第五話「灼冠」
ルミエル──三つの月が照らす光の宮廷は、その朝、じっとりと重たい沈黙に包まれていた。
天蓋の奥にひそむ灰色の雲。尖塔群の隙間から差し込む陽光すらも鈍く、まるで遠雷の予兆を含んでいるかのようだった。
侍女たちは早朝から慌ただしく、まるで花の咲き殻を摘み取るように静かに、しかしどこか焦燥に満ちて広間を行き交っていた。
──今日、姫君たちは“これまでに一度も袖を通したことのない衣”を着る。
戦ではない。即位でもない。
だが、何かを失い、何かが始まる日であることを、この宮廷に仕える者たちは誰よりも知っていた。
ヴァミ・ミラザリスは、石造りの小礼拝堂でひとり着替えていた。
天井は高く、アーチ型の窓には三月を象徴する細工ガラスがはめこまれている。
その淡い青と緑の光が、部屋の奥へ差し込んでいた。
鏡はない。
この部屋には“己を見る道具”が存在しない。
代わりに、壁には古の聖人の石像が並び、誰かが祈るための静謐な空気だけが存在していた。
その静けさの中で、侍女の手がヴァミの背中のリボンを結び、最後の留め具に指を掛ける。
──深紅のドレス。
まるで血に濡れた薔薇のような布地は、光を吸い込み、その輪郭に重さと威厳を纏わせる。
裾には黒糸で精緻な炎の文様が刺繍され、肩口には銀の王家紋章が燦然と光を返していた。
「……重いな、やっぱり」
ヴァミは思わず呟いた。
だがそれはドレスそのものの重さではない。
その意味が、身体にのしかかっているのだ。
「姫さま……お美しいです」
侍女の言葉に、ヴァミは答えず、ただゆっくりと天窓を仰いだ。
その瞳には、幼い頃から馴染んだ石壁が映っていた。
剣の稽古を終えたあとの汗まみれの顔、父の形見を抱いたときの泣き顔──
今も心に棲む、名もなき自分の記憶。
(これが、“私”でいいのか?)
心の奥に沈むその問いは、まだ答えを得ていなかった。
広間では、すでにノンとリヴォンが揃っていた。
ノンは花のように微笑み、クリームが混ざった淡桃色のドレスに身を包んでいた。
胸元には母から贈られた銀細工のブレスレット。小さな音をたてて揺れるたび、どこかあたたかな魔力を漂わせていた。
「ヴァミお姉さま。おそいよ~!ねぇ見て、このケーキ。
今日だけ特別に朝から出してくれたんだって!」
見れば丸いロールケーキのようなものだった。
「あまり食べすぎると、よくありませんよ?」
と、冷静に指摘するのはリヴォン。
彼女は翡翠と灰色を基調とした幾何学文様のドレス。
その内側には、独自に改良した魔術結界の術式が幾重にも縫い込まれている。
「……なんだか、今日のお姉さまのお召し物は
騎士団の制服に見受けられますね。」
「皮肉?褒めてるの?」
「憧れを込めております」
姉妹のそんなやりとりに、ヴァミは小さく笑った後ため息をついたがそのかをは安心感を得ていたような口調でつづけた
「……変わらないな、お前たちは」
「変わらないようにしてる。のお間違いですわ。」
リヴォンはふっと目を伏せた。
「この国がどれだけ変わっていこうと、私たち三人だけは……変わらずに、ここに立っていたい」
「それが“ミラザリス家の冠”…?」
ノンの言葉は、いつも何気なく、核心を突く。
だがその会話を切り裂くように、遠くから轟音が響いた。
石畳の向こう、北塔方面。
ヴァミの表情が変わる。眉がわずかに吊り上がり、右手が反射的に剣の柄へと伸びた。
「……来たか」
使用人が飛び込んでくる。
「姫様!《記録の間》に侵入者です。敵国の魔導兵が、王家の書を狙って──!」
「やっぱり……!」
リヴォンの指が杖を握りしめ、術式が結界のように淡く浮かび上がる。
ノンはブレスレットを握りしめ、目を伏せる。
「……やめてほしいな。だって、私たちの“こと”が書いてあるんだよ」
「だったら、守るしかないだろ!!」
ヴァミの言葉は、低く、決意に満ちていた。
しかしその内奥には、まだ確かな“何か”が足りなかった。
己の出自、自分が人であり人でないという事実。
破壊の剣がその手に眠っていること──
そのすべてを、自分自身がまだ受け入れていない。
(戦える。だが、“何のために”戦うのか──)
その問いが、胸に刺さったままだ。けれども誰よりもはやく北塔へ向かった。
ルミエル宮、北塔。
敵軍は《サルヴァネス》──若き王ゼアク=レヴァレスが率いる魔導軍。
彼の瞳には冷たい炎が宿っていた。
その傍らに控える騎士、カデル・フォルグラス。
かつてこの国に仕えながらも、裏切者の汚名を着せられた男。
ゼアクは書架の前に立ち、手に取った一冊の書を開く。
「“黒猫の魂を人の器に継がせたる時、冠は血に灼かれる”──美しい予言だな。
お前たちは、嘘の上に王国を築いた。
ならば俺が、その嘘を焼き払う」
階段を駆け上がる三姉妹。
風が舞い、ドレスの裾がなびき、剣と魔術と調和の力が今、ひとつに結びつこうとしていた。
だが、まだ“決定的な目覚め”は訪れない。
ヴァミは感じていた。剣はただの道具に過ぎない。
“あの聖剣”を振るうその時まで、自分はまだ、未完成なのだと。
それでも彼女は、今を背負うしかない。
「……私がこの手で、決める。誰の命も、誰の真実も、他人には渡さない」
それは、まだ完全な“覚醒”ではなかった。
けれどその言葉に、血が、誇りが、王家の宿命が脈打ち始めていた。
──そして、戦火は刻を待たずして、広間を飲み込んだ。
夜が、燃えていた。
光の宮廷ルミエルに灯る燭台が、静かに、けれど確かに揺らめいていた。
それはまるで、これから起こる戦の前触れを告げるように、石壁に長い影を引き、広間を仄赤く染めていた。
──北塔はすでに落ちた。
敵軍の魔導騎士団が《記録の間》へと突入し、王家の封印文書が次々に開かれようとしている。
リヴォンが冷静に指を動かし、胸元に仕込まれた小さな魔導板を押し開く。
内部からは幾重にも重なる術式の光が展開され、彼女の身体を中心に、防御の結界が静かに広がってゆく。
「私の結界が保てるのは十五分。できるだけ早く書を回収して、退路を作ってください。」
「分かってる!!私が前に出る」
ヴァミが応じる声は、剣の鞘を抜く音と重なった。
その手に握られていたのは、父王の形見ではない。
いまだ封印されし“聖剣”ではなく、日々の修練で手に馴染んだ模擬剣──けれど、その切っ先に宿る意思は、誰よりも鋭かった。
階段を駆ける音が、石造りの塔に反響する。
ノンはブレスレットを握りしめ、声なき祈りを胸に、二人の姉の背に続いていた。
「ねえお姉さまたちは……怖くないの?」
その問いに、ヴァミは少しだけ足を止め、後ろを振り返る。
「……怖いさ」
「……私も怖いです。けれど私たちは“選ばれた者”だということです。」
リヴォンが静かにそう告げた。
彼女の瞳にはわずかに湿りが浮かんでいたが、その声は微塵も揺れていなかった。
──記録の間。
そこは王宮の最も深き地下にあり、時の女帝すらも容易に立ち入らぬ、王家の記憶が眠る場。
天井には星図が描かれ、床には古代語の円環が刻まれている。
銀灰の燭台が並び、重く厚い扉の先には、数百年の時を封じた“過去”が積層していた。
そしてその中央に立つ、若き王ゼアク=レヴァレス。
深紅の軍装に身を包み、その背後には数体の魔導兵が控えている。
彼の傍らに立つ騎士、カデル・フォルグラスは沈黙を守り、ただヴァミたちを迎え撃つ構えをとっていた。
「よく来たな、猫姫たち」
その嘲りの声に、ヴァミの目が細められる。
「……その言い方、気に食わないわね」
「気に入る必要はない。真実は残酷で、美しいものだ。
お前たちはこの王国の虚構だ。人ではない。
ならば、王座に座るなど、欺瞞そのもの」
「じゃあ──あんたは、誰ならふさわしいって言うの?」
ノンの声が、意外なほど鋭かった。
ゼアクは静かに笑う。
「この国は……すべてを知る者の手に渡るべきだ。
真実を知らずに笑う民など、家畜と変わらん」
瞬間、空間が裂ける音がした。
リヴォンの結界が敵の呪術と衝突し、空気がひしゃげ、振動が塔を駆け抜けた。
「始めよう。ここで、決着をつける」
ヴァミが剣を構えた。
模擬剣とはいえ、月光を反射し、赤いドレスの裾が炎のように揺れる。
「行くぞ!」
戦は、沈黙から始まり、咆哮で終わった。
リヴォンの結界が仲間を守り、ノンのブレスレットが一瞬の隙に敵の心を揺さぶる。
カデルの剣圧が迫りくるも、ヴァミは一歩も引かず、その剣を斜めに弾いた。
「お前の剣……かつて俺が女帝の近衛として鍛えた頃のそれと、同じ型だな」
「なら──その先を見せてあげる」
斬撃が交差し、火花が舞う。
だが、その戦いの最中。
──ヴァミの剣が、異音を立てて、わずかに軋んだ。
「……!」
「その模擬剣、もう限界のようだな」
ゼアクが笑う。
「ならば、“本物”を引く時だ──あの聖剣を」
しかし、ヴァミの手は動かなかった。
彼女は、自らの力の底を覗くことを、まだ恐れていた。
(私は……何者なんだ。黒猫の魂?人として生きる姫?
それとも、ただの剣士?)
迷いの中で、彼女の足元がわずかに揺れたその瞬間──
ノンが叫んだ。
「お姉さま──!」
振り返れば、リヴォンの結界が破られ、敵の呪術が彼女に直撃しようとしていた。
「─させるものか!」
ヴァミは、無意識に動いていた。
剣を放り投げ、リヴォンの前に立ち、そのまま抱きしめるように身体を覆った。
爆風。
鈍い衝撃。
空気が引き裂かれ、髪が舞う。
そして、沈黙。
──だが、ヴァミは倒れなかった。
「お姉さま……?」
リヴォンが目を開けると、姉の背中には黒い羽のような魔力の光がうっすらと浮かんでいた。
その中心に、かすかに、猫の瞳のような残響が灯っていた。
「まだ……終わらせない。私は、“何者”であっても構わない。
私は私だ。お前たちが触れていい存在じゃない!」
──そして、ヴァミの手には、封印されし“聖剣”が握られていた。
どこからともなく現れたその剣は、深紅の光を帯び、彼女の魂と呼応していた。
ゼアクの表情が、初めてわずかに揺れた。
「……まさか。あれを──」
「行くよ、みんな!」
ヴァミの剣が閃いた。
その刃は、空気を裂き、呪術を斬り裂き、偽りの歴史へと挑む光の一閃だった──。
戦いの余韻だけが残った《記録の間》に、静寂が戻る。
焼け焦げた魔導書、倒れた敵兵。
けれど、姉妹は立っていた。
ノンのブレスレットが優しく光り、三人の鼓動をそっと重ねる。
「三人でいれば、どこへでも行けるよ」
「はい。……たとえこの先、私たちが“人”でなくなる日が来ても」
「……私は、この国を守る」
ヴァミが静かに言った。
その剣は、まだ燃えていた。
だが、それは破壊の光ではない。
──誰かの未来を切り開く、希望の炎だった