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1話 返却箱

この物語は、

「誰かに傷つけられる話」ではありません。


誰かに強制されることも、

誰かに閉じ込められることもありません。


ただ、

“いい子”でい続けた結果、

自分で自分を薄くしていった人の話です。


もし読んでいて、

「これ、少し分かるかも」と思ったなら、

それはあなたが優しい人だからです。


どうか、最後まで見届けてください。

 駅前の通りに、赤い箱が置かれたのは、春の始まりだった。


 背の低い金属製で、郵便ポストより少しだけ細い。

 側面には白い文字でこう書いてある。

 返却箱

 — なくしたものは、ここへ —


 最初に見たとき、私は笑った。

 誰が、何を返すのだろう。

 落とし物なら交番だし、忘れ物なら駅だ。

 でも、その箱は交番より人が集まった。

 通りすがりの人が、立ち止まって覗く。

 覗いて、黙って去る。

 ひとりだけ、そっと何かを入れる人もいた。

 入れるものが、見えない。

 袋でも、封筒でもない。

 手ぶらで近づいて、手ぶらで離れる。

 私は、その仕草が妙にきれいだと思った。

 余計な動きがない。

 迷いがない。

 “最初から知っていた”みたいな手つき。


 私が「戻れる」側にいることは、誰の目にも明らかだった。

 休職は通った。

 上司は「席は残す」と言った。

 同僚は「無理しないで」と言った。

 医師は「良くなっている」と言った。

 母も、毎日電話をくれた。


「今日はどう?

 眠れた?」


「食べられた?」


「焦らなくていいよ」


 救いの言葉は、柔らかい。

 柔らかいのに、私の胸は固くなる。

 固くなると息が浅くなる。

 浅い息のまま、私は返事をする。


「うん。

 大丈夫」


 大丈夫。

 その言葉だけが上手に出る。

 私は昔から、そういう子だった。

 褒められる子。

 手がかからない子。

 空気を読む子。

 ――“いい子”。

 いい子は、救われる。

 救われるから、戻る。

 戻って、期待に応える。

 その循環が、私には怖かった。

 救いは、温かい手で肩をつかむ。

 「大丈夫」と言った瞬間から、離してくれない。


 返却箱の前を通ったのは、病院の帰りだった。

 診察はいつも同じだ。

 順調、整ってきた、復職も考えていい。

 私は笑って頷く。

 頷くと医師が安心する。

 医師が安心すると世界が回る。

 世界が回ると、私はまた“ちゃんとした顔”をする。


 駅前の通りは、人が多い。

 その中で、赤い箱は静かに立っていた。

 私は立ち止まり、箱の口を見た。

 薄いスリット。

 指先が入るくらいの隙間。

 上には小さな表示窓がある。

 紙も説明もない。

 ただ、黒い画面。


 私が覗き込んだ瞬間、画面が光った。

 返却しますか?

 文字だけが出た。

 操作ボタンはない。

 触れる場所もない。

 なのに、私は理解した。

 ここは“質問”じゃない。

 “確認”だ。


 私は一歩引いた。

 すると、画面の文字が変わった。

 返却対象:息


 息。

 私は息を吸おうとして、胸の中心が固いのに気づいた。

 いつもの固さ。

 いつもの浅さ。

 息が、返却対象?

 ばかばかしい。

 そう思ったはずなのに、私は体の奥が少し軽くなるのを感じた。

 返せる。

 返したら、軽くなる。

 軽くなったら、何も背負わなくていい。

 救いより、軽さの方が近かった。


 私は、箱に近づいた。

 何かを持っているわけじゃない。

 でも、手は自然に動いた。

 胸に指を当てる。

 息を、ひとつ吐く。

 吐いた息が、見えないはずなのに、箱の中に“落ちた”気がした。


 その瞬間、画面が変わる。

 返却完了


 私は立ち尽くした。

 肺が、静かになっていた。

 苦しくない。

 でも、息が入らない。

 入らないのに、怖くない。

 怖くないことが、怖かった。


 その日から、私は少しずつ変になった。

 人と話していても、息が途切れない。

 驚いても呼吸が速くならない。

 泣きたくても、涙が出ない。

 感情が鎮まったのではない。

 感情が“届かない”。


 私は母からの電話に出て、「うん」と言う。

 いつもより平坦な声で。


「声、元気になった?」


 母が言った。

 元気、という言葉が胸を叩く。

 叩くのに、響かない。


「元気だよ」


 嘘ではない。

 元気という状態の定義が、私の中で消えただけだ。


 夜、鏡を見る。

 顔は同じ。

 眉も整っている。

 リップも薄い色。

 女性らしさは残っている。

 残っているのに、“私”が薄い。


 私は、救われている。

 救われているのに、戻らなくていい。

 その快感が、舌の裏に残った。

 誰にも見せない快感。

 誰にも褒められない快感。

 それが、私の中で育ち始める。


 二度目に返却箱へ行ったのは、数日後だった。

 理由はなかった。

 ただ、足がそっちへ向かった。

 箱の画面が光る。

 返却対象:涙


 涙。

 私は、最近泣いていない。

 泣きたいのかも分からない。

 でも、返せるなら返したいと思ってしまった。

 涙を返したら、何が起きる?

 悲しくなくなる?

 それは救いだろうか。

 違う。

 それは“軽さ”だ。


 私は、目を閉じた。

 泣くふりをした。

 泣けないのに、泣く手順だけをなぞった。

 まぶたの裏が熱くなる。

 でも、何も落ちない。


 それでも、箱の画面が変わった。

 返却完了


 私は笑いそうになった。

 箱は、実際の涙を必要としていない。

 必要なのは、私が「返す」と決めることだけ。


 救いもそうだ。

 救いが必要としているのは、私の回復じゃない。

 “戻る”と決めること。


 私は逆をやっている。

 私は“戻らない”と決めている。

 決めるだけで、世界が揃う。


 その後、返却対象は増えた。

 返却対象:食欲

 返却対象:睡眠

 返却対象:返事

 返却対象:気遣い


 私は笑った。

 気遣いが返却対象になるのが、あまりに私らしい。

 私は気遣いで生きてきた。

 気遣いで評価され、

 気遣いで守られ、

 気遣いで首を絞められてきた。


 返せるなら、返す。

 返したい。

 返したら、軽い。

 軽い世界では、私は「いい子」でいなくていい。


 私は箱に近づき、何も持たずに返す。

 返すたびに、私の内側が削れていく。

 削れるのに、痛くない。

 痛くないのが、一番危ない。


 母からの電話が増えた。


「最近、返事が短いよ」


「何かあった?」


「ちゃんと食べてる?」


 私は言う。


「大丈夫」


 その声の平坦さに、母は黙る。


「……会いに行こうか」


 会いに来られるのは、救いだ。

 救いなのに、胸が固くなる。

 人が来ると、私は私を演じる。

 演じる私を見て、母は安心する。

 安心すると、母は「よかった」と言う。

 よかったと言われると、私は戻らなきゃいけない。

 戻りたくない。


 戻らないために、私は返却箱へ行く。

 救いから逃げるために、救いを捨てる場所へ行く。

 自分で。


 ある日、箱の画面に、見慣れない項目が出た。

 返却対象:名前


 私は息が止まりそうになった。

 息はもう返したはずなのに。


 名前。

 返したら、どうなる?

 誰からも呼ばれなくなる?

 それは怖いはずだ。

 でも私は、怖さより先に軽さを想像した。


 名前を呼ばれると、返事をする。

 返事をすると、関係が成立する。

 関係が成立すると、役割が生まれる。

 役割が生まれると、私は「いい子」になる。


 名前を返せば、役割は生まれない。

 役割が生まれなければ、期待も生まれない。


 私は、箱の前で立ち尽くした。

 救いがあるのに。

 助かる道はあるのに。

 私は、わざわざ「助からない方」を選ぼうとしている。

 その自覚が、胸を締めた。

 締めたのに、私は箱から離れなかった。


 私は指先を喉に当てた。

 自分の名前を、心の中で一度だけ発音する。

 それを、箱へ落とす。

 落とす感覚があった。

 言葉の重さが、スリットを通って消えた。


 画面が変わる。

 返却完了


 私は立っている。

 でも、足元が少し浮いた気がした。


 翌日、会社からメールが来た。

「復職面談の日程を相談したいです」


 私は読んで、返信しようとして手が止まった。

 自分の名前で署名を入れる欄がある。

 いつもの締め。

 ――佐伯

 その文字が、私の中で空洞になる。

 私は書けない。

 書けないのに、困らない。

 困らないのが、怖い。


 母からの着信も、画面に「母」と出る。

 母、という役割名は出る。

 でも、私の名前は出ない。

 私は出て、いつも通り「うん」と言う。


 母は言う。

「……呼ぶね。

 名前」


 母は私の名前を呼んだ。

 何度も。

 昔みたいに、少し優しく、少し焦って。


 私は返事をしなかった。

 できなかった。

 “呼ばれる側”が、もういない。


 母の声が震えた。

「ねえ、何してるの?」


 私は言った。

「大丈夫」


 それだけは言える。

 大丈夫、だけが残っている。

 大丈夫は、誰にも届かない言葉だ。

 だから便利だ。


 その夜、箱は最後の確認を出した。

 返却対象:戻る道


 私は笑った。

 こんなに露骨に言うんだ。


 戻る道。

 救いの道。

 母の待つ家。

 医師の待つ診察室。

 会社の残してくれた席。

 全部、道だ。

 全部、救いだ。


 救いは、私を元に戻す。

 元に戻したら、私はまた「いい子」になる。

 いい子になったら、また壊れる。

 壊れるなら、最初から壊れていた方がいい。

 そう思ってしまった自分を、私は止められなかった。


 私は箱に近づいた。

 戻る道を返すには、どうすればいい?

 切符を破る?

 電話を捨てる?

 引っ越す?

 違う。

 この箱は、物理を要らない。

 要るのは、決断だけだ。


 私は、胸の中で「助けて」と言う代わりに、

 「助けないで」と言った。

 それを、箱へ落とした。


 画面が変わる。

 返却完了


 春の風が、駅前の通りを抜けた。

 人が歩く。

 誰も私を見ない。

 誰も私を呼ばない。

 呼ばないのが正しい顔になる。

 正しい顔になったら、もう戻れない。

 でも私は、戻りたくなかった。

 戻りたくない、と言えない自分を、

 私はこの箱で救っている。

 救いを捨てることで。


 翌朝、病院から電話が来た。

 出なかった。

 会社からも来た。

 出なかった。

 母から来た。

 出なかった。


 出ないことが、手順になる。

 手順になったら、生活になる。

 生活になったら、最初からそうだった顔になる。


 私は鏡の前に立った。

 薄いリップを塗る。

 眉を整える。

 髪を巻く。

 女性らしさは、まだ残っている。

 残っているから、世界は私を“普通”に見える。

 普通に見えるほど、助けは遠ざかる。

 遠ざかる助けが、私には楽だった。


 私は駅前の通りへ行く。

 赤い箱の前に立つ。

 画面が光る。

 返却対象:影


 影。

 私は足元を見た。

 朝の光で、ちゃんと影が伸びている。

 細く、はっきり。

 影があるのは、生きている証拠だ。

 証拠は、救いの入口だ。

 私は、その入口を閉めたかった。


 私は影に目を落とし、

 自分の足から影をそっと引き剥がす想像をした。

 引き剥がす。

 引き剥がして、箱へ落とす。


 画面が変わる。

 返却完了


 その瞬間、足元の影が消えた。

 私は笑った。

 軽い。

 影のない身体は、誰の目にも留まりにくい。

 留まりにくいほど、期待されない。

 期待されないほど、私は息ができる。


 返したのは救いだ。

 返したのに、救われた気がする。


 私はもう一度、鏡を見る。

 鏡の中には、ちゃんと私がいる。

 でもその私の目が、ほんの少し遅れて瞬いた気がした。

 瞬きの癖は、私と同じだった。

 それだけが、残っていた。


 残っているものは、また返せる。

 返せる限り、私は軽くなれる。


 救いはある。

 私は知っている。

 知っていて、返した。

 だから私は、ここにいる。

 ――最初から、そうだったみたいに。

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