第二話 煙香
第二話 異香
夜明けと昼の間、王都ルミエルの空は決して青くなかった。
三つの月がまだ消え残るその刻、空は銀と群青が溶けあうように霞み、風は沈黙を連れて回廊を吹き抜ける。
白い尖塔が放つ影は城壁を濡らし、庭に咲き誇る花々――サーベリア、白薔薇、青紫のロザフィーナにしっとりと夜露を落としていた。
《記録の間》。
その名を、王国の兵の多くは忌避する。
そこはかつて、魔導文献と封印術の儀式が行われていた聖域であり、同時に、力を求めた者たちが狂気に堕ちた場でもある。
だが今、その空間で異変が起きている。
「……やはり、匂いが違うきがいたします。」
リヴォン・ミラザリスは、回廊の奥に佇みながら、微かに眉をひそめた。
無色透明であるはずの空気に、どこか香を焦がしたような異臭――
それは魔導結界の破綻を示す予兆でもあった。
白い石壁にはひび割れが走り、空間が微かに“たわんで”いる。
物理の理をわずかに捻じ曲げるこの現象は、自然のものではない。
「誰かがここを……開けようとしてる?」
彼女の声は静かで、決して震えてはいなかった。
だがその眼差しの奥には、ひとつの決意が宿っている。
《ミラグラスの瞳》――水晶球の奥に宿る紋章が淡く光る。
その術式はリヴォンの魔力と共鳴し、空間全体に淡い結界を張り巡らせた。
「……静かに。崩さず…」
彼女の手がふわりと宙をなぞると、白い靄のような結晶が扉の隙間から溢れ出す。
それは音もなく、まるで何かの記憶が具現化したかのように広がり、やがてゆっくりと消えていった。
(あの香り……たしか、あのときも)
数年前の記憶が、ふと脳裏を過る。
“あの夜”――三つの月が交わり、姉たちと共に何かを“思い出しかけた”夜。
自分たちは人間として生まれたはずだった。
だが、ほんの一瞬、黒い毛皮の感触が、爪の疼きが、世界を満たした。
それは夢か幻か、それとも真実か。
答えを知るのは、母――女帝アミルネアただ一人。
(でも、私は……)
そのときだった。
壁の隙間から、ひゅう、と冷たい風が吹き込む。
背後に誰かの気配を感じ、リヴォンは振り向いた。
「リヴォンお姉さま!」
元気なノンの声だ。
彼女はヴァミと共にやって来ていた。
「姉さまが、“何かあったら、みんなで動こう”って」
ヴァミが眉を寄せつつも、ノンの背に手を添えた。
姉妹三人、久しぶりに肩を並べた瞬間――
ゴウン――。
扉の奥で、鈍く低い音が鳴った。
誰かが“内側”から、叩いている。
「……動いてます? 扉の内側の封印が……」
リヴォンの瞳が鋭く光る。
その視線の先、重く閉ざされた石扉の継ぎ目から、香のような煙が立ち上っていた。
ヴァミはすぐに腰の模擬剣を握った。
まだ本物ではない。父王が遺した“聖剣”は、いまだ封印の間に眠っている。
「剣でどうにかできるとは限らないけど……準備はしておく」
「お姉さま。扉が開く前に」
ノンは、小さく息を吸い、銀のブレスレットに手を置いた。
それは彼女の魔法の源――“心の調和”を司る祝福具だ。
ほんの一瞬、ブレスレットが微かに振動し、
ふわりと暖かな風が三人を包み込んだ。
「……大丈夫。わたし、ちょっとだけ気持ちが分かるの」
「何を?」
「扉の向こう、きっと“誰かがさみしい”って思ってる。……そんな気がするの」
◇
そしてその夜。
王国の塔に咲いてはならぬはずの白い蓮の花が一輪、誰の手も触れぬまま、静かに開花した。
香の記憶が、風に溶ける。
そして運命の歯車は、誰にも知られぬまま、またひとつ――動き始めていた
その頃――
遥か東、星の見えぬ地。
終わりなき霧と硝煙の匂いが渦巻く、灰の王都《ディラ=ラシュ》
三つの月の恩寵が届かぬこの国では、灯火は魔導炉により生み出され、陽は人工の霧に覆われたまま昇らない。
漆黒の大殿にて、火のような衣をまとう若き統治者が、広間の奥に座していた。
肌は殺戮色に同じく、瞳だけが不自然に深い瑠璃色に輝いている。
名をアゼル・サルヴァネス。
サルヴァネス王国の若き「空位の座を埋めた者」――だが、王に相応しいかは疑問である。
「……そろそろ潮時だな」
空を仰いでそう呟いたアゼルの前に、もう一人の影が立つ。
長い外套に身を包み、顔を仮面で隠した謎の男――だが、その佇まいは“王”そのものだった。
「お前の望む『真実の火』を手に入れるには、あの女帝の心臓では足りぬ」
低く、穏やかな声。
まるで“古代から続く血の継承”そのものが語っているかのようだった。
「ならば娘たちか?」
「そうだ。ヴァミ、リヴォン、ノン……“あれら”はすでに人間ではない。だが完全な魔でもない。境界の存在だ」
「ふ……あの女帝は罪深いな。猫の魂を人に仕立て、王座に据えようとは」
「お前も同じだ。アゼル。お前の体に流れる血も、王のものではない。だが、運命が求めた」
アゼルは立ち上がった。
背はまだ少年のものだが、その影は老王のように重く深い。
「ならば奪おう。姫たちの中に宿る“月の記憶”を。
それを手にすれば、我が国は“日輪なき時代”を終わらせられる」
仮面の男――その正体は、名乗ることを許されぬ“影の王”であった。
かつてアミルネアと共に並び立っていた、王国ミラザリスの“旧き者”。
名をルフ=クロウレア。
血も記録も抹消されたもう一人の「王」である。
「では動かすぞ。蒼鉄の騎士団を」
「……その前に、一つだけ教えてくれ。
あの姫たちは、自分が“何なのか”を、もう知っているのか?」
「……まだ知らぬであろう。だが、月が開けば、必ず思い出す」
「ならば急がねばならんな。彼女たちが“人”のまま心を保っているうちに」
火の灯らぬ王宮の床を、紅いマントが静かに這う。
やがてその奥、誰もいない玉座の後ろから、何かが蠢き始めていた。
それは、長い眠りから目覚めたもの。