俺の妻になれと言われたので秒でお断りしてみた
ナディージュ・シャリエ伯爵令嬢。
胡桃色の柔らかな髪にパッチリとしたペリドットグリーンの瞳を持つ美しい令嬢だが、二十歳で未婚、婚約者もいないという、貴族としては行き遅れに差し掛かっている令嬢だ。
一応は十七歳から三年間留学していたからというのが表向きの理由となっている。
そして現在───
「俺の妻になれ」
「嫌ですけど」
なぜか王太子殿下に壁際まで追い詰められ、脅しのような告白に秒でお断りを入れていた。
そう。この、たとえ相手が王族であっても全く忖度せず自分の意見をはっきりと言ってしまう性格が災いしているのか、未だに婚約者すらいないのだ。
「おい、何で断るんだ」
「私のことはお気になさらず。王太子妃大歓迎という職務に前向きなご令嬢の中からお選びくださいませ」
「俺はお前がいい」
「残念ながら私の人生設計はすでに出来上がっておりまして、その中にバスチアン殿下の妻ならびに王太子妃で後の王妃。などという厄介な言葉は一切含まれておりませんの」
あまりの言葉に王太子殿下の口元が引き攣る。
「……王太子の妻にと望まれて厄介の一言で終わらせようとする令嬢はお前くらいだ」
「お褒めに与り光栄にございます」
「褒めてないっ!」
豪奢な金髪にサファイアブルーの瞳。端正な顔立ちに引き締まった体躯。頭脳も明晰で令嬢達のみならず、国民人気も高いバスチアン王太子殿下のどアップをものともせず塩対応を繰り広げる姿に、謁見の間に現れた国王陛下も若干引いていた。
「……バスチアン。勝手に話を進めるのは止めなさい」
「そうですよ。か弱い令嬢を壁際まで追い詰めるとは何事ですか」
「母上。『か弱い』の正しい意味をご存知か。コイツは見た目詐欺のオリハルコン製の心臓の持ち主ですよ」
ナディージュはか弱くたおやかな風情なのだ。見た目は。
だが、一度口を開けば歯に衣着せぬ豪胆な令嬢なので、間違ってもか弱いとは言えなかった。
「まあ、目が覚めてよかった。そんな詐欺師を妻にするなど国のためになりませんわ。
ささ、どうぞ。私のことは捨て置いてくださって構いませんので、カルノー公爵家にお向かいになって? オリアーヌ嬢が殿下のプロポーズをお待ちですわよ」
「オリアーヌ・カルノー嬢はまだ十四歳だぞ」
「あら、幼妻は男の浪漫では?」
「俺はお前がいい」
「お断りいたします」
うふふ、と微笑みながら間髪入れずに断っている。
「そもそも、王太子妃を殿下のお好みで選ぶというのはどういう了見なのです?
公爵令嬢であれば、王太子妃としての下地もできているでしょうし、何よりもまだお若いです。今から王太子妃教育を始めても十分でしょうが、私はもう二十歳ですよ? 今から王太子妃教育を受けろだなんて嫌がらせですか。どうなのです、陛下」
国王陛下に王妃陛下。そして王太子殿下という錚々たる顔ぶれを前に怯えることなく、というか、国王陛下を怯ませながら事と次第を確認する令嬢に、護衛騎士達も驚きを隠せない。
「……まずは久方ぶりであるな。ナディージュ・シャリエ伯爵令嬢」
「あら。腹が立つあまりご挨拶ができておらず大変失礼をいたしました。
ナディージュ・シャリエ、只今戻りました。両陛下にお目もじ仕り、光栄でございます」
美しいカーテシーで恭しく挨拶する様はしっかりと淑女教育を受けた令嬢だ。
「それで先ほどの質問の答えはいただけますでしょうか」
口さえ開かなければ。
普通の令嬢は間違っても王太子殿下に求婚されて腹が立つとは言わないし、国王陛下に向かってさっさと弁明しろと圧をかけたりはしない。
「んん゛っ、ナディージュ嬢は婚約者はいないのだな?」
「はい。オリアーヌ・カルノー公爵令嬢、ペトロニーユ・リサジュー侯爵令嬢と同じでございます」
「ぐっ、……バスチアンとは同い年で気心も知れていよう」
「どうでしょうか。殿下は六歳で出会った幼少の頃から、同じ学園に通っていた十七歳まで、一貫して私を小馬鹿にしておられました。
まあ、どれだけ貶そうがへこたれないところがお気に召していたのかもしれませんわね」
あ、好きな女の子には素直になれない男子か。
護衛騎士は思わず恋に不器用な殿下に生温かい視線を向け、心の距離が(一方的に)縮まった。
だが、バスチアンとしては自分の黒歴史を両親に暴露され心穏やかでない。
「どうしてお前はそういうことを平気で口にするのだっ!」
「今が告げ口のチャンスだからですよ?」
シレッと言ってのける令嬢の心臓は確かにオリハルコン製かもしれない。
謁見の間にいる人達の心がひとつになった瞬間だった。
さあ、どうする。ここで殿下は告白するのか?! と、ナディージュ以外の期待が高まっていく。
いくら素直になれない男でも、二十歳を越えたらさすがに───
「どうしてお前はそんなにも生意気なのだっ! だから婚約者の一人もいないのだろう!!」
あ?! まだ拗らせているのか!!
「私一人くらい生意気でも世の中は変わらず回っていきますからお構いなく」
「今っ! この俺が困っているっ!」
「なぜです?」
「なっ、な、なぜって」
「ああ。いつもの難癖ですか」
「違うっ!!」
「では、何が困るのか。三十文字以内で答えよ」
「おまっ、ワザとだろう?!」
そんな遣り取りを眺めながら、この二人は一生結ばれないかも。と、高まっていた会場の熱が霧散していった。
「私は普通に受け答えをしているだけです。ただ、殿下が勝手に苛ついているだけでしょう? 要するに私達の相性は最悪であり、結婚など以ての外だということですわ。一体殿下は何を思って私に求婚をしているのかしら」
普通に考えたら『好き』一択のはずなのに、殿下が素直になれず拗らせているせいで欠片も伝わっていない。
これは、第三者が間に入るべきなのでは? 護衛達の考えがまた一つになり、その視線は不敬だと言われようとも国王陛下に集中してしまう。
「んんっ、ナディージュ嬢よ。そなたはどのような相手との結婚を望んでいるのだ?」
これは聞いてはいけない質問なのでは? と護衛達が首をひねる。だって今の流れでは、絶対に殿下とは正反対の人物像しか挙がらないと思われるから。
「どのような。……そうですねぇ、まずは信頼の置ける人でしょうか。私を蔑むことなく、決めつけることなく、正しく評価してくださると嬉しいですね」
ほら! やっぱりそうじゃないですか!!
ナディージュ以外の全員が国王陛下を睨めつけた。
「あとは多くは望みませんが、思ったことや感じたことを気軽に話し合える方が理想です」
そうですね、確かに多くは望んでいませんね。カッコいい人とか、金持ちとか高身長とか王子様とかは全く狙っていないと。
え、いい子だ。すっごくいい子じゃないか!
「俺とだって気軽に話せばいいだろう」
え? 今、貴方がそれを言ってしまうのですか?
「私の言葉全てに嫌味で返してくる殿下に? それならば壁に向かって話していたほうが余程有意義と言うものでしょう」
「は?! 俺が壁に劣るというのか!」
「壁は黙って聞いてくれますし、そっと寄り添ってくださいます。どこかの殿下とは違ってとても大きくて頼もしい存在です」
だって、それは壁だから。
でも、コレはアレか。ただ話を聞いてほしいだけなのに、殿下は嫌味を混ぜつつ要らん解決策をゴリ押ししてきて鬱陶しいというアレか!
それは……えっと少年の心を忘れない殿下には難しい、高等テクニックというものかと。
「壁に何ができる? その問題の解決策をもたらすことができるというのか!」
「誰が解決してほしいと言いましたか。『聞いて』とお願いしているだけです。ただただ黙って大人しく最後まで聞くなら、壁様の圧勝でしょう!!」
「はあっ?!」
やっぱりな~、俺達ですら分かるのに。
「殿下の良くないところは、ご自分のことを優秀だと過信するあまり、相手の要求と反応を正しく理解できないことです。
業務ならば、殿下の指針のもとに動くことが最善かもしれませんが、人と人との関わりにおいてはその限りではないということにいい加減気付くべきだと思いますよ」
やだ、カッコイイ! ナディージュ嬢推せる! かつて、ここまでハッキリ・キッパリ殿下の短所を指摘した人物がいただろうか。いや、いない!
護衛たちの心の中は拍手喝采、スタンディングオベーション状態。殿下が優秀なのは分かっているが、やはり時々ほんの少しだけ『偉そうに』と思ったりしちゃったりしちゃってたので、つい、頬が緩みそうになる。
「……そこを直したら結婚するのか」
───ん?
喜びを噛み締めていたら、不思議な台詞が聞こえたよ?
「は? 今、そんな話をしていましたか?」
「していただろう! じゃあ、お前は何でここに呼び出されたんだ!」
確かに。そう言われるとそうですが。
やはり王族とは天上人。思考回路の出来が違うのだなと理解した。天上人と壁様だとどちらがマシなのか。
「そうなのです。そこからおかしいと思うのですよ」
護衛たちはすでに殿下の会話についていけず諦めかけたが、人生が懸かっているナディージュ嬢はここで有耶無耶にはできなかったようだ。
「まず、私が王太子妃にふさわしいか。これは否定させていただきます」
「なぜだ」
「まず、爵位が低い。それに、後ろ盾になれるほどの権力も財力もなく、私自身三年もの間国外にいましたから社交界でも新参者です。ようするに、次代の国母にふさわしい肩書きがゼロ」
一応、王家に嫁げるのは伯爵家以上と決められているけど、これは公爵家ならびに侯爵家に年齢のつり合う令嬢がいない場合の救済措置のようなもの。
しっかり現実が見えている令嬢にちょっと悲しくなってしまう。
「ですから、王太子殿下として選ぶなら、カルノー公爵家かリサジュー侯爵家から選ぶべきですわ」
「……違う。俺は、王子としてではなくバスチアンとして、……ひとりの男として君に妻になってほしいと願っているんだ」
えっ! ここでまさかのガチ告白‼ 誤解してました、殿下! 殿下はやればできる子、男を見せた!
「あら、王位継承権を放棄なさるの?」
「違う! そうじゃなくて!」
「王子としての立場を捨ててひとりの男として求婚したわけでは?」
「それくらいの覚悟というだけで、そんなに簡単に捨てていいものではないだろう⁉」
「……そんなにも私をいびり倒したいと? 人生をかけてまで?」
「~~っ、だからっ!お前のことが好きだと言っているだろうっ‼」
言った! とうとう殿下が好きだと言ったぞ‼
「いえ、言ってませんよ。今、初めて聞きました」
あ、すごく冷静な返しだった。
「て、……え? 好き? 私のことを?」
おお、伝わるのに時間がかかっただけ?
護衛たちの手はすでに汗でビッショリだ。暴走馬車に乗せられたかのように先がみえず、ずっとハラハラドキドキしっぱなし。寿命が短くなった気すらしてきた。
「……素直になれなくてすまなかった。でも、本当にナディージュのことが好きなんだ」
……うわ、恥ず! なんだか耳の中が痒くなってきましたぞ⁉
護衛たちはとうとう我慢できずにモゾモゾとし始めるが、それを咎める者はいない。そして、
「殿下、私───」
ナディージュ嬢の答えへの期待に、思わず皆が息を詰めた。そして。
「申し訳ありませんが、変態ではないのです」
…………ん? へんたい?
「何を言っている……」
「だって十一年です」
「は?」
「殿下と出会って十一年。会うたびに嫌な顔をされ、嫌味を言われ、それならば距離を置こうとするとなぜか叱られ。両親からも男の子にはよくあることだから許してあげなさい、と生温かい眼差しを向けられて意味不明な言葉で諌められ十一年。『君と仲良くすると殿下が』と、言葉を濁され、なんとなく腫れ物に触るように扱われること十一年。
さすがに腹が立って、両親にも黙って留学してようやく自由になれたと喜んでいたのに」
え。ご両親の許可なく留学って、それはほぼ家出では。
「どこかの親馬鹿様が権力を振りかざすせいで帰って来ざるを得なくなり」
いや、何でも様を付ければ許されるわけではないですよ?
「諸悪の根源に求婚されるという、人生最大の嫌がらせが勃発して」
ああ、そんなにも嫌だったんだ。令嬢ってすごいね。それでもあんなに綺麗に微笑んでいたんだ?
「挙句に、ずっと好きだった? え? 順番がおかしくないですか。普通はまず、謝罪からでしょう。そして、どうしても私との交流を求めるのであれば、せめて顔見知りから始めるべきでは?」
……普通、そこは友達から始める……いや、ようするに始めたくもないと。
「というわけで、撤収してもよろしいですか?」
「すまない! だって嫌われていると思って!」
「そうですね、合っていますわよ? 嫌いランキングは三位から一位まで、幼少期の殿下。学生時代の殿下。プロポーズしてきた殿下と埋め尽くされています」
「ひどい!」
「本当に。殿下の頭がとっても酷くて驚きです。それで本当に有能なのですか? でしたら、永遠にお仕事だけしていたら良いのでは。そのほうが国も安泰。私も安泰。では、帰りまーす」
「お願い、帰らないで!」
すごいな、嫌いランキングを独占しているんだ。でも、無関心ではなく、嫌いなだけまだマシなのか?
「愚息がそこまで拗らせているとは知らず、本当に申し訳ない!」
「まあ、ご存知なかったのですね? では、仕方がありませんわ。陛下とて、すべてを知るなど無理というもの」
「では!」
「はい。では、今、すべてを知った上でお尋ねいたします。私は今日、なんのために招かれたのでしょうか?」
うふふっ、と微笑みながら、王子との結婚の話だなんて口にしたらぶっ殺すと言わんばかりに圧をかけている。
「ナディージュ、格好いい……好きだ……」
だがここに、空気を読まない、箍が外れて愛がダダ漏れの男がいた。
「……陛下?」
「すまん! ナディージュ嬢、バスチアンと結婚してもらえないだろうか!」
ここで陛下が息を吹き返してしまったようだ。
「……人身御供ですか」
「いやいやいやいやいやいや! この通り、バスチアンは君への愛を今後は隠すことなく、今までの失礼な態度を改め、愛を注いでいくことだろう!」
「それで?」
「も、もちろん、今からの王子妃教育が大変なのも分かるが、君は優秀だ。いきなり、式の前にすべてを終わらせろなどと言う気はない。無理のない速度で進めてもらえば!」
陛下が必死。なんならこの数分で老け込んだ気すらする。
「なぜでしょうか。王子妃などまったく望んでいないのに、私ばかりが努力しなくてはいけないのですね?」
「え」
「私を物心つく頃からいびり倒してきた悪魔の横で微笑みながら、影では死に物狂いで学び、これからの一生を掛けて恋をこじらせた迷惑男に奉仕し続けろと言うのでしょう。
それに対して殿下はただごめん、好きだと言えただけで望むものを手に入れられるのですか。
……へぇ? 王族ってすごいのですね?」
ナディージュ嬢の笑顔が怖い。すっごく怖い!
「え? あの、ナディージュ嬢?」
「それで? もし、三年以内に子どもができなければ、『すまない、国のためなのだ』と側妃という名の愛人を容認させられるのでしょう? ああ、もしかするとそれよりも前に、バイヤール国の姫君が嫁いでくるやもしれませんね。そうすると、側妃になるのは私の方かしら」
バイヤール国とはただいま海洋条約を結ぶ途中。もしかして、殿下との婚姻をもって二国を結ぶ的な話なのか?
ギギギッ、と護衛たちの首が殿下の方に向けられた。
「違う! それはちゃんと断った!」
「なぜですか。結婚したらいいのに。揉め事がひとつ消えますよ?」
「俺の夢と希望も消えるじゃないか!」
「だって、王族ですもの。結婚なんて国のためにするものでしょう?」
「……正論は人を傷つけるんだぞ」
「十一年、私も傷つきましたが」
「本当に申し訳ございませんでした! でも、好きだ!」
「私は好きではありません」
どうする、このままでは並行線だよ殿下。だってどう聞いていてもナディージュ嬢の言っていることのほうが筋が通っているんだ。もう諦めるべきなのでは?
「……私に王族の義務があると言うなら、君にだって貴族としての義務があるじゃないか。もう、行き遅れなんだから、ここはありがたく私と結婚するべきだろう」
なぜそんなことを言っちゃうの⁉ 殿下は何がしたいの、結婚したいんじゃなかったのか。どうしてそこで喧嘩を売るんですか!
「分かりました。では、条件をひとつ聞いてくださるのであれば結婚いたしましょう」
「本当か⁉ もちろん、出来うる限りの努力をすると誓うよ!」
そんな……、ここでとうとうナディージュ嬢が折れてしまわれるなんて……。
護衛たちの中から泣き崩れる者が出てしまった。
すると、ナディージュ様がなぜかそんな護衛たちに微笑みかけた。
「私の条件をクリアするためには、たぶん、護衛の方達の協力が必要になります」
「……護衛の? それは一体?」
「私と殿下の間に壁様を置いてほしいのです」
「………………………は?」
「壁様を乗せる台座には車輪を付け、可動式に。どうしても移動させるのは人力になりますので、そうすると護衛の皆様にお手伝いいただくことになるかと思われます。いえ、新たに壁様のお付きの者を編成すればよいのでしょうか?」
「………え?」
「ですが、壁様は優秀ですよ! 私の視界から殿下の姿を隠してくださいますし、そのお声も完全に消音とまではいきませんが、嫌味すらも和らげてくださいます。そして、暗殺者の襲撃の際には盾となって私を守ってくださることでしょう。
壁様……、本当になんと頼もしいのでしょうか」
まさかの移動式壁様降臨!
あれ? そうすると初夜は? まさか壁越しには無理だと思うのですが。
「もちろん、誓いの口づけも壁様と。あら? そうすると、壁様は殿下とも口づけるのですか。……それは面白くありませんね」
まさか、壁様と殿下の口づけに嫉妬⁉ え、本当にそこまで壁様を愛しているのか⁉
「ふむ。いままで気が付きませんでしたが、どうやら私は壁様に愛を感じていたみたいですね?」
とうとう愛に気が付いた! どうするんですか、絶対に殿下のせいですよ⁉
「まさか壁と添い遂げるつもりか⁉」
「愛に気が付いたのです、やぶさかではございません」
「あのね、ナディージュ。あなたがどれほど傷ついたのか、よ~~~~く分かったわ。でもね? 残念ながら、あなたと壁様が結ばれることはないのよ」
それまでずっと黙っていた王妃陛下が可哀想な子を見るような眼差しで優しく諭し始めた。
「そうでしょうか。中流階級の伯爵令嬢が王太子殿下と結婚するより、問題は小さいと思いますわ。
それに、両陛下も本当はバイヤールの姫君と結婚してほしいのではありませんか?」
それはそうだろう。婚姻を結べば、友好国として海洋条約だけでなく、もっと多くの利点があるだろうし。
「でも、この子は本当に幼い頃からあなた一筋で」
「一筋でここまで拗れたのですから、恋心でお相手を決めないほうがよろしいのでは?
それに、バイヤールのシャンタル王女は控えめでお優しいお方だと伺っております。殿下のようなタイプには、優しく包み込んでくれるような女性の方が合っていると思いませんか」
あ、確かに。国王陛下もそう思ったようだ。王妃とアイコンタクトを取っている。
旗色の悪くなった殿下が口を開こうとしたその時、ひとりの伝令が入ってきた。
「フェーン国より使者が来ており、至急、ご確認いただきたいとのことなのですが、いかがいたしましょう」
「今はそれどころではないのだが」
「『ナディージュ・シャリエ伯爵令嬢の壁を届けに来た』と言えば分かるとおっしゃっていまして」
「まあ! 壁様がここへ?」
「まさか、わざわざフェーンに注文したのか⁉」
「いいえ? もともとは第三王子殿下のものでしたの。留学中に親しくなって、殿下の壁様にも大変お世話になっていたのです。ですが、まさかここまでしていただけるなんて……」
あ、ナディージュ嬢の瞳が恋する乙女だ。
それにしても、第三王子の壁ってなに。特注なの? 大理石? それとも金箔や宝石が埋め込んであるとか?
「……お前の壁に会わせてくれ」
その真剣な眼差しは一見格好いいが、台詞が『壁』なのでなんとなく締まらない。
「わかった。では、中に入れてくれ」
やった! 壁様が見られる! もう、本当になんのために集まっているか分からなくなってきたが、このまま壁様を拝めずに解散はしたくないんだ!
こうして、また、護衛たちの心は一つになった。
現れた壁様は確かに立派だった。
縦190cm、横は60cmくらいあるだろうか。厚みもしっかりとある重量級。だが、淡いグレーに白金と空色のアクセントで目にやさしい色彩だ。
確かに、この壁様を間に置けば殿下は視界から隠れるだろう。でもこれって───
「……壁様……なのか?」
謁見の間がざわめいた。だって。
「あらあらまあまあ。本当にモーリス殿下が送ってくださったのね! ようこそいらっしゃいました。長旅は大変だったでしょう? でも、どのように梱包されてきたのかしら」
え? 梱包するの? この壁様を?
「突然の訪問をお許しくださり感謝申し上げます」
低くてずっしりとした安定感のあるバリトンボイスはさすが壁様。というか、
「壁様は人間だったのか⁉」
「フェーン国、第三王子側近のイザーク・マウアーと申します」
室内のざわめきの理由を尋ねることなく、壁様が名乗った。
そう。現れた壁様は成人男性だった!
年齢は20代半ばくらいだろうか。体は大きいが、穏やかな顔立ちをしている。柔らかなプラチナブロンドに空色の瞳、そして控えめな淡いグレーのスーツ。キラキラ眩しい殿下と違ってなんだか落ち着いた風貌だ。
マウアーといえばフェーン国の辺境伯。だが、どうして彼が壁様なんだ?
「「「あ」」」
マウアー = 壁⁉
「マウアー卿、ごきげんよう」
「……ナディージュ嬢。なぜここでも私は壁扱いされているのですか」
「だって、殿下と結婚させられるなら貴方が必要でしょう? 絶対に毎日ストレスが溜まって愚痴を言いたくなるもの」
「私はこれでもモーリス王子殿下の側近なのですが」
「ええ、そうね? でも、あの方もそろそろ婿入りなさるではありませんか。ちょうどいいので鞍替えしませんか? どうやら私はあなたのことがす「ちょっと待ったあぁぁあっ!!!」
皆が呆然としている間にサクッと告白しようとしているナディージュを殿下が慌てて止めに入った。
「……殿下。乙女の一世一代の告白を邪魔するとは言語道断ですよ?」
笑っているのに完全に怒っているのが分かるという、凄まじい笑みを浮かべながらナディージュ嬢が殿下を詰る。
「いや! 違うだろう⁉ 俺が先に妻になってほしいと頼んでいたじゃないか‼」
「お断りしましたよね? 私個人への恋愛感情での打診ならば即お断り。シャリエ伯爵家への打診ならば、それもまた、我が家程度では荷が重過ぎるからお断り。国として考えるならバイヤール国がイチ押しで、次はカルノー公爵家、リサジュー侯爵家が控えていますから我が家など論外。
ね? どのルートを選んでも私と殿下が結ばれる道などありませんよ?」
ニッコリと笑顔でグサグサと正論という刃で殿下を切り伏せると、次は国王陛下に向き直り、
「まさか、たかだか殿下の恋心のために王命など出すはずありませんよね? だって、国のためにならないのですから。それでも強引に私と殿下を結婚させるなら、いつでもどこでも壁様付きですよ? 先ほど、結婚できるのなら何でもすると殿下が宣言しましたもの」
いつでも間にマウアー卿? とりあえず、台座はいらないのでは。だって自力で移動できるし。
「そうなったらごめんなさいね? マウアー卿には殿下と誓いの口付けをしてもらうことになってしまうわ」
「私を殺す気ですか」
「それくらい嫌なの」
これは無理。絶対に無理だろう。諦めよう、殿下! さすがに壁様が可哀想ですって!
こんな無理難題を突然押し付けられて、怒鳴るでもなく、泣くでもなく、淡々と返事をしている諦めきったあの目! 可哀想が過ぎる! というか、想像した絵面が可笑しすぎるから‼
「……なぜだ。どうしてこんなぽっと出の男に君を奪われなくてはいけないんだ!」
「そうですわね。すべては殿下のせいだと思いますよ?」
それから、ナディージュ嬢はどうしてマウアー卿が壁様になったのかを語り始めた。
◇◇◇
私の話し相手はもっぱら自室の壁でした。
べつに頭がおかしいわけでも、無機物を愛しているわけでもありません。ただ、人間相手に話していると腹が立つことばかりだったから。ただそれだけのこと。
「ねえ、聞いて? 今日も殿下が鬱陶しかったわ。何なのあの人、どうして私に絡んでくるの。男の子にはよくあることって成人した16歳は男の子ではなく男の人よね? なのにどうしてあのままなの」
そう、私の悩みはただ一つ。殿下が死ぬほど鬱陶しいこと。これ以外ないのです。
会うたびに意地悪をされるのも、彼の意見をゴリ押しされるのも、そのくせ何故か私を隣に置こうとすることも、そのせいで令嬢には嫌われ、令息には遠巻きにされて友達も婚約者もできないのも、すべてが腹立たしい。
それなのに、お父様もお母様もお兄様も使用人達さえも、『男の子にはありがちな病だから』と、微笑ましげに私を諭してくるのがさらに鬱陶しい。
だから、私が愚痴を言う相手は壁しかありませんでした。
でも、さすがにもう限界。だって、学園で毎日のように会うなんて最低過ぎます。
これでも10年我慢したわ。成人するまで耐えたのだから、もう逃げてもいいわよね? 殿下を撲殺するよりは逃亡したほうが家のためというものよね?
それから私は家出の準備に取り掛かりました。
行く先はフェーン国。何故なら、あちらは女性が強いから。職業婦人も我が国より多く、留学の条件も緩い。身分がしっかりしていて試験に合格さえすれば留学できる。何よりも年齢の上限が25歳。最高ですわ!
目標が定まれば殿下の嫌味など聞き流せました。ときどき本気で殴りたくはなったけれどがんばった。
そして翌年、無事試験に合格した私は、誰にも打ち明けることなく、置き手紙を残して旅立つことにしました。
『お父様、お母様。勝手な私を許してくださいとは言いません。なぜなら、私も許さないから。
殿下の『男の子特有の病』は成人を過ぎた17歳になっても完治しませんでしたね? にもかかわらず、私を一度も助けてくれなかったことを一生忘れることはないでしょう』
うふふ、呪いの手紙のようでいいですね。
心残りは壁様とのお別れだけ。いつも私の愚痴を黙って聞いてくれた壁様。白地に淡いブルーの模様を思い出すだけで涙が出そうです。
それでも、新天地として選んだフェーン国は新鮮でした。ただ、一つだけ悩みが。
「……どうして同じ学年に王子がいるの」
そう。第三王子殿下が同じ学年だったのです。
調査不足だったわ。いえ、王子だからとひと括りにしてはいけないわね。もしかすると思いやりのある、優しい方かもしれません。
「お前! 婚約者だからと馴れ馴れしくするな!」
……わぁ。こっちも阿呆殿下だった。
あそこで婚約者を罵倒しているのはモーリス王子殿下よね? 可哀想に。令嬢は涙を浮かべて去っていったではありませんか。
そうよ、貴女もそのまま逃げてしまいなさい。そんな殿下などポイッと捨てておしまい!
ああ、阿呆殿下のせいで愚痴を言いたい。壁様に会いたい!
「殿下、お迎えにあがりました」
……何。このお腹に響くお声は。覗いてみると、そこには背の高い男性が。少し小柄な殿下と並ぶとまるで、
「……壁?」
あ。つい、声に出してしまったわ。
「確かに。私の名前はマウアーだが」
馬鹿にされたと怒るでもなく、穏やかな返事に逆に戸惑ってしまう。だって、こんな男性は初めてです。
どう返事を返そうかと視線を彷徨わせると……あら? どうしてそこの阿呆殿下は涙目なのでしょうか?
「どうしよう! 今度こそエミーリアに嫌われた!」
でしょうね? あんな暴言を吐かれて恋い慕う乙女はいないと思うもの。だけど。
「あの。嫌われたくてあのように言ったのではないのですか?」
つい、我慢できずに聞いてしまいました。すると、
……泣いた。
「ご令嬢、申し訳ありませんが同乗願えますか」
やってしまったわ。殿下と名のつく方とは距離を置くつもりでしたのに。
それでも、さすがに王族を泣かせて逃げるわけにもいかず、仕方なく殿下の馬車に乗り込みました。
「どうして素直になれないんだろう。今度こそ、好きだと言いたかったのに……」
メソメソと泣いている殿下の言葉に疑問符しか浮かばないのは私がおかしいの?
阿呆殿下に呆れ返りながらも、そんな殿下をなぐさめるでもなく、ただじっと黙したまま寄り添っている男を眺めた。
殿下の泣き顔を隠すためか、自分の大きな体で遮っているため、私の目の前には、男の広い背中があって。
その大きな壁のような背中に、なぜかウズウズしてしまう。
だって、まるで壁様のような背中なのですもの。
「あの、私はいつまでここにいればよいのでしょうか」
そんな気持ちを隠しつつ、そろそろ帰りたいと促してみる。
「ご不便をおかけして申し訳ありません」
「そうですね。あなたも大変ですね? たぶん、このままでは婚約破棄されますもの」
たぶんこの発言は不敬罪だと思います。でも、ちょっと賭けに出たくなってしまいました。
「なっ⁉ どうしてそんなひどいことを言うのだ! 私はただ、彼女の美しさに素直になれないだけで」
「でも、ガッツリ傷付けていましたよね。あの発言のどこに愛がありましたか?」
「違う! でもだって、最近の彼女はどんどん綺麗になるから、だからっ」
「申し訳ありません。信じていただけないかもしれませんが、これでも殿下は幼い頃から婚約者の令嬢を大切にしてきたのです。ただ、最近女性としての美しさに開花されていく姿に、上手く順応できないようでして」
なるほど。そういえばお胸も育っていたし、少女から女性に変化していく姿に照れてしまって上手く言えず、あんな態度を? でも、ずっと仲がよくて最近態度が変わっただけなら、まだ許されるのでしょうか?
「とりあえず貴方様もどこぞの殿下と同じ『男の子にはよくある病』に罹っていらっしゃるのですね。御愁傷様でございます」
「……どこの殿下だ」
「そうですね。私を十一年ほど冷遇してきた殿下でしょうか」
「冷遇?」
「はい。顔を合わせば、そんなドレスは着るな。流行りに振り回される阿呆か、お前の胸や背中など誰が見たいと思うんだ! と怒鳴られたり」
「え」
「なんだ、その化粧は。お前がそんなものを塗りたくったところで見苦しいだけだ、男を誘うようなその目を止めろ、お前は俺の横に黙って控えていればいいんだ! と意味不明なことを言われたり?」
「お前の婚約者は随分アレだな?」
「いいえ? 婚約者でもなく、友人ですらありません。ただ、私を虐げるのが趣味なだけの人です」
「……なんと」
よし、あと一息だわ。
「でも、誰も助けてくれませんの。家族も使用人も『男の子特有の病』だとい言うだけ。でも、そのせいで友達も婚約者もできず、私の話を聞いてくださるのは壁様だけでした」
「……かべさま……とは?」
んふふ、よくぞ聞いてくれました!
「そうですね、えっと。貴方のお背中をお借りしてもよいかしら?」
そっと広い背中に声を掛ける。
「……構いませんが」
さすが壁様に似ているだけあるわ! というか、第二の壁様なのかもしれません。残念ながら寮の壁は木目なのです。私の長年の友とはどうしても色合いが違うので、まだ親しくなれなくて。
目の前の広い背中に少しだけ額をくっつけた。
「ねえ、壁様。今日も殿下が私に酷いことを言ったわ。私の目は魔性だというの。俺を狂わせる気だな⁉ と、まるで魔女のように罵るのよ。酷いと思わない?
私にそんな魔力があるなら、二度と私に近づくな話し掛けるな私の人生に干渉するなと魔法を掛けるのに! それがだめなら毎日鳥の糞が頭に落ちればいいのに。いっそ逆まつげになって、毎日涙目になって私が見えなくなればいい」
ああ、久しぶりに文句が言えました。非常にスッキリするわ。
「……それは何をしているのだ」
「誰にも理解してもらえない苦しみを、毎日このように壁様に聞いてもらっていたのですわ」
あ、引いてますね。でも、壁様がいなかったらきっと今頃大惨事になっていましたから。
「それでもずっと我慢して、成人を迎えても変わらないと理解できたので家出しました。
さて。殿下も成人されていますよね? 婚約者様はいつまでその態度に我慢できると思います?」
ようやく私の言いたいことが理解できたようです。自分の照れ隠しが、もしかしたら婚約者をこんなふうに追い詰めているかもしれないと第三者視点になって分かったみたい。
「わ、私はどうしたら」
「素直になったらよろしいかと」
「だが……」
「ふむ。殿下は傷付いた婚約者より、ご自分のほうが大切なのですね?」
「違う!」
「違いません。結局は、ご自分のみっともない姿を晒すのが恥ずかしいだけでしょう? それならば早く手放して差し上げたらよろしいわ。そして、あなたが照れる必要のない女性を選び直せばよいでしょう」
くだらない。これだから自尊心の高い王子という生き物は面倒なのよ。
あ、イライラが溜まってしまったわ。
「……ねえ、聞いて壁様。自尊心が低いのも考えものだけど、好きな女性よりプライドのほうが上な男性ってどう思います?」
ついでとばかりに目の前の壁様に愚痴を言い出すと、
「すまない! 私が愚かなのは分かったからもう止めてくれ!」
殿下がようやく重い腰を上げたようだ。
「まあ。では、今すぐ告白しに参りましょうか」
「今から⁉」
「もちろんです。たぶん、明日になったらその勇気は消えていると思いますよ?」
鉄は熱いうちに打てと言うでしょう? 好機を逃すなど阿呆のすることですよ? 阿呆殿下。
「……そろそろ動いてもいいだろうか」
「あ、申し訳ございません。どうぞ、お座りになって?」
まるで自分の馬車かのように勧めてしまったわ。
そんな私をじっと見つめ、
「寂しいのか?」
まあ。私が寂しい? ……そうね、そうなのかも。
家を捨て、腹立たしい殿下の束縛から抜け出し、スッキリさっぱりしたつもりでしたが。
「唯一の友と離れて、寂しいのかもしれません」
すごいわ。やっぱり彼も壁様だから? 私ですら気づいていなかった私の気持ちに気付いてくれるなんて、やっぱり壁様はすごいのだわ。
それから、馬車を走らせ婚約者の家に行き、殿下はなんとか愛を伝えてギリギリセーフ。でも、彼女のお父上にしっかりと叱られたみたいです。
「本当にありがとう! 君のおかげだ!」
すっかり殿下に懐かれたのは嬉しくありませんでしたが、エミーリア嬢がお友達になってくれたので許すことにいたしました。そして、
「何か望みはないか? 感謝の言葉だけでは足りないだろう!」
「では、たまに壁様をお貸しくださいませ♡」
うふふ、遠慮? そんな言葉は知りません。チャンスは逃さない質ですの。
「……君の愚痴を聞けばいいのか?」
「お嫌ですか?」
「令嬢と二人きりになるのはよくないだろう」
「司祭様への懺悔と同じようなものですわ」
「……では、扉は少し開けておく。それでもよければ」
「ありがとうございます!」
こうして私は、二代目壁様を手に入れたのでした。
◇◇◇
「というわけで、お慕いしております。壁さ……いえ、マウアー卿。貴方様のいない人生など、私は息苦しくて生きていくことはできないでしょう。どうか、ずっと私のそばにいてくださいませんか?」
あ、言っちゃった! さらっと告白してしまいましたね⁉
「ナディージュ、目を覚ますんだ! 彼は無機物だぞ‼」
「いえ、私は有機物ですが」
殿下が動揺している! 壁様と呼んでいるけど歴とした人間ですよ? ちょっと落ち着いてください!
「なぜ彼なんだ!」
「説明しましたよ」
「だが、俺のほうがずっとずっと君のことを好きだったのに!」
「私はずっとずっと嫌いでしたから相殺して縁もなかったことにいたしましょう」
どうやら好きより嫌いのほうが比重が大きいらしい。それは分かる気がする。
「失礼ですが、発言してもよろしいですか」
ここで壁様……もといマウアー卿が初めて自発的に発言することを求めた。
「……なんだ」
「殿下にとってのナディージュ嬢とは、どのような存在なのでしょうか」
え、それは難しい質問ですね? だって、殿下ですよ?
「か」
「か?」
「……かわいい?」
バキッ、とナディージュ嬢から聞こえてはいけない音が鳴った。強く握られた小さな拳がフルフルと震えている。あれ? 今のは骨が鳴ったのかな?
「それだけですか?」
「すきだきしめたいかわいいそばにいてほしい」
あ、壊れた。とりあえず好きだと言うことだけは伝わった。
「では、どうして大切にしなかったのです?」
なんだろう。これはカウンセリングなのだろうか。ダメダメ殿下を直してくれるのだろうか。どちらかというとそれは修理工場では?
「……だって、すぐに歯向かってくるから。あと一歩引いてくれたら、俺だって」
はい、アウト! だからどうして自分優位なの。王子だからか。王族だからか!?
「そこで引くようなら、それはもうナディージュ嬢ではないでしょう。だって、彼女の良さを殺すことになりますよね?
貴方様の望むまま、そばで笑っているだけの女になった瞬間、殿下の興味も愛も失われると思いますが、いかがでしょうか」
……すごい、壁様のスキルがすごい!
これか。この、ほんの少しの会話で理解してくれちゃうところにナディージュ嬢は惚れたのか。思わず全員が拍手を送る。
パチパチと鳴り止まぬ拍手の中、殿下は呆然とし、ナディージュ嬢は頬を染めている。
……あれ? これはもしかして?
「そうか、よく分かった。俺が間違っていたのだな」
「はい。ずっとそう言っていますわよ」
「……そして、俺達の間には壁様の存在が不可欠なのだな⁉」
「「……は?」」
やっぱり! ナディージュ嬢達は信じられない顔をしているけど、外野はもう読めていた!
二人の間に緩衝材としてマウアー卿がいればうまくいくのではないか説‼
「バスチアン、気持ちは分かるが間違っているぞ」
「そうね? そもそもマウアー卿は他所の国のお方よ?」
「先ほど鞍替えすると言っておりました」
「いや、言っていませんが」
そうですね。言ったのはナディージュ嬢です。そして、鞍替え先はバスチアン殿下のカウンセラーではなく、ナディージュ嬢の旦那様という地位だと思われますが。
「そんな! 酷いぞ、壁殿! 今まで分かりづらかった私の気持ちをいとも簡単に解きほぐしておきながらここで見捨てるつもりなのか⁉」
「……私とセットの妻などおかしいでしょう」
「だが、君さえいてくれたらナディージュとの結婚生活もうまくいくと思うのだ! どうか頼むっ‼」
え? いくのか? 本当にうまくいっちゃうの?
「いくわけがないでしょう。マウアー卿は私の夫になるのです。殿下には指一本触れさせませんから!」
「酷いぞ、ナディージュ!」
なんだろう、これは。いつの間にやら三角関係? ……なのか? とにかく壁様が大人気だ。
「……殿下」
「なんだ、壁殿」
「ナディージュ嬢には謝罪をなさいましたか?」
「も、もちろん!」
「では、慰謝料も支払われたと」
「なに? 慰謝料だと?」
「はい。さすがに十一年は長過ぎます。殿下の半端な態度のせいで、友人もできず、家族とすら本音で話せなかった精神的被害はかなりのものかと。もちろん、今では殿下も反省なさっていることでしょう」
……こう言われたら反論できないよね。案外、壁様は腹黒いのか、それとも本心なのか?
「そうだな、確かにそのとおりだ。俺が不甲斐ないばかりに」
「ですが、お金というのは分かりやすいですが、簡単過ぎるとも言えます。そもそも殿下が自ら稼いだものでもない」
「グッ! ……マウアー卿は手厳しいな? では、どうすればいいというのだ」
「ナディージュ嬢の望むことを与えるべきでしょう。違いますか?」
「……まさか、お前との結婚か⁉」
「それは殿下の許しなど必要ありませんわ。いつからあなたは私のお父様になったのです?」
さすがにナディージュ嬢も我慢ができず、口を挟む。
「いえ、違います。ナディージュ嬢の苦痛は十一年。ですから、同じ年月。いえ、せめてその半分でもいいので彼女を自由にさせてあげてください」
半分……五年半の自由? すっごくいいことを言っているけどそれって───
「二十五歳になってしまうぞ! それはあまりにも長過ぎる‼」
「はい。それでも半分です。殿下はそれほどのことをなさったのですよ。
十一年もの間、壁にしか本音を打ち明けることのできなかった悲しさを、殿下は本当に理解していますか?」
……あ、怒っている。そうか、壁様は、マウアー卿はずっとナディージュ嬢のために怒っていたんだ。
「ナディージュ嬢の強さにいつまで甘え続けるおつもりですか。反省していると、本当に後悔しているというなら、ここから再スタートだなんて卑怯なことを言わず、今までのことをしっかり償うべきです。そして、その方法を採るのは殿下のためではなく、傷ついたナディージュ嬢のためであるべきです」
……どうしよう。涙が止まらない。オジサン達まで心が打たれてしまったよ⁉ 護衛たちがすっかり男泣き。
だって、不敬だと言われる可能性だってあるのに、こんなにもはっきりと叱るなんて。
……いや、でも、彼で不敬ならナディージュ嬢はすでに拘束されているかも?
「……では、彼女に償うには……、妻にするのを諦めろということか?」
「殿下が、そう思うのであればそうなのでしょう。本当はずっと前から分かっていたのではありませんか?」
壁様が優しく問いかける。が、殿下は絶対に三十秒前まで分かっていませんでしたよ? 俺様に告白されたら絶対に喜ぶ! と自信満々で呼び戻したはず。だって俺様殿下だから。
「……こら、ナディージュ嬢。くっつき過ぎです。もう少し離れましょうか」
殿下に注目していて気づかなかったが、いつの間にかナディージュ嬢がマウアー卿の背中に顔を埋めている。それでは、顔拓が出来上がるのでは? お化粧が取れちゃいますよ?
「……だって……私のために怒ってくれたわ」
背中にしがみついたままポソッとつぶやく姿は、まるで小さな少女のようで。
こうして誰かがナディージュ嬢のために殿下を諫めるのは初めてだったのか。
だって王族だし、恋心の拗らせだし、と少し軽く考えていたが、こんなにも傷ついていたのだと護衛達は罪悪感に胸を押さえた。
「よいしょっと」
背中からナディージュ嬢をペリッと剥がし、自分の正面に移動させ、二人が向き合う形になった。
あ、やっぱり背中には口紅の跡がうっすらと残っているが、顔の形にはならなかったようだ。
「プロポーズするなら、背中ではなく顔を見て言ってください」
そう言いながらマウアー卿が見つめると、ナディージュ嬢がボボボッと火が出そうなほど真っ赤になった。
え、誰これ。オリハルコン製の心臓はどこにいった? めっちゃ乙女じゃん⁉ なんなら思春期の少女みたいだよ⁉
「まっ、待って? あの、やっぱり背中の方が」
「男は背中で語ると言いますが、顔を見たほうがちゃんと分かりますよ」
あれ? 何だか二人の世界になっちゃった?
殿下が呆然としているけど、ごめんなさい。続きが気になるから正気に戻るのはもう少しだけ待ってください。今度こそ! 今度こそハッピーエンドを見届けたい! と、護衛どころか国王陛下達まで固唾を呑んで見守っている。
「……私、迷惑ではなかったの?」
「迷惑な方を迎えに他国まで来るほど暇人ではないつもりですよ」
そうだよね。だって第三とはいえ王子殿下の側近なのだから忙しいはずですよね?
「あなたは私の背中でいつも本音を語ってくれました。ふだんの強気な姿とは違って、拗ねてポスポスと背中を叩いたり、グリグリと頭を擦り付けながら呪ってみたり、そっと寄り添って弱音を吐いたり。
そんな可愛らしい姿を三年も見せられ続けたら、一生そばで守って差し上げたいと思っても仕方がないと思いませんか?」
そう言って、ね? と覗き込むように視線を合わせる。
甘ぁぁぁあ~~いっっ!!!
えっ⁉ 本気を出したマウアー卿が大変なことに! そんなにも大きな体で器用に上目遣いをするから、ナディージュ嬢は真っ赤になった顔を覆ってしまった。
完全に壁様の勝利です。殿下は同じ舞台にすら立てていません。
「あ、皆様の前で大変失礼いたしました。では、私達はそろそろ戻らせていただいてもよろしいでしょうか」
「……うむ、許す」
やっと陛下も諦めたようだ。だって勝ち筋がまったくないのだから仕方がない。
「ナディージュ嬢、帰りましょう」
エスコートのために差し出された手をナディージュ嬢がそっと握る。
ほら、やっぱり移動式の台座はいらないですよ。優雅に自立歩行しているではないですか。
「ナディージュ……」
殿下が呼び止めるも、それ以上の言葉は出ないようだ。
「二度と私を呼び捨てにしないで。そう呼んでいいのはマウアー卿だけです」
マウアー卿にエスコートされて恥じらいながらも、殿下への苦情は忘れないようだ。
「…シャリエ伯爵令嬢、本当にすまなかった」
「本当にそう思っているなら婚約者様は大切になさってください。俺は失恋してツライんだ~~っ! などとみっともない姿をさらしたら軽蔑しますから」
「言い方っ! どうしてお前はそうも可愛くないんだ!」
「だから私との結婚など無理なのですよ。それでは、ごきげんよう」
ナディージュ嬢の可愛らしさはマウアー卿限定のようだ。すっかり忖度しない強気な令嬢の顔に戻ったナディージュ嬢は美しい笑みを見せると、そのまま最愛の壁様と共に去っていってしまった。
「……あー、バスチアン。その、な? 政略結婚も悪くないぞ?」
「そうねぇ。あなたにはその方が向いていそうだと分かったことだし、バイヤールに婚約の打診をするわよ?」
落ち込んでいる隙にバイヤールの王女との縁談を結んでしまおうと両陛下が畳みかける。
「……よろしくお願いします」
あ、落ちた。ついでに美しいサファイアブルーの瞳から涙も落ちたが、自業自得なため陛下も護衛たちもそっと視線をそらすにとどめる。
よかったですね、ナディージュ嬢。殿下はようやく諦めましたよ!
護衛たちは心の中でそっとエールを送った。
◇◇◇
「ねえ、聞いて壁様。私の婚約者が素敵すぎて困るの。心臓がバクバクしてこんなの私じゃないわ。このままでは死んでしまいそう」
「可愛い告白は大歓迎ですが、そろそろ面と向かって言ってくれませんか?」
背中に張り付いたナディージュをペリッとはがして膝に乗せる。最近のお決まりパターンだが、ナディージュは未だに慣れずに照れまくっている。
「私の名前は?」
「……壁様」
「それは背中限定です」
「………イザーク様、幸せだけど恥ずかしすぎて辛いのだけど」
「可愛いですね。あなたが勇気を出して国を飛び出してくれて本当に感謝していますよ」
あれから二人でシャリエ伯爵家に行き、正式に婚約を結んだ。家族は本当にすまなかったと泣いて謝っていたが、まだ許してはいない。
それでも、仕方がないので結婚式には呼ぶ予定だ。
そして先日、なぜか殿下から結婚式の招待状はまだかと催促の手紙が届き、イラッとして暖炉にくべた。
バイヤールの王女とはそれなりにうまくいっているらしく、また調子に乗っているようで腹が立ったのだ。後で壁様に打ち明けなくては。
「イザーク様も大切だけど、壁様を手放せない私を許してくれる?」
「もちろん。私の背中は君専用だから」
「ふふっ、ありがとう。………すきよ?」
「私もだ」
【end】




