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オリビア  作者: Leon
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第1話





俺は――世界で一番美しくて甘い女を手放してしまった。

幸せで、愛そのもので、

俺の全てだった彼女の名前は――オリビア。

彼女と過ごした日々はどれも眩しくて、俺の人生で一番輝いていた瞬間だった。

揺れる髪、

宝石みたいに透き通った青い瞳、

高く通った鼻梁、そして紅く染まった唇。

甘い吐息と、陽だまりのような温もりまで……今でも鮮明に覚えている。

微笑んだ彼女が俺を抱きしめ、水の中で愛を確かめ合った、あの日。

俺の天国が永遠だなんて、そう錯覚していたんだ。

地獄が襲ってくる前まで。




――――


「おい、マイケル!」


誰かが俺を呼んでいた。

けたたましいアラームに紛れて聞こえてきた馴染みのある声に、俺はようやく目を開けた。

寝ぼけ眼で必死にアラームを止めると、ようやく静けさが戻ってきた。


「マイケル、頼むから静かに暮らせよ。分かったな?」


情けない顔をしているこのおっさんの名前は、フィル・ゲナー。

アジア系で、年齢は四十代。体格は小柄だ。

鋭く小さな目は神経質そうな印象を与え、時には険しく見える。

そして浅黒い肌は、どれだけ過酷な人生を歩んできたのかを如実に物語っていた。

深い話をしたことはないが、

本国に家族がいると聞いたことはある。

金を稼ぐために昔アメリカへ渡り、今はスーパーの店員として働いている。

いわゆる“海外に家族を置いてきた父親”ってやつか

まあ、それよりも―――体いつまでここに居座るつもりなんだか。

とりあえず、あくびでもして返事しておくか。


ふあぁ〜……!


「ゲナーさん、おはようございます」


ソファで寝る癖のせいで、

寝ても常に疲れが残り、体のあちこちに不快な痛みが蓄積していく。

一日が始まる前からもう壊れている社会不適合者と何も変わらない俺の一日も、


予定通りのスタートだった。


「はぁ……」


ゲナーは苛立ち混じりのため息を吐き、

幸い今日はそれ以上何も言わずに引き下がってくれた。

しばらくして、ひどい渇きに喉を掻くようにして水を探したが、

テーブルの上にあったのは飲みかけのウイスキーの瓶だけだった。


「いくらなんでもこれはないよな……」


結局、強張った体を起こしてキッチンへ向かった。


ごくごく!


冷蔵庫から取り出した水を一気に飲み干して、ようやく渇きが癒えた。


「……?」


窓の隙間から裏庭を見やると、

ゲナーさんが水をかけながら車を洗っていた。

本当に勤勉な人だ、ゲナーさんは。

ひょっとして、アジア人ってそういう血でも流れてるのか……。


「……ちょっと、羨ましいな。」


苦笑いを浮かべながら、俺は部屋に戻り、再びソファに身を投げ出した。

静かに天井を見つめながら、昨夜自分がしていたことを思い返す。

そしてすぐに、テーブルの上にぽつんと置かれた一通の手紙に視線を落とした。


本当に、あの紙切れが結末を導けるのか。

この手紙が彼女に届くのかどうか、確信は持てなかった。

たぶん、心の奥底に隠した恐怖こそが一番の原因なんだろう。


「とりあえず一本吸って考えるか。」


だが、テーブルに積まれたタバコの箱の中は空っぽだった。


「いったい何箱吸ったんだ?」


灰皿には吸い殻が山のように積もっていた。

片付けるべきだと思い、ゴミ箱を探していた。


「くそっ、どこ行った?」


……そもそもゴミ箱なんて最初からなかったのか?


俺はボストンに住んでいる。

チャールズ川を渡った先、

のノースエンド中心街から数ブロック離れたところにある、みすぼらしい一軒家だ。

庭付きのこの家の持ち主は俺じゃない。もちろんゲナーさんでもない。

家主については、そのうち紹介することにしよう。

確かに、いい街には似合う家かもしれない。

けれど俺はここから抜け出したい。

過去の痕跡が染みついた場所だからだ。


時間を確認して、上着を手に取る。


「仕事の時間か。」




――――


【09:15 AM】

【Kung Pao House】


「マイケル、皿洗いチャンピオン!今日は団体予約が入ってるから、そっちを先に片付けろ!」


(せわ)しない厨房の真ん中で、チン社長が俺を呼んだ。

俺は仕方なく皿洗いの手を止め、ゴム手袋を外した。


「ニンニクですか?」


チン社長はうなずくと、その場を立ち去った。

そうして店の隅でニンニクの皮を剥く作業を始める――。


チャイナレストランで働き始めて、もう二年になる。

料理を学びたくて始めたはずなのに、彼は絶対に許さなかった。

ここにはここなりのルールがあるらしいが……

まぁ、金さえちゃんともらえるなら構わない。

副料理長の席は今も空いているが、もう気にしないことにした。

だが、今になって考えてみると、どうにも妙だ。

なぜ俺の周りには、アジア人しかいないんだろう?


【15:30 PM】


忙しいランチタイムが終わって、ようやく店内が落ち着き始めた。

だが、皿洗い担当にとってはそこからが一番忙しい時間帯だ。

早く終わらせればその分休憩時間が保証されるが、その仕事は俺にとっては朝飯前だった。


ギィィ……


ゴミ袋を持って裏口から出る。

分別用のコンテナに捨てたあと、壁にもたれてタバコを取り出す。


「はぁ……」


空になった箱を捨てて、そのままスーパーへ向かう。


「マルボロをひとつください。」


会計をしている俺の横から、誰かが声をかけてきた。


「えっ、あなた!あの時の若いカップルですよね?」


俺は思わず体を硬直させた。


「……え?」


振り向いた瞬間、見知らぬおばさんの顔が視界に飛び込んできた。

どこか見覚えがあるような気もしたが、確信は持てない。

彼女は嬉しそうに笑みを浮かべながら、一歩近づいてきた。


「久しぶりですね。私のこと、覚えてます?」


「え、あ、その……」


おかしい。どれだけ記憶を探っても、彼女が誰なのか思い出せない。

だが、彼女の方は確信しているようだった。


「ふふ、昔、産婦人科でお会いしたことがあるんですよ。」


心臓がドクンと音を立て、胸の奥で沈み込んだ。


「人違いです。」


俺は慌てて首を振った。だが、それは失敗だった。

彼女はむしろさらに近づき、小声でつぶやく。


「ふーん、そんなはずないわ。確かに若くて綺麗なお嬢さんと一緒だったはず。名前は……オリ──?」


その瞬間、肺の奥の空気が凍りつき、指先が震え始めた。


「そ、その……」


唾を飲み込み、どうにか言葉を出そうとしたが、喉が詰まって声にならない。


なぜよりによって今、この場所でそんなことを聞かされるんだ?


彼女は俺の反応を窺いながら、少し優しい声色で続けた。


「奥さん、お元気なんですよね?」


頭の中が真っ白になり、視界がぐるぐる回る。呼吸は荒く、心臓は暴れるように打ちつけた。

まるで押し寄せる断片的な記憶が、一気に精神を押し潰してくるかのように。


「今もこの近くに住んでるんですか?時間があれば、一緒に食事でもどうです?」


彼女の口調はあくまで軽かったが、俺の耳には巨大な波のように響いた。


「そ、それが……タバコ!」


手を伸ばしてタバコを掴もうとしたが、視界は滲み、空気は薄れていく。

雑音が遠ざかっていく。

今すぐこの場から逃げ出さなければ、本当に倒れてしまう――。

精神が暴走し、まともに考えることすらできない。

冷や汗が頬を伝い落ちる。

ここを離れなければ。

今すぐに。




――――


俺は振り返ることもなく走り出した。

方向なんて考える余裕はなく、ただがむしゃらに走って、走って――。

呼吸を乱しすぎたせいで、胃の中がひっくり返るように気持ち悪くなる。

気づけば、見知らぬ建物の階段に座り込んでいた。

ようやく息が整ってきて、そこで初めて冷静に物事を考えられた。

筋肉を通して伝わってくる、この震え。

間違いない、これは恐怖だ。

確かにこの生々しい感覚を、俺は以前にも味わったことがある。

俺は力の抜けた足をなんとか持ち上げ、顔に滲んだ汗を服の袖で拭った

そして近くにある「ドーチェスター薬局」へと向かった。


チリンチリン!


「いらっしゃ……マイケル?」


「久しぶりだな。元気にしてたか?」


「挨拶は後だ。今は薬が要るんだ。」


まだ手の震えが止まらず、落ち着くことができない。

デッカーは俺の様子を見て、顔を険しくした。


「お前……まさか、また始めたんじゃないだろうな?」


「違う。ただ、強い安定剤をくれ。」


彼は腕を組み、俺を問い詰める。


「どういう状況なのか、ちゃんと説明しろ。」


「ただのストレスだ。」


「はぁ……それで済むと思ってるのか。」


「クソッ!薬を寄越せって言ってんだよ……頼む!」


複雑な感情をデッカーにぶつけてしまった。

彼は少し戸惑いながらも俺を見つめ、やがて薬を取り出した。


「一日一回だ。それ以上は――」


俺はその言葉を無視し、

十ドルを置いて薬を掴むと、店を後にした。




――――


【09:37 PM】


俺はうっすらと閉じていた目を開けた。

ソファに横たわる俺の視界に映ったのは、闇に覆われた天井だった。

薬を飲んでからの記憶は残っていない。

遅れて状況を把握した時には、すでに夜になっていたのだ。


「……くそっ!」


起き上がって最初にしたのは、携帯を探すことだった。

チン社長からの大量の着信に、頭痛が一気に押し寄せる。

ズキズキとうずく頭を押さえ、再びソファに身を投げた。


チン社長に言い訳するつもりはなかった。

どうせ明日出勤すればクビになるのは目に見えている。


虚しさや無気力よりも、別の感情がこみ上げてくる。

これまで積もり積もった苛立ちと怒りが、津波のように押し寄せてきた。

それらは言葉ではなく、行動となって現れる。


ドンッ!


握りしめた拳が叩きつけられたのはテーブルだった。

その衝撃でテーブルはあっけなく横倒しになる。

ウイスキーの瓶が転がり、酒がカーペットに染み込んでいく。

灰皿に押し込められていた吸い殻が床に散らばった。

今の状況が、そのまま俺自身の有様を映していた。

すべてが崩れ落ちた。

希望も、後悔も、あらゆる感情も消え失せた。

残ったのはただひとつ――終わらせなければという結論だけ。


良くなると信じることは、現実から逃げる身勝手な言い訳にすぎない。慣れ親しんだ安全な場所から抜け出したくないだけだ。俺は弱くて卑怯な臆病者だ。たとえ壊れた人生を取り戻せたとしても、結局結果は同じだろう。俺が贖える唯一の方法は、この世から消えること……死ぬことだ。


薬瓶に詰まった睡眠薬をすべて手のひらにあけた。

しばらくその錠剤を見つめていたが、ふと何かを思い出したように床へ視線を落とす。

タバコの灰で焦げついた一通の手紙が目に入った。

それを握りしめながら思った。


俺の最後の願いは、この手紙が遺書となり、彼女に許しを乞うことだ。


ごくり。


彼女の名前を心の中で何度も何度も呼んだ。

だが、もうその名前を口にできる時間は残されていないだろう。

俺が愛した女――オリビア。


手紙を見つめる俺の瞳はかすかに揺れ、

やがて静かに閉じられ、深い夢の中へと沈んでいった。

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