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第2話 同意書

 紙は、やけに厚かった。

 白というより、少しだけ灰色が混じっていて、指先にざらつきが残る。

 病院の受付で渡される書類に似ているのに、病院の匂いがしない。

 消毒液でも、薬でもない。

 代わりに、乾いたインクとコピー機の熱の匂いがした。


 私はその紙束を膝の上に置いて、背筋を伸ばした。

 背筋を伸ばすのは癖だ。

 姿勢が整っていると、相手が安心する。

 相手が安心すると、話が早く終わる。

 終わらせたい。

 でも終わらせたら、次が来る。


 会議室の窓は閉まっていて、空調の音だけが一定に鳴っている。

 机の向こうに、上司と人事の女性と、産業医が座っていた。

 三人とも、笑顔が上手だ。


「体調、落ち着いてきたそうですね」


 産業医が言った。

 私は頷いた。


「はい。

 おかげさまで」


 おかげさまで、という言葉が口から出るのは、もう反射だ。

 感謝を言うと、場が丸くなる。

 場が丸くなると、こちらの“本音”は不要になる。


 人事の女性が、紙束を指で揃える。


「今日は、復職支援プログラムのご案内と、同意書の確認です」


 同意書。

 その単語が、喉の奥で軽く引っかかった。

 同意書なんて、今まで何度も書いた。

 個人情報の取扱い。

 健康情報の提供。

 面談の実施。

 どれも“普通”だ。

 普通は怖くない。

 普通は、世界を壊さない。

 だから普通は、逃げ場がない。


「内容は難しくありません」


 人事の女性は、優しい声で言った。


「佐伯さんを守るためのものです。

 無理のない形で戻れるように」


 守るため。

 戻れるように。

 救いの言葉が、机の上に並ぶ。

 並ぶたびに、私の胸は固くなる。

 固くなると息が浅くなる。

 浅い息のまま、私は笑う。


「ありがとうございます」


 私は“いい子”の顔で言った。


 書類の一枚目には、大きくタイトルが印刷されていた。

 復職支援プログラム 同意書(本人用)


 その下に、箇条書きで「支援内容」が並ぶ。

 ・勤務時間の調整

 ・業務量の段階的な復帰

 ・定期面談(上司・人事・産業医)

 ・必要に応じた医療機関連携

 ・緊急時連絡体制


 読めば読むほど、完璧だった。

 私は救われる。

 救われるべき人として扱われている。

 扱われているのに、胸が重い。

 支援は、優しい顔で“未来”を押し付ける。

 未来がある前提で、私を立たせる。

 立てたら、また期待が来る。

 期待が来たら、私はまた「大丈夫です」を続ける。


 私は“戻れる”ことが怖かった。


 人事の女性が、赤い付箋を貼った箇所を示した。


「ここだけ、必ずチェックと署名をお願いします」


 付箋の場所には、太字でこう書かれていた。

 同意の有無について(必須)


 私は本プログラムの実施について、以下のいずれかにチェックし、同意します。

 □ 同意する

 □ 同意しない


 私はペンを握った。

 握った瞬間、手のひらに汗が出る。

 同意する、が“正解”だ。

 この場にいる三人の目が、それを当然のように待っている。


 私は思った。

 同意しない、にチェックしたらどうなる?

 たぶん、延期だ。

 もう少し休んでいい。

 まだ決めなくていい。

 今は戻らなくていい。


 その「まだ決めなくていい」が、甘く聞こえた。

 甘さは、危険だ。

 危険なのに、私は甘い方を選びたくなる。


 私はゆっくりと、□同意しない、にチェックを入れた。

 ペン先が紙を擦る音が、会議室の空調音より大きく聞こえた。


 人事の女性の笑顔が、ほんの少しだけ止まる。

 止まったのに、すぐ戻る。


「……承知しました。

 もちろん、無理はさせません」


 上司が頷く。


「焦らなくていいよ。

 体が第一だ」


 産業医も言う。


「今は守る時期ですね。

 いい判断です」


 救いの言葉が、ちゃんと出る。

 世界は壊れない。

 壊れないのに、私は少しだけ楽になった。

 期待が一段下がった気がした。

 私はそれが嬉しかった。

 嬉しい、が怖い。

 嬉しいのは、本音だ。

 本音は、後で必ず責任になる。


 人事の女性が続けた。


「では、次のページも確認ください。

 同意しない場合の扱いです」


 二枚目のタイトルは、少し硬かった。

 同意しない場合の取扱い(確認)


 そこには、淡々と条項が並んでいた。

 1. 本プログラムは実施されない

 2. 産業医面談は任意となる

 3. 会社は復職時期を確約しない

 4. 勤務上の配慮は原則適用外となる

 5. 連絡体制は、本人からの申し出があるまで停止する


 停止する。

 その言葉が、胸の固い中心を軽く叩いた。

 停止。

 連絡が止まる。

 確認が止まる。

 「大丈夫?」が止まる。

 止まったら、私は息ができる。


 私は自分の中で、はっきりそう思ってしまった。

 そして、その思いが“誰にも言わなくていい解決”に見えた。


 救いはある。

 でも救いは、見られる。

 救いの中では、私は“治っていく人”を演じなきゃいけない。

 演じなくていい方が、楽だ。


 人事の女性が、また付箋を貼った場所を指す。


「ここも必須です。

 確認の署名を」


 付箋の先には、こう書かれていた。

 私は、上記の取扱いについて理解し、同意します。

 署名:_______ 日付:______


 理解して、同意します。

 同意しない、に同意する。

 言葉の形が、少し変だった。

 でも私は、ペンを置けなかった。

 置いたら、この場が長引く。

 長引けば、心配が増える。

 心配は救いの顔をして、私の首に巻きつく。


 私は署名欄に、自分の名字と名前を書いた。

 書き慣れた形。

 書き慣れた線。


 それが紙に乗った瞬間、会議室の空気が一段、静かになった。


 上司が笑った。


「じゃあ、しばらくは休むことに集中しよう」


 人事の女性も言った。


「必要なときは、いつでも連絡くださいね。

 こちらからは一旦、控えます」


 控えます。

 その言葉は優しい。

 優しいのに、私は身体の奥が冷えるのを感じた。

 控える、は保留じゃない。

 停止だ。

 停止は、戻る道を細くする。

 細くなるのに、私は安心してしまった。


 家に帰った。

 玄関で靴を脱ぐ。

 手を洗う。

 化粧を落とす。

 鏡の中の自分は、疲れているのに、きちんとして見える。


 私は、薄いリップが好きだ。

 濃い色は「私はここにいる」と主張する。

 私は主張が怖い。

 主張すると、輪郭が強くなる。

 輪郭が強い人は、求められる。

 求められるのが怖い。


 スマホを見る。

 母からの着信が一件。

 「今日どうだった?」というメッセージ。


 私は返信しようとして、指が止まった。

 返したら、救いが始まる。

 返したら、心配が続く。

 心配が続けば、私はまた“いい子”の返事を続ける。


 私は画面を閉じた。

 閉じた瞬間、胸の固さが少し溶けた。

 息が入った。

 私は息が入ったことに驚いた。

 救いを断つと、息ができる。

 それが、私にとっての答えになってしまう。


 翌日、会社から連絡は来なかった。

 人事からも、産業医からも、上司からも。

 母からの着信も、なぜか来なかった。


 おかしい、と思った。

 でも、おかしいのに、胸は軽かった。

 軽いのが怖い。

 怖いのに、軽さが欲しい。


 私は昼、駅前へ出た。

 返却箱の前を通るときと同じ道。

 でも今日は、目的地があるわけじゃない。

 ただ、歩けるから歩く。

 薬局に寄り、ミネラルウォーターを買う。

 コンビニでおにぎりを買う。

 私はちゃんと食べられている。

 ちゃんと生きている。

 だから、助かっているはずだ。

 助かっているのに、誰も見ていない。

 その“見ていない”が、気持ちよかった。


 数日後、郵便受けに封筒が入っていた。

 会社のロゴ。

 薄い茶封筒。

 中には、追加の書類が一枚だけ。


 復職支援プログラム 同意撤回・再同意書


 紙は、前回と同じ厚さだった。

 同じざらつき。

 同じ匂い。


 私はソファに座り、紙を開いた。

 最初の一行が、刺さった。


 現在の同意状況:同意しない(有効)


 有効。

 停止が有効。

 控えるが有効。

 連絡停止が有効。

 有効なら、世界はこのまま進む。

 進むほど、私の存在は軽くなる。


 私は紙の下の方を見る。

 □ 同意を撤回し、同意する

 □ 同意しない状態を継続する

 その下に、署名欄。

 署名:_______


 私はペンを取った。

 取った瞬間、胸が固くなる。

 撤回して同意する。

 それが救いだ。

 救いがある。

 今なら間に合う。

 でも、救いは“戻ること”を要求する。

 戻ると、期待が来る。

 期待が来ると、私はまた「大丈夫です」で回る。

 回れない。

 回りたくない。

 回りたいと言えない自分が嫌だ。


 私は、□同意しない状態を継続する、にチェックを入れた。


 その瞬間、スマホが震えた。

 着信。

 母。

 私は一瞬、息が止まった。

 救いが来た。

 まだ繋がっている。

 私は出ようとした。

 でも、指が画面に触れた瞬間、着信が消えた。

 電波が切れたわけじゃない。

 着信履歴にも残っていない。

 まるで、最初から鳴っていなかったみたいに。


 私は喉の奥が乾いた。

 そして、胸の固さが溶けた。

 息が入る。

 助かる道が消えると、息ができる。

 私の中で、何かが合ってしまった。


 翌朝、私は外に出た。

 近所の人が私を見て、会釈した。

 私は会釈した。


「……あら」


 近所の人が、小さく言った。

 私の後ろに視線を流す。


「最近、見ないと思ってたの。

 お母さん元気?」


 私は笑って言った。


「元気です」


 近所の人は首を傾げる。


「え、あなた……誰の……?」


 私は笑顔を崩さなかった。

 笑顔は鎧だ。

 女性らしさは、場を丸くする。


「すみません、急いでて」


 私は通り過ぎた。

 通り過ぎながら、胸の中心が冷たくなる。

 でも、息は入っている。


 私は、気づき始めた。

 同意書は、ただの確認じゃない。

 同意書は、扱いを決める。

 扱いが決まると、世界が揃う。

 揃う世界の中で、私は“連絡しない方”として扱われる。

 扱われ続けると、私の輪郭が薄くなる。

 薄い輪郭は、期待されない。

 期待されない私は、息ができる。

 私は、その呼吸に慣れ始めていた。


 書類の下部に、小さな注意書きがあった。

 ※同意しない状態が継続した場合、支援の提供は停止されます。

 ※停止期間中、必要な連絡は本人からの申し出により再開できます。


 再開できる。

 申し出ればいい。

 救いは、まだ残っている。

 自分から手を伸ばせばいい。


 私はその文を見て、指先を止めた。

 申し出る。

 助けてと言う。

 私は、それを言ったことがない。

 助けてと言うと、相手が動く。

 相手が動くと、私は感謝しなきゃいけない。

 感謝すると、次も期待される。

 期待されるのが怖い。

 怖いのに、怖いと言えない。

 言えないなら、仕組みで切るしかない。


 同意書は、仕組みだ。

 仕組みは、誰も傷つけない顔をする。

 誰も傷つけないまま、私だけを消していく。

 私はそれが、優しいと思ってしまった。

 優しいと思った瞬間、私はもう戻れない。


 封筒の奥に、もう一枚入っていた。

 薄い紙。

 コピー用紙に近い。

 タイトルだけが黒かった。


 最終確認(任意)


 任意。

 任意なのに、付箋が貼られている。

 赤い付箋。

 「ご確認ください」と小さく書かれている。


 私は読んだ。

 同意しない状態を継続する場合、以下の項目についても選択できます。

 □ 支援停止に伴う連絡(会社・医療・家族)を希望しない

 □ 緊急時連絡先の登録を解除する

 □ 本人確認のための氏名表記を省略する

 □ 記録保管の対象から外れることを希望する


 最後の一行で、指先が冷たくなった。

 記録保管の対象から外れる。

 外れる、と書いてある。

 削除ではない。

 ただ、対象外。

 対象外は、誤りじゃない。

 誤りじゃないから、誰も直そうとしない。


 私は、ここに“救い0”の完成形を見た。

 救いはある。

 でも、救いの窓を自分で閉める手順が、用意されている。

 用意されているなら、選べる。

 選べるなら、自己責任になる。

 自己責任になったら、誰も追ってこない。

 追ってこないのは、息ができる。


 私は、□支援停止に伴う連絡を希望しない、にチェックを入れた。

 次に、緊急時連絡先解除。

 その次に、氏名表記省略。

 最後に、記録保管対象外。


 一つずつチェックを入れるたびに、胸が軽くなる。


 私はペン先で、最後の欄に自分の署名を書こうとした。

 けれど、文字が出てこなかった。

 自分の名前を思い出せない。

 思い出せないのに、焦らない。

 焦らないのが、怖い。

 でも焦ると、戻る道が開く。

 私は戻りたくない。


 私は、署名欄を空白のままにした。

 そして日付だけを書いた。

 日付は書ける。

 時間は書ける。

 でも名前は書けない。

 それが“正しい”気がした。


 その夜、家の中が静かだった。

 スマホは鳴らない。

 通知も来ない。

 メールもない。


 私は鏡の前に立ち、薄いリップを塗った。

 眉を整えた。

 髪を巻いた。

 女性らしさは、まだある。

 “ちゃんとしている”顔は作れる。

 作れるのに、その顔を見てくれる人がいない。

 私は少しだけ安心した。

 見てくれる人がいないなら、演じなくていい。

 演じなくていいのに、演じる。

 それは、私の手順だ。

 手順は、私を壊さない。

 手順は、私を残さない。


 私は息を吸った。

 胸が固くない。

 息が深い。

 救いを断ったら、息ができる。

 その仕組みを作ったのは、私だ。

 私がチェックを入れた。

 私が署名を空けた。

 だから、誰のせいにもできない。

 それが、一番楽だった。


 数日後、駅前で、母とすれ違った。

 私は一瞬で分かった。

 母の歩き方。

 バッグの持ち方。

 肩の角度。


 母は私の横を通り過ぎた。

 目も合わない。


 私は足を止めた。


「……お母さん」


 声が出た。

 久しぶりに、自分の声が誰かに向いた。


 母が振り向く。


「……はい?」


 知らない人を見る顔だ。

 丁寧で、少し警戒が混じっている。


 私は笑顔を作った。

 笑顔は鎧だ。

 鎧を着ると、私は“いい子”になる。


「私……」


 私は言おうとして、言葉が出なかった。

 名前がない。

 名乗れない。

 名乗れないなら、関係が成立しない。

 関係が成立しないなら、救いが始まらない。

 胸が軽くなる。


 母は一礼して、去ろうとした。


 私は、追いかけられた。

 追いかければ助かる。

 今なら、助かる道がある。

 でも、追いかけたら、また期待が来る。

 期待が来たら、私はまた「大丈夫です」で回る。

 私は回りたくない。

 回りたくないと言えない自分が嫌だ。


 だから私は、追いかけなかった。


 母が遠ざかる。

 遠ざかるほど、息が深くなる。

 私はその深い息の気持ちよさを、否定できなかった。


 夜。

 郵便受けに、最後の封筒が入っていた。

 会社のロゴ。

 薄い茶封筒。

 中には、カード一枚。


 完了通知


 たったそれだけ。

 説明はない。

 慰めもない。

 責めもない。


 裏に、小さな文字。

 同意状況に基づき、必要な取扱いを完了しました。

 再開を希望する場合は、本人よりお申し出ください。


 再開できる。

 申し出れば助かる。

 助かる道は、最後まで残されている。


 私はカードを握りしめた。

 申し出ればいい。

 「助けて」と言えばいい。

 母に、会社に、医師に。

 言えば、救いが戻る。


 でも、救いが戻ると、私の胸は固くなる。

 期待が戻る。

 役割が戻る。

 いい子が戻る。


 私は、戻りたくない。

 戻りたくない、と言えない自分が嫌だ。


 だから私は、仕組みに任せる。

 仕組みは優しい。

 優しい顔で、私を“最初からそうだった”側へ運ぶ。


 私はカードを引き出しに入れ、引き出しを閉めた。

 閉めた瞬間、息が入った。

 深い。

 私は笑いそうになった。


 救いはある。

 私は知っている。

 知っていて、申し出ない。

 申し出ないことが、私の選択になる。

 選択になったら、もう誰も私を引っ張れない。

 誰も引っ張れないから、私は軽い。


 軽いまま、私は鏡の前に立つ。

 薄いリップを塗る。

 眉を整える。

 髪を巻く。

 “ちゃんとしている”顔が出来上がる。

 出来上がった顔を、誰も見ない。


 見られないのに、私は微笑む。

 微笑みは手順だ。

 手順は、私の最後の輪郭だ。


 私はその輪郭を守るために、助けを捨てた。

 救いがあるのに。

 救いの窓が開いているのに。

 私は、自分で閉めた。


 そして世界は、何事もなかったみたいに回る。

 最初から、そうだったみたいに。

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