第六話 宵黯
──沈黙と影の間に、光が宿る
宮の塔が、血を吸った石のように沈黙していた。
あの激闘からわずか数時間。
《記録の間》の崩れかけた円環に立ち尽くす三姉妹の背に、月の光が冷たく降り注いでいた。
その光は、まるで誰かの赦しのように優しく、しかし残酷に現実を照らしていた。
「……多すぎる」
リヴォンが呟いた。
蒼白な頬に、血の飛沫が乾いていた。
床には、敵兵の亡骸が散っている。
魔導に焼かれ、剣に貫かれ、意思を持っていたはずの命たちが、いまはただ物言わぬ影となっていた。
ヴァミは無言で立ち尽くしていた。
その手にはまだ、封印を解いた“聖剣”が握られていた。だが、もはや誰を斬るつもりもなかった。
彼女の瞳には、まるで眠るように動かない敵兵士の少年の姿が映っていた。
「こんなに……殺すつもりなんてなかったのに……」
震える体が凍てつきそうだ
ノンが泣きそうな顔で、姉たちを見つめていた。
けれど誰も、すぐには言葉を返せなかった。
それは戦いの果てに訪れる、あまりにも静かな喪失。
──だが、すべては終わっていなかった。
ヴァミが、わずかに視線を上げる。
「……逃げた者がいる」
リヴォンも、残存する魔力の流れを辿って、うっすらと頷く。
「三、いや四……五名。地下の通風路を通って、南の森へ向かったかと。」
「ゼアクも?」
「はい。彼は……いたけれど。あれは明らかに“陽動”でした。が、ここにはいません」
ノンが、蒼ざめた顔で壁にもたれかかった。
「じゃあ……また来るの?」
「来るだろうな。必ず」
ヴァミは、赤く染まったドレスの裾を払い、剣を静かに鞘へ収めた。
その動作には、戦士の誇りと、罪の重みと、姫としての決意が混ざっていた。
──その頃。遥か南、逃げ延びた男は、一人馬を走らせていた。
ゼアク=レヴァレス。
月光に照らされる彼の横顔は、まだ少年の面影を残していたが、その瞳には長く暗い影が落ちていた。
「ふん……やはり“鍵”は、姫たちの中にあるのか」
彼の脳裏には、かつての記憶がよぎる。
《サルヴァネス旧宮廷》。
剥がれかけた天井、血のように濁った水をたたえる井戸のほとり。
そこに捨てられていた赤子──それが、かつての自分だった。
名も、家も、なかった。
拾われ、育てられ、殺すことを教えられた。
「王子だの、血筋だの……笑わせる」
彼は、かつてミラザリス宮の文献庫で拾った断章を今も懐に忍ばせていた。
──“人ならざる魂を宿す、三つの月の子”。
それこそが、王国を変革する鍵。
「俺は……その真実だけを奪いに来たんだ」
ゼアクの目に、再び静かなる炎が灯った。
宮へ戻った三姉妹を迎えたのは、誰よりも静かな人だった。
女帝アミルネア・ミラザリス。
銀の髪に、深紅のローブ。
石造りの回廊を渡る足音すらも、まるで誰かの夢の中のように静かで、美しかった。
三姉妹は、誰からともなく床に膝をついた。
どんな戦の後よりも、この母の前で、姿勢を正すことが当然のように思えた。
「お帰りなさい」
そのひと声に、ノンが泣き出してしまった。
「お母さま……たくさん、たくさん……殺してしまったの……」
アミルネアは微笑まなかった。
けれど、そっと彼女の髪に手を添えた。
「ノン。あなたは、まだ“人を殺した”のではない。
あなたの魔法は、心を繋ぐためのもの。
たとえその力が何かを止められなかったとしても……あなたが人である証ですよ」
「わたしは……」
「人として、泣ける。それでいいの」
次に、リヴォンが言った。
「母上……この国は、わたしたちに何を望んでいるのですか?
“真実”を、どこまで知っていて、どこまで私たちに背負わせたいのですか?」
アミルネアは目を伏せた。
「そろそろ、あなたたちに話すときが来たのかもしれませんね」
彼女は立ち上がり、背後の天井近くに浮かぶ《月のレリーフ》を見上げた。
それは三つの月──満ちる月、欠ける月、そして朧月を模した装飾。
「あなたたちは、確かに“人間として”この世に生を受けました。
けれどその魂は……数百年前、この王国が封じた“黒き月”の民のもの。
本来なら、猫として終わるはずだった命を、私は、奪った」
姉妹は息を呑んだ。
「母上……それは……」
「忌まわしい呪いと見る人もいるでしょう。
けれど私は、祝福だと信じた。
“命”は、生まれ方ではない。どう生きるかで決まる」
彼女の瞳に、わずかな涙が浮かんでいた。
「私は……母として、あなたたちを、人として育てたかった」
その声に、誰も逆らえなかった。
その夜、三姉妹は《薔薇の回廊》で月を見上げていた。
ヴァミが、ぽつりと呟いた。
「……あの戦場で、誰よりも自分が怖かった。
“聖剣”を握ったとき……もし、わたしが“人じゃなくなる”ならって」
「でもヴァミお姉さまはそれでも戻ってき」
ノンが手を伸ばす。
「何があっても“三人”でしょ?」
「……そうだな」
リヴォンも、初めて微笑んだ。
ヴァミは静かに、胸の奥で何かが燃える音を感じていた。
それは恐怖でも、怒りでもない。
──自分が、自分であることへの祈りだった。
そしてその祈りは、やがて剣となり、炎となり、王国を照らす光となるだろう。
その夜の月は、まるで黙ってすべてを見守るように、三人を照らし続けていた。
かつてこの国に「王」は存在していた。
だが、その王の名を記録に見る者はいない。
書かれた歴史よりも、語られぬ真実のほうが、重く、冷たく、そして美しいことがある。
女帝アミルネア・ミラザリスが、まだ「少女アミルネア」であった頃。
光の宮廷は今よりもさらに煌びやかで、そして、どこか荒れていた。
「アミルネア。おまえは何を見ている?」
父王がそう問いかけたとき、少女は星空を見ていた。
冬の夜、尖塔の上層から望む空は、まるで静止した銀の海のようで、言葉を持たぬ神々のまなざしが瞬いていた。
「この空の下にいる、誰かの祈りを見ていました」
「……ふむ、祈り、か。王に必要なのは剣と法だ。祈りは民のためのものだ」
その言葉に、幼いアミルネアは小さく頷いた。
けれど、胸の奥では違う声がずっと響いていた。
──剣も、法も、祈りも。どれも等しく、人の“正義”のかたちではないのか。
それが、彼女のはじまりだった。
王国は、王の死と共に、継承問題で荒れた。
王妃はおらず、子もなきまま、王座は空席となった。
混乱の中、王族に連なる血を持つ唯一の者として、当時わずか16歳のアミルネアが帝位に推されることとなる。
だが、帝冠を受け取る朝、彼女は自室にて、何者かに毒を盛られ、昏倒した。
──そして、目覚めた場所は、《銀灰の間》と呼ばれる地下の秘密の礼拝堂だった。
その薄暗い石室には、ひとりの老女がいた。
かつて《黒き月》と呼ばれ、王宮から追放された異端の予言者。
その存在を知らないアミルネアは目の前のことをなぜか平然と受け入れていた。
「アミルネア。あなたには選ばせる。
帝位を継ぎ、すべてを統べる“光”となるか。
それとも、知らぬふりをして、滅びゆく王国と共に名を沈めるか」
「……選ぶ理由があるのですか?」
「ある。あなたの血には、特別な流れがある。
遥か昔、王家が封じた“黒猫の魂”──
それが、いま再び、目覚めのときを迎える」
「……猫? ……呪われた獣を、私に守れというのですか?」
「呪いか、祝福かは、あなたの選び方次第。
あなたがそれを“人”として導けば、王国は救われる。
獣のまま恐れれば、滅びの種となる」
アミルネアはその場で予言者に向けて突きつけた。
「そんなものを信じられるほど、私は幼くない。だが、信じられる“声”にはしたいと思う。
私は女帝になる。誰よりも冷たく、誰よりも優しく」
その日から、彼女は政治を動かし、腐敗した貴族を粛清し、
民に食糧を与え、学問と魔法の研究に資金を注ぎ込み、
“獣の魂”を持つ者たちの命を密かに保護し始めた。
──そして数年後。
とある晩、月が三重に重なった夜。
アミルネアは、枯れかけた森の祠に捨てられていた三匹の黒猫を拾う。
「……まさか、本当に現れるとは」
その瞳に、月の光が反射していた。
三匹の黒猫は、赤子のように丸まりながら彼女のローブにくるまれ、静かに鳴いた。
「わたしの子として、生きなさい。
誰にも知られず、誰にも見捨てられず、
わたしの魂の延長として、この国を導くのよ」
それが──ヴァミ、リヴォン、ノンとの出会いだった。
そして今。
三姉妹が、女帝の隠された過去を聞かされた夜。
「母上……それをすべて、ひとりで?」
リヴォンの問いに、アミルネアは静かに笑った。
「国を守るとは、そういうこと。
誰かに重みを分けることが、常に正しいとは限らない」
ヴァミが立ち上がり、静かに女帝の手を取った。
「でも、わたしたちはもう、“誰か”ではありません。
わたしたちは、母上の選び取った未来です。
ならば、その重さ、三人で背負います」
ノンも、小さく手を重ねた。
「母上の重さなら、わたしでも少しは持てる気がする……」
「貴方たちが私の娘で心からよかった。
罪深い母をお許しください。」
アミルネアは堪えていた涙を流しながら崩れるように倒れ深々と頭を垂れ愛娘たちを抱き寄せた。
その夜、静かに吹いた風は、どこか春の香りがした。
そして、それが最後の安息となることを、誰も知らなかった