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終章

 そいつが来た日は朝から雨がぱらついていた。

 客はひとりだけ。大荷物を背負った初老の女。娘家族を訪ねて山村からはるばるやって来たようで、孫に会うのが楽しみだとはしゃいでいた。孫への土産は雨に濡れるから見せてあげられないと謝られたが、興味があるはずもなく。愛想笑いもままならないような無口な男を相手によく喋り続けられるな、ともはや感心してしまった。

 去り際、「雨の中大変ね」と言って女は多めの代金を握らせてくれた。つまらない話を聞かされた甲斐があったというものだ。


 夕方になると雨も強まり、川の水嵩も増してきた。普段は退勤する者や出勤する者、歓楽街へ出て行く者が乗りに来る時間だが、雨天ならば仕方がない。

同業者たちは昼過ぎには皆引き上げてしまっていた。俺もそろそろ帰ろうかと思っていた矢先、そいつは音もなく現れた。

「まだやっているか」

 低く響いた声に驚いて振り返ると、俺よりも頭ひとつ分ほど背の高い男がこちらを見下ろしていた。反射的に「やっております」とかすれ声で答えると、そいつを舟に乗せ、川に漕ぎ出した。どう見ても寡黙なその男が俺と向かい合う格好で座ったのは意外だった。

 俺の足元あたりを一点に見つめ、微動だにしない男を、俺は観察した。色こそ地味だが質の良さそうな着物、洗練された身のこなし…ひょっとすると高貴な身の上なのかもしれない。着物の上からでも明らかな程鍛え上げられた肉体からして、武官だろうか。川の向こう岸は昼は市場、夜は歓楽街となる商店街だ。都心部からそう遠くないこともあって、お忍びで遊びにやって来る役人もいると聞く。

 そんなことをぼんやり考えていると、ふいに男が口を開いた。地を這うようなその声は、雨音を掻き分けてしっかりと俺の耳に届いた。

「お前、名は?」

 唐突に聞かれ、上ずった声で名を名乗る。男は「そうか」と呟くと、再び口を閉ざした。

 川の中腹に差し掛かった頃には雨はいよいよ本降りになっていた。俺の家は街の対岸の住宅街にある。川の氾濫に巻き込まれて亡くなる川渡しは少なくない。こんな天気の日は、遠回りだが橋から帰った方が良い。客を取ったことをほんのり後悔しつつ、見るともなく橋の方に目を向けた。

 次の瞬間、首根っこを鷲掴みにされ、俺の頭は水に突っ込まれた。


 ***


「うむ、ご苦労であった。下がれ」

 手元の書類に目を落としたまま、主は顎で扉を示した。一礼し、執務室を後にする。いつものことながら、冷淡な方だ。だからこそ現在の地位を築き得たとも言えるが。


 庭に面した廊下を歩いていると、中庭にで草木の世話をする夫人の姿が目に入った。こちらには気づいていないようで、少し膨らみ始めた腹を庇いながら、黙々と手を動かしている。昨晩の雨粒が葉の上できらめいていた。

 じっとり濡れた着物が肌に張り付いてくるのに不快感を覚えながら、私は速足でその場を後にした。

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