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第四話「禍羽」


──それは、風が静かに揺れた昼下がりのことだった。


《ミラザリス宮》の西棟、陽のよく射す一角に、姫君たちのための小さなサロンがある。

厚い絨毯に包まれた床、天井は白亜の漆喰に淡金の唐草文様。

三面に張られた窓からは、バラの庭園が見え、その奥では噴水が柔らかく水音を奏でていた。


季節を問わず咲き続ける花々が風に舞い、

外から差し込む光はキャンドルのように暖かく、室内の空気を紅茶の湯気のように優しく包み込んでいた。


円卓の上には、三段の銀製スタンド。

一段目には焼きたてのスコーンとクロテッドクリーム。

二段目にはベリータルト、ローズゼリー、桃のコンポート。

最上段には、薄く焼いたレースのようなビスケットと、小さなマカロンが並んでいる。


そのすべてを用意したのは王宮の古株として仕える老執事──

名をエルダリウスという。


痩せた体に燕尾服を纏い、白銀の髪と山羊のような顎髭を携えた男は、

年老いてなお背筋を一分も崩さぬ鋼の威厳と、ひょうひょうとしたユーモアを兼ね備えていた。



優雅なティータイムは、姫君たちの束の間の「休戦時間」であった。


「お待たせいたしました、姫君方」


しわがれた声と共に紅茶を運ぶのは、三姉妹が「爺や」と親しみを込めて呼ぶ老執事、エルダリウス。


その佇まいは気品と威厳を湛え、どこか古の騎士を思わせる背筋の伸びた姿。

紅茶を淹れる手さえも、剣の鍔を握るように迷いがない。


「まずはノン様。お好きな“碧の葉”──香りの高いハーブブレンドです」


「やったあっ!ありがとエル!」


ノンはぱっと笑い、スカートをふわりと揺らして席についた。

白い手がカップを握り、鼻先で香りを吸い込んだ彼女の頬に、ほのかな紅が射す。


「リヴォン様には、ローズブレンド。昨夜は遅くまで書斎にいらしたと聞きました」


「ええ。調べたいことがありまして。つい。」


リヴォンは冷静な声でそう言いつつも、カップを手に取った指先には確かな柔らかさがあった。

彼女の膝上には分厚い魔法書が置かれていたが、紅茶を飲むそのひとときだけは、ページが閉じられる。


「そしてヴァミ様」


「……あぁ」


エルダリウスが置いたのは、濃い琥珀の色をした紅茶。

わずかに香るスパイスとシトラス、それは剣士の気を整えるかのような香気を孕んでいた。


「本当に三人とも……いつの間に、こんなに立派になられて」


エルダリウスはティースタンドに手を添えながら、ふと懐かしむように笑った。


「ノン様が最初に私の脚にしがみついて泣いたのは、城の階段で転んだ夜でしたな。

リヴォン様は、二歳のころに魔導書の文字を丸暗記して、私をひどく困らせたものです。

ヴァミ様は、……剣を振り回して食事の広間の花瓶を叩き割った夜を、まだ覚えておられますかな?」


ヴァミの口元が、ごく僅かにほころぶ。


「……あれは爺やが『剣は心を映す』と申したからですわ。」


「まさか実物で証明なさるとは、老いぼれも思いませなんだ」


ノンが声を上げて笑い、リヴォンの口元にも微笑が浮かぶ。


「それで……爺やは、ヴァミお姉さまにに本気で剣を教えていたのよね?」


「はい。それはもう、全身全霊で」


エルダリウスは遠い目をしながら、カップの湯気を見つめる。


「初めは“姫君に剣など”と申す者もおりました。ですが、ヴァミ様は黙々と毎朝稽古を続けられた。

雨の日も、雪の日も。あの赤いドレスの裾を濡らしながら、決して言い訳なさらなかった」


「今は亡き父上が“強くあれ”といつも申しておりましたし私自身もそう思って今日まで生きてきた次第。」


ヴァミは視線を落としたまま、カップに映る蒼の光を見つめていた。


「父上の剣──いつか、ちゃんと振るえるように」


「そうでございますな。姫様の剣筋は、今や王国随一の美しさ」


エルダリウスは、老いた手でそっとテーブルを叩いた。


「力ではなく、意志で剣を振るう者こそ、真に恐れられる剣士。

私が教えられるのは型だけでしたが、姫様が身につけたのは“誇り”です」


その言葉に、室内の空気が静かに澄んだ。


窓の外には、花が揺れていた。

陽の光がステンドグラスを通して壁に揺れ、その中で三姉妹の影が穏やかに交錯している。


「……でも、今がいちばん楽しいな」


ノンがケーキを口に運びながら言った。


「こうして、三人で、爺やと一緒に甘いの食べて、ぽかぽかで、……ね?」


「“今”は、いつも一番になるものですよ。」

リヴォンが静かに応えた。


「今の幸せは、明日の戦いで守るものかと。」


その言葉に、ヴァミが小さく頷く。

そして視線を上げ、爺やに静かに言った。


「エル。……ありがとう」


その短い言葉に、老執事は目を細めた。


「姫君方のおそばに仕えられることが、老いぼれにとって唯一の誇りです。

どうか、この時間が……少しでも、長く続きますように」


その瞬間だけ、時が止まったかのようだった。


だが、外の空気はゆるやかに変わっていた。

遠く離れた記録の間では、扉の向こうに静かなる侵食が始まり、

誰にも気づかれぬうちに、黒い羽がひとつ、床に舞い降りていた。


三姉妹の幸せが本物であるからこそ、それを壊そうとする者が必ず現れる。


──禍羽は、まだ風の中。

だが、風はすでに牙を剥き始めていた。



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