったね」

「ちゃんと、できたね」


 褒める声。

 安心させる声。

 話を早く終わらせる声。


 私はその声を、ずっと覗いてきた。

 母の顔を覗き、母の機嫌を覗き、母の安心を覗き、

 “いい子”でいるために覗いてきた。


 母は続けた。

「もう、見なくていいよ」

「もう、覗かれないようにするから」


 覗かれないように。

 母の手が、赤い口紅を取る気配がした。

 くすんだ赤。

 少し茶色がかった、乾いた赤。

 私が毎晩塗る色。


 赤い箱と同じ色。


 母の手が、隙間のすぐ向こうへ伸びる。

 隙間の向こうの“唇の形”が、こちらへ寄る。


 嫌だ。

 嫌だと思った。

 思ったのに、身体は動かない。

 動かないのに、目だけが逃げられない。


 赤が近い。

 近すぎる。


 母は、優しい声で言った。

「大丈夫」


 その一言が、手順の合図だった。


 次の瞬間。

 ぐちゃり。

 湿った音。

 ぬるいものが、まぶたの上に広がる。

 まぶたの縁に、柔らかい塊が押し込まれる。


 私は息を吸い込んだ。

 赤が、目に入った。


 痛い、はずだった。

 焼けるように痛いはずだった。


 でも痛みは来ない。

 代わりに、視界が真っ黒になる。

 黒。

 何もない。

 何も見えない。


 私は、喉の奥で小さく息を吐いた。

 ――できた。

 今日も、手順が守られた。


 守られたことが、安心だった。

 安心してしまった自分が、いちばん怖いのに。


 私はそのまま、頬を床につけたまま、動けなかった。


 向こうの部屋から、足音が遠ざかる。

 母と、救われた私が、出ていく。

 出ていくのに、私は残る。


 残ることに、誰も驚かない。

 驚かないことが、手順だから。


 鍵の音。

 ドアが閉まる音。

 そして、母の声が最後に一言だけ落ちる。

「――覗かれないように、しておいたからね」


 翌朝。

 廊下は、静かだった。

 いつもと同じ。

 何も起きていない顔をしている。


 私は立ち上がろうとして、膝が笑った。

 目が見えないと、床の位置が分からない。


 分からないのに、身体は“二時十七分の床”だけは正確に覚えている。


 私は壁づたいに自分の部屋へ戻った。

 鏡の前に立った。

 見えない。


 見えないのに、手はリップを探す。

 くすんだ赤。

 少し茶色がかった、乾いた赤。


 唇に触れる。

 塗る。

 塗ると、“ちゃんとしている”が完成する。

 完成すると、息が深い。

 深い息が気持ちいい。

 気持ちいいから、私は笑いそうになる。


 笑いそうになって、止めた。

 止められる自分がいる。

 止められることが、怖い。


 午後、ゴミ置き場から、赤い箱が消えた。

 捨てられた。

 誰かが捨てた。

 母が捨てた。

 救われた私が捨てた。


 返却箱を捨てるのは、“戻った側”の仕事だ。

 箱がないなら、返す場所がない。

 返す場所がないなら、返す必要がない。

 返す必要がないなら、救いがある。


 救いは、向こうにだけある。


 夜。

 午前二時十七分。

 私は、床に伏せた。


 目は見えない。

 見えないのに、覗く。

 覗く相手はもういない。

 向こうの部屋は、救われた私が出ていったから。

 空っぽだ。


 赤い箱もない。

 同意書もない。

 何もない。


 普通なら、安心するはずだった。

 でも、私は安心できない。

 見えないからじゃない。

 覗くべきものがなくなったのに、手順だけが残っている。

 それが怖い。


 怖いのに、私は息を吐く。

 ――できた。

 今日も、覗いた。

 今日も、完了した。


 完了したことが、安心だった。

 安心は救いだ。

 救いは胸を固くする。


 でも私の胸は、固くならなかった。

 固くならないから、息が深い。

 深い息が気持ちいい。

 気持ちいいから、私はここにいる。


 救いがないことが、いちばん楽になってしまった。


 そのとき、隙間の向こうで、かすかな音がした。

 紙が擦れる音。

 口紅の蓋が閉まる音。

 箱が捨てられる音。


 私は見えないのに、分かった。

 “向こう”では、物語が終わっている。

 救われた私と母は、もう覗かれない。


 覗かれないように、赤で塞いだから。

 赤い箱と同じ色で。

 私の唇と同じ色で。


 塞がれたのは、隙間じゃない。

 私の「目」だった。


 覗けないようにしたのに、覗く手順は残った。

 残った手順が、私の代わりに私を動かす。


 私は、何も見えないまま、隙間に目を押し当て続ける。


 その姿が、外から見ればどう見えるか――

 私は、知っている。


 “いい子”は、外から自分を見る子だ。

 外から自分を整える子だ。


 私は、最初から、そうだった。


 そして今。

 私は、ようやく役割に追いついた。


 見えない目で覗く。

 覗くことでしか生きられない。


 救われた私を、救った母を、

 もう二度と覗けないようにするための存在。

 ――覗く側。


 最初から、そうだった。


 私は、息が深いまま、目を閉じた。

 閉じても、真っ黒だった。

 真っ黒が、安心だった。

 安心が、いちばん怖いのに。


 午前二時十七分。

 今日の手順も、完了した。


 そして、私は。

 誰にも見つからない場所で、

 誰も困らない形で、

 手順だけとして残った。


 ――最初から、そうだった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

この四話は、最初から最後まで一貫して、

「救いは存在しているのに、

 それを自分で拒み続ける人」

を描いた物語でした。

・返却箱

・同意書

・覗く手順

・解除できない救い

すべては、 「迷惑をかけたくない」 「期待されたくない」 「ちゃんとしていたい」 という、とても優しい気持ちから始まっています。

でも、その優しさが、 少しずつ本人を消していく。

誰かが悪者になる話ではありません。 この物語に、悪役はいません。

いるのは、 “頑張りすぎてしまった人”だけです。

もし、この作品が心に残ったなら、 どうか、あなた自身は 無理をしすぎないでください。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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