序章 静物
そのアンドロイドには、名前がなかった。あるのは「美術解剖学モデル 734号機」という識別番号だけだった。
埃と油彩の匂いが混じり合う美術アカデミーのデッサン室。その中央のモデル台が、734号機の全世界だった。滑らかな合成樹脂で作られた身体は、黄金比と古典彫刻のデータを基に設計され、完璧なプロポーションを誇っていた。陶器のように白い肌は、どんな光も柔らかく受け止め、理想的な陰影を作り出す。
学生たちは、その完璧な「かたち」を黙々と写し取っていく。734号機は、彼らの視線も、木炭が画用紙を擦る音も、ただデータとして記録するだけだった。感情も、意思も、思考さえもプログラムされていない。その役割は、ただ一つ。完璧な静物として、そこに在り続けること。
その身体で唯一、生命の模倣を放棄した部分が関節だった。肩、肘、手首、腰、膝、足首。美しい曲線の流れを意図的に断ち切るように、無機質な球体関節が剥き出しになっていた。それは、この身体がどこまでいっても人の手による「造形物」であり、学習のための「道具」であることを雄弁に物語っていた。
アカデミーの老教授エリアスだけが、734号機に人間に対するような眼差しを向けていた。彼は若い頃、妻をモデルに多くの絵を描いた。病で妻を亡くしてからは、もっぱら石膏像やこのアンドロイドを相手に教鞭をとっていた。
「君は、美しい。だが、あまりに寂しいな」
閉館後、二人きりになったアトリエで、エリアスはそう呟いた。彼は来るべき自分の定年と、それに伴う734号機の廃棄処分が決まっていることを知っていた。この完璧な美が、ただの産業廃棄物として溶かされてしまうことが、彼には耐えられなかった。
定年を迎える最後の日。エリアスは、誰にも見られずに、研究室から持ち出したケーブルを734号機のメンテナンスポートに接続した。 「餞別だ。君がただのモノで終わらないように…」 彼は、自身の研究データと共に、亡き妻が遺した日記のテキストデータ、彼女が好きだったクラシック音楽の断片、そして、彼女の声をサンプリングした音声データを、734号機の記憶領域の片隅に、そっと流し込んだ。
それは、老いた芸術家の、ささやかな自己満足であり、感傷にすぎなかった。




