第3話《覗く手順》
視線は、音より先に来る。
背中の皮膚が、薄い布で撫でられるみたいにざわつく。振り向いても、そこには何もない。
何もないことは、安心のはずなのに、安心の形にならない。空気だけが、妙に重い。
私の部屋は静かだ。
静かすぎるから、視線が目立つ。
以前なら、この静けさの中に通知音があった。母の着信。会社からのメール。病院の予約確認。
支えの音。救いの音。音が鳴れば「生きている」感じがするのに、その感じはいつも、私の胸を固くした。
固さがあると息が浅くなる。
浅い息のまま、「大丈夫」と言う。
「大丈夫」を言うたび、世界が回る。
今は回らない。
回らない世界は、息が深い。
深い息は気持ちいい。
気持ちいいから、怖い。
視線は、その深い息の中に混じっていた。
夜、洗面所の鏡の前に立つ。薄いリップを塗る。眉を整える。髪を巻く。
誰も見ないのに、手順だけは残っている。
手順は私を壊さない。
壊さない代わりに、私を残さない。
鏡の中の私は、今日も“ちゃんとしている”。
ちゃんとしている顔をしていれば、相手が安心する。
相手が安心すれば、話が早く終わる。
終わらせたい。
でも、相手がいない。
いないのに、視線だけがある。
私は唇を閉じ、鏡の自分を見つめた。
視線は背中じゃなく、前から来ている気がした。
鏡の奥から、こちらを覗き込まれているような。
私が鏡に近づくと、鏡の私も近づく。
当たり前だ。
当たり前が、怖い。
私は一歩下がった。鏡の私も下がる。
瞬きが、ほんの少し遅れた気がした。
気がしただけだ。
気がしただけなのに、胸の中心が冷たくなる。
見られている。
そう思った。
見られているなら、確かめたい。
確かめれば、安心できる。
安心は救いだ。
救いは胸を固くする。
それでも、私は確かめたくなった。
翌日、私は防犯カメラを買った。
通販サイトの検索窓に「見守りカメラ」と打つ指が、慣れていた。
見守り。優しい言葉。見守りは、見ることを正当化する。
玄関用。室内用。スマホで映像確認。暗視機能。動体検知。録画。
私は「安心」に必要な仕様を選び、支払いを済ませた。支払いが通ることに少し驚いた。
通るなら、私はまだ“対象”に入っている。
対象に入っているのに、安心しない。
安心しないから、また次の確認が欲しくなる。
届いた箱を開けると、プラスチックの匂いがした。新品の匂い。制度や病院の匂いとは違う。
人間の匂いを避けた製品の匂い。
私は玄関の上に一つ、廊下に一つ、寝室の角に一つ、カメラを取り付けた。
説明書の文字は小さく、丁寧で、優しい。優しい文字はいつも、逃げ道を塞ぐ。
設定を終え、画面に映る自分の部屋を見た。
画面の中の部屋は、私の部屋のはずなのに、少し他人の部屋みたいだった。
私がいない部屋。
私がいてもいない部屋。
私はカメラの前を通り、わざと手を振った。画面の中の私も手を振る。
気持ち悪さはなかった。むしろ、整っている。
整っていると、安心する。
安心すると、息が深い。
その夜、私はベッドに入った。眠れなくても、横になる手順は守る。
手順は戻る道みたいに見える。戻る道は怖い。怖いのに、手順だけは残してしまう。残してしまうところが、私らしい。
消灯した部屋で、視線がまた来た。
暗い天井。耳の奥の空調の音。自分の息。深い息。
深い息の中に、視線。
私は枕元のスマホを取って、カメラアプリを開いた。
画面には、暗い部屋。暗視の白い粒。ベッドの端に横たわる私の影。
影があることに少し安心した。影がある。まだ、生きている。
映像には何も映っていない。
動体検知の通知もない。
誰もいない。
それでも、視線が消えない。
私は画面を閉じた。
閉じた瞬間、視線が少し近づいた気がした。
閉じると、見られる。
見ると、少し遠ざかる。
私はまた開いた。画面の中の部屋には何もない。
ないのに、視線がそこにある。
視線は、カメラの外にいる。
カメラの外にいるのは、私。
そんな当たり前の答えが、胸の中で小さく鳴った。
その翌日も、翌々日も、視線は続いた。
私は何度もカメラを確認した。
確認は癖になる。
癖は手順になる。
私は、気づかないふりをした。
気づくと、責任になる。
責任になると、戻る道が生まれる。
戻る道が生まれると、期待が来る。
期待が来ると、胸が固くなる。
固さは、もう嫌だった。
だから私は、見ないでいた。
見ないでいられない夜だけ、見る。
見る夜が増える。
増えるほど、視線が“居場所”を持つ。
ある夜、通知が来た。
動体検知。
時間は午前二時十七分。
私は起きていた。
起きていたのに、通知が来たことが怖かった。
怖さのせいで息が浅くなった。
浅い息は久しぶりだった。
浅さが、懐かしい。
私は寝室のカメラ映像を開いた。
画面の中で、私はベッドにいる。
横たわっている。
動いていない。
なのに通知は来た。
私は廊下のカメラに切り替えた。
廊下の画面に、私がいた。
私は床に伏せていた。頬を床につけていた。
顔を横に向け、向かいの部屋の扉の下の隙間に片目を押し当てるようにして、何かを覗いていた。
息が止まりそうになった。
止まりそうになったのに、止まらない。
止まらない呼吸のまま、私は画面の中の私を見続けた。
画面の中の私は、目だけ動かしていた。
瞬きが遅い。
遅い瞬きの間に、目が乾きそうなのに、乾いていない。
涙がない目。
――涙を返した目。
声が出そうになった。声が出ると、世界が動く。世界が動くと、誰かが来る。誰かが来ると、救いが来る。救いが来ると、私は戻る。
戻りたくない。
戻りたくないのに、目は画面から離れなかった。
画面の中の私は、扉の下の隙間から、長い時間覗き続けた。
動きがない。
迷いがない。
最初から知っている手つき。
やがて、私の肩が少しだけ上下した。
息を吐いた。
吐いた息は見えないのに、床に落ちた気がした。
そして、ゆっくりと立ち上がり、何事もなかったように寝室へ戻り、ベッドへ入った。
画面の中の私は、さっきまで私がいた場所に戻った。
戻ったのに、私は戻れなかった。
私はスマホを握りしめた。手のひらに汗が出た。
汗は生きている証拠だ。
証拠は救いの入口だ。
入口が開くと、私は苦しくなる。
私は、過去の録画を遡った。
昨日。午前二時十七分。
私が床に伏せて覗いている。
一昨日。午前二時十七分。
同じ。
三日前。午前二時十七分。
同じ。
一週間前。午前二時十七分。
同じ。
私は唇を噛んだ。
噛んでも痛くない。
痛くないのが怖かった。
覗いている私が、毎晩いる。
毎晩同じ時間にいる。
それが、手順になっている。
覗きたくないのに覗いてしまう。
覗いてしまうことを、私は覚えていない。
覚えていないのに、身体は正確に動く。
私はさらに遡った。
遡る指が、勝手に止まらなかった。
二週間前。
三週間前。
画面が一度、黒くなった。
読み込み中の輪が回った。
回る輪は、世界が回るときの音がしない。
そして、録画一覧が出た。
設置日以前の録画が、そこにあった。
私は息を呑んだ。
設置していない。
録画は存在しないはずだ。
私は、開いた。
薄暗い廊下。
画角は、今の廊下カメラと同じ。
なのに、映像の端に、配線がない。
カメラ本体も映り込んでいない。
“カメラの目”だけが、最初からそこにある。
その廊下で、私が床に伏せて覗いていた。
服が違った。
髪型も違った。
その日、私は病院にいた。
診察室で「守るためです」と言われていた日だ。
私はその時間、ここにいない。
いないのに、いる。
録画の中の私は、片目を隙間に押し当て、覗いている。
同じ姿勢。
同じ時間。
午前二時十七分。
私はスマホを落としそうになった。
落とすと音が鳴る。
音が鳴ると世界が回る。
回るのが怖い。
だから私は落とさなかった。
落とさない手順だけが、残っている。
翌朝、私は廊下にしゃがんで、向かいの扉の下の隙間を見た。
隙間の向こうは暗い。玄関の外の暗さに似た暗さ。
何もない暗さ。なのに、重い暗さ。
向かいの部屋を知らない。
入居者の顔も知らない。
いつから住んでいるかも知らない。
でも、私の身体は知っている。
私は昼間、向かいの扉の前に立った。
郵便受けにはいくつかチラシが差し込まれていて、抜かれた形跡がない。
ドアノブは冷たい。
カーテンの影も見えない。
空室かもしれない。
空室なら、覗く理由がない。
理由がないのに覗くのは、手順だからだ。
私は自分の部屋へ戻り、机の上に置いていた紙束を見た。
会社の封筒。完了通知。
「必要な取扱いを完了しました。」
あの温度。
丁寧で、冷たい。
取扱い。対象。対象外。照合。確認。
それらの言葉が舌の上に載ると、すぐ冷たくなる。
冷たい言葉は、世界を整える。
整った世界は、息が深い。
深い息は、気持ちいい。
気持ちいいから、怖い。
夜が来た。
私は眠らないことにした。
眠らなければ、覗かない。
覗かなければ、手順を止められる。
止められれば、私は私だ。
私はコーヒーを淹れた。苦い。
苦さが口の中に残る。
苦さは生きている証拠だ。
証拠は怖い。
時計を見る。午前二時。
胸の中心が固くなる。
固さと一緒に、視線が来た。
背中じゃない。
床からでもない。
もっと近い。
――自分の目の裏側から。
私はソファに座り、スマホを開いた。
廊下のカメラ映像。
画面の中の廊下は静か。
静かな廊下は、私の内側みたいだった。
午前二時十六分。
私は息を吸った。
深い。
深い息のはずなのに、胸の中心が固い。
午前二時十七分。
通知が鳴った。動体検知。
私は同時に、身体が動くのを感じた。
腰が床へ向かう。
膝が折れる。
手が床につく。
頬が床に近づく。
冷たい。
冷たい床の感触が、懐かしい。
懐かしいことが、いちばんおかしい。
私は止めようとした。
止めようとすると、胸が固くなる。
固くなると息が浅くなる。
浅い息は、救いの入口だ。
入口が開くのが怖い。
私は止められなかった。
頬が床についた瞬間、視線が落ち着いた。
視線は、ここに居場所がある。
居場所を与えたのは、私だった。
私は扉の下の隙間へ目を押し当てた。
覗きたくない。
覗きたくないのに、覗く手順が正確に進む。
向かいの部屋の扉の下は暗い。
暗いはずだった。
そこに、白いものがあった。
目。
扉の下の隙間の向こうで、目がこちらを見ていた。
床に頬をつけた目。片目だけの目。
私の目。
私は息を呑んだ。
呑んだ息は浅い。
浅い息のまま、私は目を離せなかった。
向こうの目が瞬いた。
遅い。
鏡の中で、ほんの少し遅れて瞬く目。
私は理解した。
見られているのではない。
見ているのだ。
私が向こうを覗いているのと同じように、向こうの私もこちらを覗いている。
覗かれていると感じていた視線は、向こうの目の視線ではなく、覗くときの自分の視線だった。
視線は外から来るものではなかった。
視線は、私が生み出していた。
覗くことで、私は自分を確認していた。
確認して、整えていた。
息が浅くなる。
浅くなると、胸が固くなる。
固い胸は、昔の私だ。
昔の私が戻ってきた。
戻ってきたのに、私は戻りたくない。
向こうの目が、わずかに笑った気がした。
笑ったというより、目元の筋肉が動いただけ。
それだけで、分かった。
“いい子”の顔だ。
相手を安心させる笑い方。
安心させると話が早く終わる笑い方。
私は声を出そうとした。
「誰?」
「何?」
「やめて」
どれも、言葉にならなかった。
言葉になると、関係が成立する。
関係が成立すると、期待が生まれる。
期待が生まれると、私は「大丈夫」を言う。
「大丈夫」を言うと、世界が回る。
回りたくない。
私はただ、目を見た。
向こうの目も、こちらを見た。
互いに、覗いている。
覗き合う視線は、鏡みたいだった。
でも鏡より、たちが悪い。
鏡は私の動きに合わせるだけだ。
向こうの私は、私を見ている。
私を確認している。
確認されると、私は整えられる。
整えられると、世界が滑らかになる。
滑らかになると、私は息が深い。
深い息が気持ちいい。
私は、気持ちよさに負けたくなかった。
負けたくないのに、身体がここにある。
頬が床にくっついている。
手順が完了している。
その瞬間、思い出した。
赤い箱。
箱の前に立つと画面が光る。
返却しますか?
質問じゃない。
確認だ。
覗くのも同じだった。
覗きますか?
問いではない。
私が私にする確認。
向こうの目が、ゆっくりと離れた。
隙間の向こうへ引っ込む。
それを合図みたいに、私の身体も動き始めた。
頬が床から離れる。
膝が伸びる。
立ち上がる。
戻る。
私は自分の部屋へ戻った。
何事もなかったようにベッドに入った。
私は天井を見た。
視線は消えていた。
消えているのに、安心しなかった。
安心しないから、また明日も確認したくなる。
私はスマホを開き、廊下カメラの録画を再生した。
そこには、床に伏せて覗く私が映っている。
それだけ。
向こうの目は映っていない。
向こうの私も映っていない。
映っていないのに、私は見た。
確かに見た。
見たことがある。自分の目で。
見たものは、証拠にならない。
証拠にならないから、誰にも説明できない。
説明できないから、救いを呼べない。
呼べないから、息が深い。
深い息を吸った瞬間、胸の中心が少しだけ固くなった。
固さは、戻る道の匂いだ。
戻る道の匂いは、怖い。
私はスマホを置いた。
置いたのに、視線が戻ってきた。
今度は背中じゃない。
床からでもない。
内側から。
自分の目の裏側が、こちらを見ている感じ。
私は気づいた。
覗いているのは、向こうの私だけじゃない。
こっちの私も、いつも覗いている。
母の顔を見ながら、母の反応を覗く。
上司の顔を見ながら、上司の安心を覗く。
医師の言葉を聞きながら、世界が回るのを覗く。
私はいつも、外から自分を見ていた。
“いい子”は、そういう子だ。
空気を読む子。
相手を安心させる子。
自分を外から監視する子。
私は、最初からそれをやっていた。
それが手順だった。
手順が生活だった。
生活が顔だった。
だから私は、消えていくのが気持ちよかった。
監視し続けるのは疲れる。
疲れたら壊れる。
壊れたら、また「戻る」を要求される。
戻りたくない。
戻りたくないと言えない。
言えないなら、手順で消すしかない。
覗く手順。
返却の手順。
同意しない手順。
署名を空ける手順。
連絡を断つ手順。
優しい顔で、私を薄くする手順。
午前二時十七分は、その象徴だった。
毎日同じ時間。
同じ姿勢。
同じ視線。
私は自分の体温を確かめるみたいに、向こうの私を確かめている。
向こうの私は、こっちの私を確かめている。
確かめ合うことで、私たちは整ってしまう。
整ってしまうことが、一番怖い。
翌日、私は駅前へ行った。
用事はない。
ただ歩けるから歩く。
歩ける私は、助かっているはずだ。
助かっているのに、誰も見ない。
見ないから、息が深い。
深い息が気持ちいい。
駅前の通りに、赤い箱がいた。
箱は静かに立っていた。
私は立ち止まった。
覗き込むと、黒い画面が光った。
返却履歴:息/涙/名前/影
保管状態:稼働中
稼働中。
誰が?
私が。
画面が変わる。
返却対象:証人
— あなたを知っている人 —
母の顔が浮かんだ。
会社の上司。人事の女性。産業医。近所の人。
私を呼ぶ声。
私の名前。
私を成立させる目。
証人が消えれば、私は最初から存在しない。
存在しないなら、救いも来ない。
救いが来ないなら、息が深い。
私は箱の前で、胸の中心が固くなるのを感じた。
固さは久しぶりだった。
久しぶりの固さは、少しだけ温かい。
温かいのが怖い。
温かいと、戻るから。
私は箱に手を伸ばしかけて、止めた。
止められる自分がいる。
止められることが、怖い。
そのとき、背後から声がした。
「佐伯さん?」
私は振り向いた。
そこに、私がいた。
私より少しだけ輪郭が濃い私。
影がある私。
息をしている私。
泣ける私。
名前で呼ばれて返事ができる私。
その私が、優しい顔で笑った。
“いい子”の笑い方。
相手を安心させる笑い方。
安心させると話が早く終わる笑い方。
「大丈夫。戻れるよ」
戻れる。
救いの言葉。
柔らかい手で肩をつかむ言葉。
胸の中心が固くなる。
固くなると息が浅くなる。
浅い息のまま、私の口が勝手に動いた。
「大丈夫」
それだけが言える。
それだけが残っている。
残っていることが、怖い。
私の「大丈夫」と、目の前の私の「大丈夫」が重なった。
重なった瞬間、赤い箱の画面が光る。
最終確認:統合しますか?
そこに「はい」と「いいえ」が並んでいた。
並んでいるのに、私は触っていない。
触っていないのに、
「いいえ」だけが最初から薄くなっていた。
押せない。
押せないはずなのに、画面の端に小さな文字が出る。
処理中。
私は息を吸った。深い。
深い息のまま、胸の中心が固くなる。
固さは、戻る道の匂いじゃない。
戻る道が、こちらを選ぶ匂いだった。
目の前の私が、もう一度笑った。
安心させる笑い方。
話が早く終わる笑い方。
だから私は、口が勝手に動く。
浅い息のまま。
「大丈夫」
その瞬間、画面が切り替わった。
完了。
私は、選んでいない。
選んでいないのに、選んだことになっている。
それが一番、息が深い。
深いのに、私はもう、吐き方を思い出せなかった。
その夜。
午前二時十七分。
私はまた、床に頬をつけていた。
覗きたくない。
覗きたくないのに、身体は正確にそこへ戻る。
手順が、私の代わりに私を動かす。
動かされると、息が深い。
深い息は気持ちいい。
扉の下の細い隙間の向こうで、
同じ私が、同じようにこちらを見ている。
今夜は、目の白さが同じだった。
瞬くタイミングまで揃っていた。
見られているのではなかった。
見ていたのは、最初から私だった。
それが手順になったとき、
私はもう、誰にも消されていなかった。
私が、私を消していた。
――最初から、そうだった。




