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第九話 神蝕


──祈りの影が、魂の輪郭を喰む夜に


ルミエルの空が、満ちかけた月に沈黙する夜──

ヴァミは、いつものように石畳の中庭に立っていた。


手にしているのは模擬剣。

だが、その刃に宿る熱は、かつての訓練用とは異なるものだった。


白銀に光る剣身が、揺らめく燭光を受けて、彼女の影を長く引き伸ばす。

その影の奥に、何かが“啼いて”いるような気がした。


「……父上の剣は、いつ私を受け入れるの……?」


誰にも聞かせるつもりのない独り言だった。

だが、その言葉は空気を震わせ、月下の空間を僅かに揺らした。


**


その頃──

ノンは宮殿西塔のテラスで、月を見上げていた。


手首には、女帝アミルネアから贈られたブレスレットが揺れ、風に花弁を乗せてきらめいた。


「ねえ、今日も誰か泣いてた気がするの。心の中で……言葉じゃなくて、もっと深い場所で」


ノンの傍らにいたのは、侍女のリュティア。

彼女は無言で頷いた。だが、その瞳には怯えがあった。


ノンの“共鳴”の力は、もはや心の調和にとどまらない。

人の奥底に眠る願望、嘘、秘密──それさえも拾い上げるほど、魔法は成熟しはじめていた。


「……わたし、全部を知りたくないのに。

でも、全部が聞こえるの。壊れそうな声、許されたいって願い、何かを求めてる孤独……」


ノンの笑顔が、ふと、曇る。


「それでもね、わたし、信じてる。誰かの心は、誰かを救えるって。

わたし、まだ信じたいんだ──だから、笑ってたいの」


**


書庫の最奥にある防御結界室──


リヴォンは、幾重にも重なる陣式を浮かべながら、静かに目を閉じていた。

空気は凍るように冷たく、蒼白い魔力の光が宙を漂っている。


「結界の限界を、突破するには……自己犠牲を超える意志が必要。

わたしは……それを、持てるの?」


幾何学模様の展開と同時に、水晶ミラグラスが微かに振動を始める。


リヴォンの指先に走る痛み。血が一滴、術陣に落ち、静かに消えた。


「……“人のために護る”なんて、きれいごと。

私は…お姉さまとノンちゃんのためにだけでいい。

この世界に、そういうわたしがいても、きっと……間違いじゃない」


彼女の視界に、新たな結界の構造が浮かび上がる。

それは“外部を弾く”のではなく、“内側から守る”式──


自己犠牲ではない、意志による盾だった。


**


その夜、ゼアクは《サルヴァネス王都》の地下にある謁見の間にいた。

石の玉座に腰かけるは、若き国王イルヴェル=エレスタ。

その目には未熟さよりも、計算と焦燥が浮かぶ。


「……貴様、なぜ奴らを見逃した?」


「見逃した? 違う、試したまでだ。

彼女たちは“兵”ではない。……まだ、“誰かを守る理由”を知ろうとしている」


イルヴェルは立ち上がり、ゼアクに歩み寄った。


「理由など要らぬ。

戦は、ただ勝てばよいのだ。手段など──犠牲の数で塗り潰せる」


「……あんたのそういうところが、血筋の知れぬ王と言われる所以だ」


その瞬間、兵たちが剣を抜いた。

だがゼアクは動かない。ただ、目を細めた。


「この戦は、滅びの戦争にはさせない。

あの三人は、選ぶ。戦わずに“守ること”を。

それを見届けるのが、俺の役目だ」


イルヴェルは黙って指を鳴らし、兵たちを下がらせた。

だがその目は、氷のように冷たかった。


「……お前が裏切るなら、ゼアク。

次は、殺す」


**


そして──その夜。


ヴァミは、父王の聖剣が眠る西の礼拝堂をひとり訪れていた。

陽の当たらぬ、石の祈祷室。壁には蔦が絡み、空気は湿っていた。


だがその中央、封印の間に置かれた黒鞘の剣だけが、冷たくも崇高な光を放っている。


「……私が“それ”になったとき、この国は……終わるかもしれない。

でも、“それ”にならなければ、守れないものがあるのも……知ってる」


彼女はその柄に手をかけかけて──止めた。


──まだ、その時ではない。


だが、月明かりに照らされた彼女の影に、黒い尾が揺れた。


風もなかった。

だが、それは確かに“動いた”。


──覚醒は、近い。


それが祝福か、呪いか。

それを知るのは、彼女たち自身しかいない。


月は静かに、光を削る。

その“蝕”は、姫たちの魂の奥にまで及び始めていた。





光の宮廷ルミエル──

その中心、金銀のドームに覆われた祈りの回廊では、夜半を過ぎても灯が消えることはなかった。


ヴァミ・ミラザリスは、己の影が長く伸びる白石の床の上で、独り、立ち尽くしていた。


模擬剣ではなく、父王の形見である“聖剣”──封印されたままの黒鞘が、今夜に限って冷たく嗤うように見えた。


彼女の心には、戸惑いと確信が同時にあった。


「私はまだ、恐れているのか……この力を。

けれど……それでも、引き返す気はない」


ゆるりと目を閉じると、視界の奥に閃光が走った。


かつて黒猫であった頃の記憶──

誰にも愛されず、寒い街角で夜を明かし、ただ三匹で寄り添っていたあの夜。

あのときの“月の声”が、今また囁く。


──もう、恐れるな。

その力は、おまえの心が選んだ。


風が、彼女のドレスの裾を揺らす。

その赤は、血よりも深く、意志よりも烈しかった。


ヴァミの瞳に、かすかに金の光が差す。


「……わたしは“人”として、選ぶ。

剣を抜くその日まで、ただ静かに、生きる」


剣にはまだ触れぬまま、彼女はそっと背を向けた。

その歩みは迷いなく、しかし、何かを惜しむように静かだった。


**


一方、ノンは東の空中庭園で、侍女リュティアと共に朝の花を摘んでいた。

頬には朝陽が触れ、銀のブレスレットが光を反射している。


そのとき──


「……あれ、誰かが悲しい夢を見てる」


ノンは花の間に立ち止まり、目を伏せる。


「言葉じゃないんだけど……誰かが、自分を責めてる声が、届いたの。

ううん……声じゃなくて、“想い”が、ここに届いた」


ブレスレットが淡く、優しい光を放った。

その光が空気に触れ、庭の花がいっせいにゆらめく。


ノンの“心の共鳴”は、もはや小さな癒しを超え、人々の痛みや願いを引き寄せる領域に達していた。


リュティアが恐る恐る尋ねる。


「姫様……もしかして、誰かの心が“重すぎる”時……」


ノンは、小さく笑った。


「だいじょうぶ。わたし、苦しくても……誰かの心に寄り添えるの、嬉しいから。

それって、魔法じゃなくて、わたしの“やさしさ”かもしれない」


その笑顔に、リュティアは言葉を失った。


**


城内の塔のひとつ、結界制御室。


リヴォン・ミラザリスは、新たに開発した“陣式式典法”を静かに試していた。

指先に浮かぶ術式は、以前より明らかに洗練されている。


従来の防御魔法は対象を“囲む”か“防ぐ”かであったが、リヴォンの新たな理論は「干渉による無力化」に至ろうとしていた。


敵の魔力そのものを断絶し、空間から消す。


「……戦いは、正義の名ではなく、“理”で終わらせるべきだ」


氷のような瞳に、ゆらぎが走る。


だが同時に、部屋の隅で眠る水晶球ミラグラスが、低く、警鐘のように響く。


リヴォンは口を引き結び、呟く。


「これはもう……“盾”ではないな。

私の術が及ぼす力は、“秩序そのもの”の改変だ」


その瞬間、窓の外の雲が流れ、月光が強く塔を照らした。

リヴォンの影が、二重に伸びる。


「……ヴァミお姉さまノンちゃん……。

どうか、わたしたち、選んだ未来を、間違えないで」


**


そして──

サルヴァネス王宮地下。

ゼアクは、王命を受けた暗部の部隊と共に、王国の古文書を燃やす任にあった。


炎の前で彼は立ち尽くし、焼け落ちる記録に目を伏せていた。


「……愚かな命令だ。だが俺は、止めない」


過去を焼き払えば、未来は変えられる──

それが、王イルヴェルの論理。


だがゼアクは、炎の奥でふと、ルミエルの三姉妹の顔を思い出していた。


──剣を構えぬヴァミ。

──心を読みながらも、優しく笑うノン。

──冷徹を演じながらも、静かに傷つくリヴォン。


彼女たちは、兵でも兵器でもない。

それでも、戦場に立たせねばならない運命にある。


「……俺が選ぶのは、命令でも忠誠でもない。

“覚悟”が、本物かどうか──見届けてやる」


彼は背後で燃え盛る文書に背を向け、暗がりへと歩みを進めた。


その足音は、誰にも聞こえぬ誓いのように、静かだった。


**


──ルミエルに、薄明かりが差し込む。


三つの月は重なりつつあり、蝕の予兆が空に刻まれ始めていた。

誰かが目覚めようとしていた。

誰かが壊れようとしていた。


次なる夜明けが、血と記憶をもたらすことを、まだ誰も知らなかった。

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